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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

人間を捕る漁師

イエス・キリストの生涯シリーズ14

ルカによる福音書5章1節〜11節

(2023年1月15日)

人間を捕る漁師にしてあげよう」とは、イエス・キリストが猟師だったペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを弟子に招く際に用いた言葉です。そのエピソードから弟子にふさわしい資質が何かを取り上げます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「ゲネサレ湖」はガリラヤ湖の別名。ティベリアの湖とも呼ばれます。舞台はカペナウムそばの湖岸です。

イントロダクション

イエス・キリストの生涯シリーズ7回目に、ペテロと呼ばれるようになったシモンとその兄弟アンデレが、イエスさまに弟子入りしたという話を取り上げました。おそらくゼベダイの2人の息子たち、ヤコブとヨハネもこのときに弟子入りしています。しかし、そのときはいわばパートタイムの弟子入りでした。今回の箇所で、彼ら4人はフルタイムの弟子になります。

マタイ4:18-22やマルコ1:16-20にもこのときのことが記されていますが、ルカの方が詳しく書かれています。そこで今回はルカの記録の方を見ていきます。

フルタイムの弟子になったことで、4人はいつもイエスさまの話を聞いて深く考えさせられたり、様々な奇跡を目の当たりにして感動したりできるようになりました。そして、自分が全知全能の神さまと共にいて、神さまのお働きの一部を担わせていただいているという、ワクワクするような人生を手に入れました。

私たちも、退屈な人生ではなく、いくつになってもワクワクするような人生を歩みたいですね。そのために、イエスさまは私たちを弟子になるよう招いてくださっています。

では、私たちは弟子としてふさわしい存在なのでしょうか。今日は、弟子になるための資格、弟子の資質について聖書から学びます。結論から言うと、イエスさまは皆さんのことを弟子にふさわしいとおっしゃってくださっています。

では、さっそく始めましょう。

1.フルタイムの弟子入り

湖上の説教

押し迫る群衆
「さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた」(1-2節)。

昨年の10月末、韓国ソウルでハロウィンのイベント中、狭い坂道に集まっていたたくさんの人々が折り重なるように倒れてしまいました。その結果158人もの人々が亡くなり、日本人にも犠牲者が出ました。多くの群衆が集まると危険です。

このときも、たくさんの人々がイエスさまの話を聞こうとして1箇所に集まっていました。その人々の心は期待と興奮に満ちあふれています。興奮状態の人間の行動は先が読めません。このままではソウルの事故のように、何かの拍子に群衆が倒れて死傷するかもしれません。あるいは、イエスさまに近づこうとした人たちが、勢い余ってイエスさまを湖に落としてしまうかもしれません。
湖上の説教
「イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた」(3節)。

危険を防止するため、イエスさまは漁師たちに船を出してもらい、湖の上から群衆に語りかけようとなさいました。

大漁の奇跡

シモンへの命令
「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい』」(4節)。

群衆に話をなさった後、イエスさまはシモン・ペテロに再び漁をするよう指示しました。それに対してシモンはどう答えたでしょうか。
シモンの2つの反応
「すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう』」(5節)。

シモンの答えは2つに分けることができます。前半は、プロの漁師としての意見です。

当時ガリラヤ湖で行なわれていたのは、一種の刺し網漁でした。これは魚の進路に網を仕掛けて、網目に魚のえらやヒレが引っかかって身動きができなくなったところを引き上げる漁法です。昼間になって網がよく見えるようになると魚は警戒しますし、そもそも深いところに潜ってしまって網が届く場所にいません。

プロの漁師であるシモンは、漁に関しては門外漢であるはずのイエスさまに、「夜通し働いて何一つ捕れなかったのに、明るくなった今になって網を下ろしても無駄だ」と言いたかったのです。

ただ、シモンはイエスさまのことを、先生、すなわちユダヤ教のラビとして尊敬していました。ですから後半で、「自分はイエスさまのおっしゃる意図が理解できないけれども、命じられたとおりにいたしましょう」と答えたのでした。その結果どうなったでしょうか。
考えられない大漁
「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった」(6-7節)。

常識では考えられないことが起こりました。魚が捕れたどころか、網が敗れそうなほどの大漁になったのです。シモンとその兄弟アンデレの船だけではとても網を引き上げられないので、岸辺にいたヤコブやヨハネにも声をかけて、2艘で引き上げたところ、それぞれの船が沈みそうなほどの大漁でした。

フルタイムの弟子へ

イエスへの恐れ
捕れた魚を船に積み込むと、シモンは我に返りました。このイエスというお方のすばらしさはすでに知っていたつもりになっていたけれど、それ以上にとんでもない力や権威に満ちておられるのだということを思い知らされたからです。

そこで、シモンは次のような反応を示しました。

「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(8節)。

約1年前、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、ヨルダン川の東で活動していたバプテスマのヨハネの元を訪れて教えを受けていました。そして、まずアンデレとヨハネが、バプテスマのヨハネによってイエスさまこそ約束の救い主だと教えられます。そして、アンデレとヨハネを通してそれぞれ兄弟であるシモンとヤコブもイエスさまと出会いました。

この4人は、バプテスマのヨハネが紹介したとおり、イエスさまのことを神が人となって来られた方、救い主だと受け入れました。ただ、人間の信仰にはいつでも成長の余地があります。

シモンたちが体験した漁の成果は、たまたま1、2匹が網に引っかかったというレベルではありません。普通なら漁に適さない真っ昼間に、船が沈みそうになるほどの大漁になるなんて、常識外れもいいところ、。イエスさまによって奇跡が行なわれたとしか考えられませんでした。

イエスさまの圧倒的な力を見せつけられたシモンは、この方が本当に人となられた神なのだということを痛感しました。

神さまは圧倒的な力を持ち、同時にきよいお方です。この方の前に出たならば、どんなに聖人と呼ばれる人であっても自分の不完全さを自覚しないわけにはいきません。

ですから、シモンは自分の罪深さを認めて、イエスさまに離れるよう願いました。罪ある人間がきよい神さまの前に出たら、さばきを受けなければならないと感じたからです。
他の3人の反応
「彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった」(9-10節然半)。

驚いたのはシモンだけではありません。彼の兄弟であるアンデレも、また仲間のヤコブやヨハネも同じでした。彼らもまた、イエスさまの圧倒的な力を思い知らされて、感動を通り越して震えおののくような思いをしたのです。
  • 今回の箇所にアンデレの名前は出ていませんが、同じできごとを記録しているマタイやマルコの福音書には登場しています。
イエスからの招き
「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです』」(10節後半)。

イエスさまはシモンに、そしてそこにいたアンデレ、ヤコブ、ヨハネにも聞こえるように、まず「恐れるな」とおっしゃいました。

聖書を読むと、神さまや天使が人の前に現れたとき、しばしば「恐れるな」と声をかけています。それは、自分はあなたを罰して滅ぼすために来たのではなく、むしろ祝福するために来たのだという宣言です。
イエスさまのきよさと力強さに恐れを抱いたシモンたちに、イエスさまはさばかないと約束してくださり、平安を与えようとしてくださいました。

そしてイエスさまは、シモンたちに人生の目的、人生の使命をお与えになりました。これまでは魚を捕っていましたが、これからは人間を捕るようになるという使命です。人間を捕るというのは、人間に向かってイエスさまが救い主だということを語り伝え、そのことを人々が信じられるように導いて救いをもたらすということです。

それまでのシモンは、時々イエスさまから話を聞いて教えを受ける立場でした。しかし今や、イエスさまと共に他の人々に神さまからのメッセージを伝える役割が与えられるということ、イエスさまと共に働く同労者になるということです。
4人の献身
「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」(11節)。

イエスさまから直接の招きを受けたシモンたち4人は、仕事も家も捨ててイエスさまに付いていくことを決めました。パートタイムの弟子だったのが、フルタイムの弟子に変わったのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。それは、イエスさまの弟子となり、イエスさまと共にワクワクするような人生を送ることができる人は、一体どんな人なのかということです。

2.弟子としてふさわしい資質

イエスのすばらしさに触れていること

シモンたちがパートタイムの弟子からフルタイムの弟子に変わったきっかけは、イエスさまの圧倒的な力を思い知らされたことでした。それは恐れにも似た感動を彼らの中から呼び起こしました。この感覚を日本語では「畏怖の念」と表現します。

その畏怖の念があればこそ、弟子たちは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)というイエスさまの呼びかけに、何もかも捨てて従いました。彼らはいやいや従ったのではなく、感動のあまりそうしないではいられなかったのです。

イエスさまのすばらしさに触れて感動していることが、弟子となるための要件です。
今の私たちは?
ただ、私たちは今、シモンたちのように直接イエスさまの姿を見たり、イエスさまの言葉を聞いたりすることができません。

しかし、福音書を読めば、そこにイエスさまの姿が生き生きと描かれています。新約聖書の使徒の働き以降にも、弟子たちがイエスさまについて書いた証言が記されています。また、イエスさまが生まれる前に書かれた旧約聖書の中にも、将来救い主として登場するイエスさまがどんなお方なのかということが書かれています。

私たちは聖書を読むことによって、今ここでイエスさまと出会うことができます。その圧倒的なすばらしさに触れることができます。

そして、私たちが祈るとき、イエスさまは私たちの内に住んでくださっている聖霊なる神さまを通して、私たちに語りかけ、ご自身のことを私たちに知らせてくださいます。

日々の聖書の学びと祈りによって、いつも新たにイエスさまと出会い、イエスさまのすばらしさに触れることが、弟子として生きていくための大切な土台です。聖書と祈りによって、イエスさまについて学び、いつも感動していたいですね。

イエスによる罪の赦しを体験していること

フルタイムの弟子となったシモンたち4人の漁師ですが、彼らはこれから救い主であるイエスさまと共に世界を救いに導く働きをしようとしていました。イエスさまが十字架にかかり、復活して一旦天にお戻りになると、イエスさまの代理として地上に残って働き続ける使命が与えられています。
弟子として不完全
では、彼らはそんな使命を果たすのにふさわしかったかというと、決してそうではありませんでした。今回の4人も、その後仲間になる人たちも、救い主の弟子と呼ばれるにはあまりにも欠けの多い存在でした。そのため、たびたびイエスさまをあきれさせることになります。
  • 彼らはイエスさまの教えをあまり深く理解できませんでした。
  • 彼らや他の弟子たちは、救い主がやがて実現すると預言されていた神の国の中で、自分こそ王である救い主に次ぐ地位と権力を手に入れたいという野心に囚われていました。その結果弟子たち同士で争うことさえありました。
  • イエスさまのためなら、たとえ火の中水の中などと言いながら、イエスさまが逮捕されるとみんなイエスさまを見捨てて逃げてしまいます。
イエスは彼らの不十分さを知らなかった?
では、イエスさまは彼らが弟子として不十分だということを、この段階で見抜けなかったのでしょうか。もちろんイエスさまは彼らが不完全だということを知っておられました。それでも弟子になって欲しいと願われ、声をかけられたのです。

シモンと他の3人の漁師たちは、イエスさまのすばらしさに触れたとき、感動を通り越して恐れを抱きました。以前もたとえで申し上げましたが、朝日を受けると部屋の埃や汚れが非常に良く見えるようになります。それと同じように、人となった神としてのイエスさまのすばらしさに触れたとき、シモンたちは自分がいかに罪深く、不完全で、直ちに滅ぼされても文句が言えない立場だということを思い知らされました。
赦しの宣言
そんなシモンたちに、イエスさまは「恐れなくてよい」と優しく声をかけ、シモンが神さまに赦されていることを宣言なさいました。シモンたちは、弟子として完璧な存在だったからイエスさまに呼ばれたわけではありません。不完全さを赦されているからこそ、不完全なまま弟子としてイエスさまにお仕えすることができたのです。

しかも、それは口先だけの気休めではありませんでした。イエスさまが私たちに宣言なさる罪の赦しは、イエスさまの十字架という歴史的事実に裏打ちされ、保証されています。

このときから約2年半後、イエスさまは十字架にかかって命を落とされました。しかし、それは救い主としての敗北ではありません。イエスさまがシモンたちの、そして私たちの身代わりとして神さまのさばきを受け、十字架で血を流してくださったことにより、シモンたちの、そして私たちの罪が赦されたのです。
体験談としての赦しのメッセージ
むしろ、人の罪が赦されるという神さまの愛のメッセージを他の人に届けるには、自分自身がまず罪を自覚し、それが赦されていることを知って感動している必要があります。

「噂によると、あそこのラーメン屋さんおいしいらしいよ」という伝聞ではなく、「こないだ食べにいったあそこのラーメン屋さん、ものすごくおいしいんだよ!」と体験談を語られた方が、より真実味が増しますね。救いのメッセージ、神さまの愛のメッセージも同じです。自分自身が体験している人からの話なら、他の人の心にも届きやすいのです。

だからこそ、イエスさまは罪を犯すことがない完璧なしもべである天使たちではなく、不完全な人間たち、私たちクリスチャンをあえて用いて、世界を救おうとしておられるのです。
弟子としての誇りは赦されているということ
使徒パウロは、元々聖書に通じ、様々な能力が与えられていたエリートでした。しかし、イエスさまを信じて弟子となったとき、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)と言いました。

私たちは、フルタイムの弟子としては不十分です。こんな私がイエスさまの弟子だなんて言ったら、イエスさまのお名前に泥を塗ることになりそうです。それでも、いやむしろそれこそが、私たちがイエスさまの弟子としてふさわしい資質を持っていることを表しています。

私、また皆さんは、十字架と復活を信じて罪の赦しを受け取りました。それによりイエスさまは、不十分な私たちのことをご自分の大切な弟子と呼んでくださり、一緒に働こうと手を差し伸べてくださっています。その手を取って、赦しの体験談を他の人たちに伝える働きを始めましょう。

イエスに仕えたいという思いを持っていること

弟子と群衆の違い
イエスさまの回りには、弟子と呼ばれる少数の人たちと、群衆と呼ばれる多くの人たちがいました。弟子と群衆の違いは何でしょうか。

あるときイエスさまは5千人の人たちを、2匹の魚と5つのパンだけでおなかいっぱいにするという奇跡を起こしました。つまり、食べ物をどんどん増やす奇跡です。その後、ご自分の後をついてくる群衆に対してイエスさまは次のようにおっしゃいました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(ヨハネ6:26)。

「しるしを見たから」というのは、ここではイエスさまのことを救い主だと信じたからという意味です。そうじゃなくて、この人についていったら、いつでもおなかいっぱい食べられると期待しているだけだと、イエスさまは人々の心を見抜いておっしゃったのです。

一方、5千人の給食で、弟子たちもおなかいっぱいになりました。しかし、その前にイエスさまは弟子たちに、食べ物を人々に配る働きをお命じになっています。

ここに、弟子と群衆の違いが象徴的に表されています。群衆はイエスさまから祝福を受けることをもっぱら期待して、イエスさまに付いていきました。しかし弟子たちは、もちろん祝福されることを求めていたし祝福も受けましたが、イエスさまと一緒に働くことも強く願い、実践したのです。

先ほども申し上げましたが、弟子だからといって立派で完璧であるわけではありません。弟子も群衆も、みんな不完全な罪人であり、イエスさまによって救っていただきました。しかし、弟子はただ受けるだけではなく、イエスさまと共に与える側になることを決意した人です。
コデイロ先生の言葉
以前、関東地方で「青年宣教大会」という、千人以上が集まるキリスト教の集会が行なわれていました。1999年の夏に私たち家族は須賀川にやってきて、この中通りコミュニティ・チャーチを開拓し始めました。その直前、私たちは青年宣教大会に参加しました。

そのときのメインスピーカーは、ハワイにある教会「ニュ−ホ−プ・クリスチャン・フェロ−シップ・ オアフ」の主任牧師であるウェイン・コデイロ先生でした。そのとき、私たち夫婦はコデイロ先生に事情を話し、祝福を祈ってもらったのでした。
その青年宣教大会でのこと。2日目朝の集会で、コデイロ先生が会衆(千人以上いました)にこう尋ねました。「フルタイムの伝道者は手を挙げてください」。すると、ぱらぱらと数本の手が挙がりました。

「これでは日本の救いのためには少ないですねぇ。今度は皆さん全員で手を挙げてみましょう」。千本以上の手が挙がりました。「皆さん、これが答えです。もう一度聞きます。フルタイムの伝道者は手を挙げてください」。すると500本ほどの手が挙がりました。

「まだまだ少ないですねぇ。もう一度、全員で手を挙げてみましょう」。再び千本以上の手が挙がりました。「いいですか、皆さん。これが答えです。もう一度聞きますよ。フルタイムの伝道者は手を挙げてください」。今度は全員が手を挙げました。

コデイロ先生は、それでもまだ釈然としていない人のためにこうおっしゃいました。「教師であれ、警官であれ、会社員であれ、そして牧師であれ、給料の経由点は違っても、源はみな同じ神さまです。私たちの給料は神さまから出ているのです」。
専業主婦や学生でも同じですよ、とコデイロ先生はおっしゃいました。自分は働いていなくても、自分を養ってくれている夫や親の給料は神さまから出ているのですから、と。

また、こうもおっしゃいました。「同じ立場の人から話を聞くと、そうでない人から聞くより共感しやすくなります。ですから、神さまが教師を救いたいと思われたとき、すでに救われた教師の中からフルタイムの伝道者を取ってその人の元に遣わします。また警官を救いたいと思われたとき、クリスチャンの警官の中からフルタイムの伝道者を取ってその人の元に遣わします」。
だから、私たちはフルタイムの伝道者、フルタイムの働き人、フルタイムの弟子でなければならないのです、と。

さらにこうもおっしゃいました。「そもそも、皆さんはパートタイムで神さまに愛されたいですか? パートタイムで救われたいですか? 神さまは私たちをフルタイムで救ってくださり、フルタイムで愛し、守り、導いてくださっています。だから、私たちも神さまにフルタイムでお仕えしなければなりません」。
あなたも与える立場に招かれている
皆さんもそうです。皆さんの多くは牧師とか宣教師とかいう立場ではないことでしょう。それでも、あなたもまたフルタイムの弟子であるようイエスさまから招かれています。

今週、「自分はフルタイムの弟子だ」という意識を持ち、フルタイムの弟子ならどのように行動することがふさわしいか考えながら生活しましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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