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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

権威ある者

イエス・キリストの生涯シリーズ15

マルコによる福音書1章21節〜28節

(2023年1月22日)

権威ある者のように語った」とイエス・キリストの説教は評されました。権威とは何か、イエスの権威とはどのようなものかを解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

21節の「カペナウム」は、ガリラヤ湖北岸にあった町。漁師であるシモン・ペテロとアンデレ兄弟の家(おそらくヤコブとヨハネ兄弟の家も)がありました。交通の要所でもあり、通行税を取る徴税所やローマ軍の駐屯地もありました。当時の人口は約1千人ほどだったと考えられています。イエスさまはここを拠点にガリラヤ地方での伝道を行なわれました。

現在カペナウムに残っている会堂跡は紀元4世紀に建てられたものですが、その下に今回の教えや奇跡が行なわれた福音書時代の会堂の土台があるのが発見されています。
22節の「律法学者」は、モーセの律法を研究して、モーセの律法を守るとは具体的に何をし、何をしないことなのかということを解釈して、人々に教える学者のことです。バビロン捕囚の頃に登場しましたが、長い年月が経つうちに様々な細かい規則を作り出していきました(福音書ではこれらを「言い伝え」と呼んでいます)、やがてはモーセの律法そのものよりも言い伝えを重視するようになりました。

23節の「汚れた霊」は悪霊のこと。彼らは元天使で、神さまに反逆して堕落したと考えられています。親玉はサタン(悪魔)です。サタンと悪霊たちは、敵である神さまを苦しめようと、神さまが愛する人間たちを罪に誘って神さまから切り離そうとしたり、時には取り憑いて肉体的・精神的に苦しめようとしたりします。

福音書には悪霊に関する記事がたくさん出てきますが、イエスさまが誕生する前や十字架にかけられ復活した後の時代は、ほとんど登場しません。これは救い主であるイエスさまの邪魔をするため、サタンが世界中に散らされていた悪霊たちの多くをイスラエルの地に集中させたからかもしれません。

イントロダクション

今回の箇所が教えているのは、イエスさまには「権威」があるということです。権威とは、聖書では「人に承認と服従を要求する霊的、精神的、道徳的、社会的または法的威力」のことです(新聖書辞典より)。

イエスさまはどのように、ご自分が権威者だということをお示しになったでしょうか。そして、イエスさまが権威あるお方だということは、今の私たちにどんな祝福をもたらすでしょうか。

1.イエスの権威

律法学者たちと異なる教え方

安息日の礼拝式
「それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた」(21節)。

1月8日のメッセージで、当時ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)で行なわれていた礼拝式の様子を紹介しました。
当時、安息日に行なわれていた会堂での礼拝では、モーセ五書(トーラー)を3年サイクルで朗読していました。そして、その箇所と関連のある預言書が読まれ、その後「奨励」と呼ばれるメッセージが語られます。朗読や奨励の担当者は、会堂司(会堂の管理者)が指名しました(使徒13:14-15参照)。
イエスさまも会堂司から指名されて、奨励をなさいました。
権威ある教え方
「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」(22節)。

参考資料にも書いたとおり、律法学者はモーセの律法を研究する学者のことです。イスラエルの国はソロモン王が死ぬと南北に分裂しました。そして北王国はアッシリアに、南王国はバビロンに滅ぼされ、それぞれ多くの民が外国に連れ去られてしまいました(捕囚)。
神の民であるユダヤ人がどうして国を失うことになったのか。捕囚された人々は、自分たちや先祖たちがモーセの律法を無視して、偶像礼拝に走ったり、不道徳な生き方を続けたりしたために、神さまから教育的指導を受けているのだと悟ります。そして、モーセの律法を大切にしようという気運が高まっていきました。

こうして、モーセの律法に何が書いてあるのか、そしてモーセの律法を守るとは具体的にどのような行動をすることなのかを研究し、人々に教える「律法学者」が誕生します。旧約聖書時代で最も有名な律法学者は、エズラ記やネヘミヤに登場するエズラです。

律法学者たちは、時代が下るに従ってどんどん新しい規則を生み出していきました。これを福音書は「言い伝え」と呼んでいます。モーセの律法の命令は、律法学者たちによると613あるそうですが、その1つ1つから数十から千数百もの言い伝えが生み出されてきました。そして、福音書の時代になると、モーセの律法そのものよりも言い伝えの方が重視されるようになっていました。

福音書時代の律法学者たちは、以前活躍した律法学者たちの教えを引用しながら語りました。「この律法の教えに対してラビAはこう言った。ラビBはこう語っている。さらにラビCはこう教えた。だから、あなた方はこうすべきである」というふうに。そうやって自分の教えを権威づけようとしたのです。

しかし、イエスさまの教え方は違いました。
  • 「まことに、まことに、(わたしは)あなたに言います」(ヨハネ3:5など)というふうに、ご自分の命令として人々に語りかけました。
  • しかも、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)などのように、短く印象的な言葉で命じています。
その教え方は、モーセの律法の中で神さまが「〜しなさい」「〜してはいけない」と命じていらっしゃるのを彷彿とさせるようでした。あるいは王が家来や国民に命令を下すのに似ています。22節で「権威ある者として」と語られているのは、ご自分が神、また王であるかのように教えたという意味です。

事実、イエスさまは三位一体の神さまの第二位格、子なる神でいらっしゃいます。神が人となって地上に来られたのが救い主イエスさまです。またイエスさまはやがて世界を統治する神の国の王です。イエスさまが、権威ある者のような教え方を当然のことでした。

イエスさまの教えを聞いた人々は驚きました。心をつかまれて揺さぶられるような思いになりました。しかし、まだ目の前にいて教えておられる方が何ものであるかを明確に悟ったわけではありません。ただイエスさまの迫力に圧倒されている状態です。

しかし、イエスさまの正体にいち早く気づいた者がいました。

悪霊による証言

汚れた霊の登場
「ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ」(23節)。

「汚れた霊」とは悪霊のことです。悪霊の起源については聖書のあちこちに断片的に記されているだけですが、それをまとめると次のような状況だと考えられています。
  • まだ地球やアダムが創造される前、神さまはたくさんの天使を創造なさいました。
  • 彼らのリーダーの1人に、後にサタン(悪魔)と呼ばれるようになる存在がいました。彼には、創造された地球の管理が任されました。
  • 後にサタンは傲慢になり、神さまにとって代わろうとして反逆します。
  • そのとき、全天使のうち三分の一がサタンに従って反逆、堕落しました。彼らが悪霊とか汚れた霊とか呼ばれる存在です。
  • サタンと悪霊の軍は神さまに戦いを挑みますが敗北し、地上に落とされてしまいました。
  • 直接戦っても神さまに勝てないことを思い知らされたサタンは、戦略を変更します。神さまの計画をぶち壊しにすることによって、全知全能であるはずの神の名誉を傷つけるという方針です。
特にサタンが目を付けたのが、神さまが愛してやまない人間たちです。人間に罪を犯させて神さまから引き離し、さらに救いの計画も台無しにしようと、配下である悪霊たちを使ってあの手この手で人間を攻撃しています。

悪霊たちの最も顕著な攻撃が、罪への誘惑です。罪を犯す前はそれを大変魅力的に見せ、しかも「やってもたいしたことない」と思わせます。そして、罪を犯すと逆に「お前はもう神に見捨てられた」と絶望させようとするのです。

時には、オカルト的な方法で攻撃することもあります。人間に取り憑いて内部から支配しようとするのです。いわゆる悪霊つきの状態です。悪霊に憑かれた人は、単なる精神的な病気では説明が付かないような状態になります。たとえば聖書の中には、太い鎖を引きちぎったり、自分や周りの人たちを傷つけたり、墓場に住んだり、獣のように昼も夜も叫び続けたりするような様子が描かれています。

カペナウムの会堂にも、そのような悪霊つきの人がいましたが、礼拝式の前半はおとなしくしていたようです。しかし、イエスさまが話し始めると、悪霊はその人の口を用いて叫びました。では、何と叫んだのでしょうか。
悪霊の言葉
「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です」(24節)。

人間の先祖であるアダムとエバは、サタンの誘惑によって禁断の木の実を食べ、罪を犯してしまいました。その結果、人間も、また人間の管理下にあった地球ものろいを受けてしまいました。しかし、神さまはすぐに人間や地球を滅ぼそうとはなさらず、救いの道を用意してくださいました。

そのとき、神さまはサタンに向かって次のような言葉を語られました。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」(創世記3:15)。

これは、救い主が誕生するという最初の預言です。救い主であるイエスさまは、十字架と復活によって人類に罪の赦しをもたらして呪いから解放するだけでなく、最終的にサタンや悪霊たちを滅ぼしてしまいます。サタンも悪霊たちも、創世記3:15の預言のことはよく知っていました。だからこそこの悪霊は恐れて震え上がり、どうか放っておいてくれと懇願したのです。

悪霊の追い出し

悪霊への命令
「イエスは彼を叱って、『黙れ。この人から出て行け』と言われた」(25節)。

当時、パリサイ人の中にも悪霊を追い出す人たちがいました。彼らは、根気強く悪霊に取り憑かれた人に話しかけ、なんとかその人に取りついている悪霊の名前を聞き出そうとします。首尾良く名前を聞き出せたなら、それから悪霊の名前を呼んで、出て行くよう命じました。

イエスさまも、外国の地方でゲラサ人の男性に取り憑いていた悪霊レギオンを追い出す際、その方法をとられたことがあります(マルコ5:9)。しかし、このたびイエスさまは、長々と悪霊と話をして時を無駄にしませんでした。「黙れ。出てけ!」 たった二言命じただけです。
出て行く悪霊
「すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った」(26節)。

そもそも悪霊は神さまに逆らう霊です。それでもイエスさまの命令に抵抗できず、悪霊は取り憑いていた人を解放して出て行ってしまいました。
人々の反応
「人々はみな驚いて、互いに論じ合った。『これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ』。こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった」(27-28節)。

人々はイエスさまの力に驚きました。そして、イエスさまが律法学者やパリサイ人、あるいは祭司たちのような、既存の宗教的指導者とはまったく違うタイプの教師だということを知りました。

それでも、イエスさまの教えに感激し、奇跡を感謝はしたものの、その後も彼らのほとんどはイエスさまを救い主だと信じることをしませんでした。最終的に、イエスさまの神の子としての権威、神の国の王としての権威を認めなかったのです。

そのため、後にイエスさまは彼らの不信仰を指摘して、やがてカペナウムが神さまのさばきを受けて滅びることになると嘆かれました。

「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ(マタイ11:23-24)。

実際、今カペナウムの町は廃墟となっています。

しかし、たとえカペナウムの人々が認めなくても、イエスさまは権威あるお方です。では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちはイエスの権威を認めよう

安心しよう

イエスさまは全知全能の神が人となってこられた救い主、何でも知っておられ何でもすることができ権威あるお方です。

イエスさまは、私たちのことをご自分のいのちを犠牲にしても惜しくないと思われるほど愛してくださり、私たちが幸せになることを心から願ってくださっています。しかし、どんなに幸せを願ったとしても、それを実現する力がイエスさまになければ意味がありません。

安心してください。イエスさまにはその力があります。たとえサタンや悪霊たちがどれほど邪魔をしようとも、イエスさまを通して実現しようとされる神さまの救いの計画、祝福の計画を押しとどめることはできません。

福音書には悪霊に関する記事がたくさん出てきます。ところが、世の終わりを描いた黙示録を除けば、聖書の他の箇所には悪霊に関する記述はほとんど出てきません。福音書の時代に悪霊がたくさん登場するのは、この時代にはサタンが世界中の悪霊たちをイスラエルに集合させていたからではないかと主張する学者がいます。救い主が誕生したので、救い主の働きを妨害し、あわよくば殺してしまうためです。

それでも悪霊たちはイエスさまの働きを邪魔できませんでした。

イエスさまは愛にあふれたお方であり、同時に権威あるお方です。ですからあなたは幸せになるに決まっているのです。あなたの人生の物語は、朝ドラのように途中経過はいろいろありますが、ハッピーエンドが決まっている物語です。それを信じて、安心しましょう。

イエスの権威を値引かないようにしよう

とはいえ、私たち人間は有限の存在であって、先を確実に見通すことはできません。すると、安心の種が欲しくなります。そうして誕生したのが偶像礼拝や占いやまじないの類いです。

聖書は聖書の神さま以外の神を礼拝することを、霊的な姦淫にたとえて禁じています。また、先祖礼拝も禁じています。先祖をいつも思い起こし、尊敬し、感謝すること自体は大切なことですが、神のように礼拝することはイエスさまの権威を軽く見ることになります。唯一絶対の神という地位から、多くの神々の中の1人という地位に引き下げることになるからです。

たとえ聖書が教える三位一体の神さま、父なる神さま、イエスさま、聖霊さまを礼拝するためだとしても、偶像を作って拝むのは禁止です。神さまのすばらしさを木や石や金属の形に押し込めてすべて表現するのは無理だからです。偶像を作って拝むことは、イエスさまの権威をかえって値引いてしまうことになります。

そして、占いやまじない、オカルトの類いも禁止されています。それは、聖書を通して与えられる神さまの約束を信じない行為だから。それもまた、イエスさまの権威を軽く見ていることになります。

確証が欲しくてついついそのようなものに頼りたくなりますが、それでも私たちクリスチャンは、聖書に書かれている神さまの約束に安心の土台を置きましょう。

イエスの威を借りよう

「虎の威を借る狐」ということわざがあります。これは
自分自身に権力や権威がなく取るに足らない者が自分が仕えている者や背後にいる権力者や強者の威光を利用して権勢をふるう・威張る者のことを意味する表現(実用日本語表現辞典より)
のことです。

昔、自分はケンカが弱くても、「オレの兄ちゃん、強いんだぞ!」と強がる子どもがいたものですが、あんな感じです。

私たちの知恵も理解力も力も有限で弱く、それこそ元天使である悪霊たちと比べれば取るに足りないような存在です。それでも、私たちのバックには、王の王、種の主、権威者の中の権威者であるイエスさまがいらっしゃいます。私たちは、獅子の威を借る子羊、イエスの威を借るクリスチャンです。
もちろん、人に対して傲慢に振る舞ったり、自分の欲望を満たしたりするためにイエスさまの名前、イエスさまの権威を使うわけではありません。私たちは、神さまが喜ばれる行ないをするために、イエスさまの権威、イエスさまの圧倒的な力をお借りするのです。

たとえば、大切な誰かが病気になったり怪我をしたりしたとします。私たちクリスチャンは、それがいやされるように神さまに祈り求めることができます。と同時に、イエスさまの権威をお借りして、病気や怪我に向かって、「イエスさまのお名前によって、病よ、怪我よ、いやされよ!」と命じることができます。

もっとも、日本では病人や怪我人の前で声に出してそれをやると、つまずく人がいるかもしれないので、そこは配慮しましょう。深い悩みを抱える人にクリスチャンが手を置いて「悪霊よ、出て行け!」とやったら、その悩める人は自分が悪霊扱いされたと勘違いして教会から出て行ったという笑えない話もあります。

別に大声を出さなくても、心の中で密かに命じても病気や怪我や悪霊には通じます。大切なことは、大声を出すかどうか、特別な声色を使うかどうかではなく、私たちがイエスさまの権威に信頼することです。

まとめ

私たちは小さく弱くとも、イエスさまは権威あるお方です。この方に信頼しましょう。

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