(2022年12月18日)
王室の役人の子が病気で苦しんでいました。イエス・キリストは30キロも離れた場所からその子をいやしました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
46節の「王室」は、ローマ帝国から委任されてガリラヤ地方などを治めていた、ヘロデ・アンティパスの王室のこと。
52節の「第七の時」は、午後1時のこと。
今回登場する地名、カナとカペナウムの位置は以下の地図をご覧ください。
イントロダクション
イエスさまがカナの町にいたとき、ヘロデ王に仕える役人の依頼を受けて、彼の息子をいやす奇跡を行なわれました。しかし、そのプロセスを見ると、イエスさまはこの役人に対して結構冷たい態度を取っておられます。
慈愛に満ちたイエスさまが、人に対してあえて冷たい態度を取られるときは、相手の信仰を成長させたいと願っておられるときです。イエスさまはこの役人の信仰をどのように成長させてくださったのでしょうか。そして、私たちの信仰をどのように成長させてくださるのでしょうか。役人の信仰の3つのステップを見ていきましょう。
1.ステップアップする役人の信仰
(1) しるしを見て信じる信仰
イエスのカナ滞在
「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である」(46節前半)。
前回は、イエスさまとサマリアのスカルという町に住んでいた女性との対話について学びました。イエスさまはその後スカルの町に2日間滞在して、人々を教えました。それから、ガリラヤ地方に戻られました。今回はその続きです。
イエスさまは故郷のナザレには戻らず、カナという町に向かわれました。
11月20日のメッセージで取り上げましたが、イエスさまは結婚披露宴で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行なわれました。ヨハネの福音書では、この奇跡が最初の奇跡と呼ばれています。
王室の役人の息子の病気
「さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった」(46節後半)。
王室というのは、ガリラヤ地方などを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アンティパス)の王室のことです。
ガリラヤ湖の西北岸にあったカペナウムの町に、ヘロデ王に仕える役人が住んでいましたが、その息子が病気にかかっていました。
役人の依頼
「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである」(47節)。
役人はイエスさまがカナにいらっしゃるということを聞きつけ、この方なら息子をいやしてくださるだろうと期待しました。カペナウムからカナまでは約30キロメートル離れており、しかも高低差が600メートルもありました。しかし、この役人は自らイエスさまの元に駆けつけてきました。それだけ息子を愛していたのです。
イエスの冷たい返答
「イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません』」(48節)。
イエスさまは、息子を何とかいやして欲しいと願う父親の言葉に対して、非常に冷たい態度を取られました。
実は、エルサレムやユダヤ地方で伝道なさったとき、またガリラヤに戻ってこられてから、イエスさまはユダヤ人たちの信仰の質の低さにがっかりしておられました。そのことがいくつかの箇所から分かります。
「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである」(2:23-25)。
「それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである」(4:45)。
人々が求めていたのは、奇跡でした。彼らがイエスさまに期待していたのは、自分が従うべき人生のご主人さまとしての救い主ではなく、自分たちの願いを聞いてくれる便利な存在としての救い主です。
一方、サマリアでは、神の民であるユダヤ人が軽蔑していたサマリア人たちが、イエスさまのことを心から救い主として受け入れました。しかも、彼らは奇跡を見たわけでなく、イエスさまの話を聞いて信じました。彼らの純粋な信仰と比較するにつけ、イエスさまは多くのユダヤ人たちの姿勢に「なんだかなぁ」という思いを強めておられたのでしょう。
「まさか、あなたもそうではあるまいね?」 イエスさまの役人に対する心の声が聞こえてきそうです。 イエスさまのこの心の声に役人はどのように応答したのでしょうか。
(2) 見ないで信じる信仰
あきらめない父親
「王室の役人はイエスに言った。『主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください』」(49節)。
イエスさまの態度は冷たいものでしたが、それでも父親はあきらめませんでした。カペナウムまで下ってきて、息子をいやしてくれるよう重ねて願いました。イエスさまはこのようにあきらめない人がお好きなようです。
後にフェニキア地方に行かれたとき、土地の女性に悪霊に憑かれた娘をいやしてくださるよう頼まれました。しかし、最初はその女性をまったく無視します。さらに「自分はユダヤ人のために来た」「子どものパンを取り上げて子犬に投げてやるのはよくない」などと、これまた結構冷たい対応をなさいました。それでも女性があきらめずに願い続けると、イエスさまは彼女の願いを聞いて娘をいやしてやりました。
私たちも、神さまからはっきりノーだと示されない限りは、あきらめないで祈り続けたいですね。
イエスのことばを信じて
「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります』。その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った」(50節)。
厳しい目で見ると、役人の信仰は不十分です。後に登場するローマ人である百人隊長は、瀕死のしもべをいやすのに、イエスさまがわざわざしもべのいるところまでいらっしゃる必要はないと言いました。ただ「いやされよ」というお言葉だけくだされば十分ですと。しかし、この役人は47節でも49節でも、息子の元に来てくれるよう願っています。
それでも、イエスさまはこの役人の願いを聞いて、愛する息子をいやしてやろうとお考えになりました。イエスさまは、私たちが不完全であっても、それでも愛し続けてくださいます。
そして、イエスさまは役人に、あなたの息子は治ると宣言し、このまま帰るようお命じになりました。すなわち、イエスさまは同行しないけれど、必ずいやされるからそう信じなさいとおっしゃったのです。
イエスさまはこの役人に、百人隊長が持っていたような信仰、イエスさまのみことばは必ず実現するという信仰を持ってもらいたいと願われました。奇跡を見てイエスさまを信じるのではなく、たとえ見なくてもイエスさまを信頼するような信仰です。
この役人はイエスさまの「いやされる」という約束を信じました。そして、その信仰を実践するために帰って行きました。さあ、息子はどうなったでしょうか。
(3) 体験に裏打ちされた信仰
いやしの報告
「彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた」(51節)。
役人がカペナウムに向かっている道中、彼を探しに来たしもべたちと行き会いました。そして、イエスさまがおっしゃったとおり、息子がいやされたことを知らされました。
いやされた時刻
「子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った」(52節)。
イエスさまと話したのは午後の遅い時間だったのでしょう。この父親はカナ、あるいは途中の町で一泊しました。ですから、子どもがいやされたのは「昨日の」第七時だとしもべたちは言いました。これは今の時刻で言うと午後1時です。
役人と家族の救い
「父親は、その時刻が、『あなたの息子は治る』とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた」(53節)。
一連のできごとを通して、この役人と家族はイエスさまを救い主だと認めました。そして救いを手にしました。
実はヘロデ王に仕える執事に、クーザという人がいます。この人の妻ヨハンナはイエスさまの旅に同行し(ルカ8:3)、イエスさまが復活したという天使の言葉も聞いています(ルカ24:10)。今回登場した役人がクーザだという可能性は高いと思われます。クーザとヨハンナ夫妻は、病気で死にかけていた息子を、イエスさまに30キロも離れた場所から言葉一つでいやしていただき、感激して援助者になろうと決めたのでしょう。
第二のしるし
「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた」(54節)。
ヨハネの福音書では、役人の息子のいやしが第二のしるしと呼ばれています。しかし、実際にはこれがイエスさまの2回目の奇跡というわけではありません。イエスさまは、エルサレム滞在中に多くの奇跡を行なっています(2:23、3:2参照)。それなのに、なぜ「第二」なのでしょうか。
しるしとは、イエスさまが救い主だということを証明する奇跡のことです。エルサレムの人々は、イエスさまの奇跡を見て、イエスさまが救い主だと信じました。しかし、「しるしを見て信じる信仰」のところで指摘したように、その信仰は奇跡さえ起こればイエスさまでなくてもいいという程度の、軽いものになりかねないものでした。
しかし、今回王室の役人と家族は、イエスさまが期待したような信仰を持ちました。その意味で、今回の奇跡は本当のしるしになったのです。
役人は、イエスさまの奇跡を見たから信じたのではありません。イエスさまは全知全能の神が人となられた救い主だから、その約束は必ず実現すると信じ、結果として奇跡を体験したのです。こうして、役人の信仰は実体験を伴ったものとなりました。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.御利益信仰を脱却しよう
人が神さまについて、イエスさまについて、聖書について興味を持つきっかけは様々です。が、多くの人は、人生において深い悩みを抱き、その解決を求めて教会の門を叩きます。病気のいやしを求めて、経済的な問題の解決を求めて、人間関係の悩みの解決を求めて、などです。
きっかけとして問題解決を願い、そのために奇跡を求めてもよいのです。最初は御利益信仰でもいいのです。しかし、気をつけていないと、悩みを解決してくれるなら、別にイエスさまでなくてもよいという態度になってしまう恐れがあります。
たとえ悩みがまったく解決されなかったとしても、祈っても祈っても自分の願いが一切聞き届けられなかったとしても、それでも自分の罪を赦し、神さまの子どもにし、永遠のいのちを与えてくださったイエスさまを愛し、お仕えしていく。そんな信仰が私たちに求められています。
以前も紹介しましたが、これは、ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、患者さんが書いたという有名な詩があります。
力を与えてほしいと神に祈ったのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るようにと健康を求めたのに
より良きことが出来るようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の中の人々から賞賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享受しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、
心の中で言い表せないものは全てかなえられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されていたのだ
イエスさまは、私たちを救って神さまの子どもにするために、ご自分のいのちさえ惜しまずに差し出されるほどに私たちを愛してくださっています。私たちはイエスさまの愛を信じましょう。
そして、聖書の中にちりばめられているイエスさまの約束の言葉をむさぼるように学び、そのまま素直に信じましょう。
そのとき、私たちの信仰はステップアップし、実体験を伴った確かなものに成長します。
問題が解決したから信じるのではありません。問題が解決する前に、まず神さまの愛と約束を信じるのです。そうして初めて実体験が伴います。