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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

安息日論争

イエス・キリストの生涯シリーズ19

マタイによる福音書12章1節〜14節

(2023年2月19日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

3節の「ダビデ」は、紀元前10世紀に活躍したイスラエルの王です。3-4節で語られている故事は、ダビデがまだ将軍としてサウル王に仕えていたとき、サウルにねたまれて命を狙われ、都を脱出したときのエピソードです(第一サムエル21:1-9)。

4節の「臨在のパン」は、幕屋(後の神殿)の聖所に供えられた12個のドーナツ型のパンです。このパンは安息日ごとに交換され、取り下げられた古いパンは祭司が食べました(レビ24:5-9)。

7節の言葉は、ホセア6:6からの引用です。

9-14節は、別の安息日での出来事です(ルカ6:6)。

イントロダクション

今回取り上げる記事のあたりから、イエスさまとユダヤの宗教的指導者たちとの対立が激しくなっていきます。特に今日は、その原因の一つとなった「安息日論争」と呼ばれる2つのエピソードを取り上げます。

ここから私たちは、神さまの命令の背後に、神さまの私たちに対するあふれる愛がこめられていることを学び、励まされましょう。

1.安息日を巡る論争

弟子が麦の穂を摘む

他人の畑で穂を摘む弟子
「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた」(1節)。

イエスさまは、弟子たちと一緒に麦畑のそばをお通りになりました。その日は安息日でした。安息日とは土曜日のことです。ユダヤの一日は日没から始まりますから、正確には金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日です。

すると、おなかをすかせていた弟子たちは、麦畑に生えている麦の穂を摘んで食べ始めました。平行記事のルカ6:6にも「弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた」と書かれています。

他人の畑の麦を食べたことになりますが、実はこの行為はモーセの律法で認められています。

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である」(レビ19:9-10)。
パリサイ人たちによる非難
「するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています』」(2節)。

パリサイ人たちは、弟子たちが安息日にしてはならないことをしていると非難しました。してはならないこととは、安息日に麦の穂を摘み、手で揉んで実を取り出し、それを食べることです。

モーセの律法で安息日にしてはならないと命ぜられているのは、働くことです(出エジプト31:14-15)。安息日は男性も女性も奴隷も家畜も、全国一斉に休むよう命ぜられています。一方、貧しい人たちが他人の畑の穂を摘んで食べることは、すでに解説したとおりモーセの律法で認められています。なのに、どうしてパリサイ人たちは弟子たちの行為を非難したのでしょうか。

それは、安息日に麦の穂を摘んで食べることは、モーセの律法では認められていても、パリサイ派の律法学者たちが作り上げた規則には違反していたからです。

元々律法学者は、イスラエルの民がモーセの律法を守ることができるようにするために、律法を研究しました。紀元前6世紀、神の民であるイスラエルがバビロンによって滅ぼされるという悲劇が起こります。

バビロンに捕囚されたユダヤ人は、こんな事態を招いたのは、自分たちや先祖たちがモーセの律法を無視して、偶像礼拝・異教礼拝を行なったり、自分勝手な生き方を続けたりしたせいだと自覚します。そして、これからはモーセの律法を守り神さまに従おうという気運が高まりました。

そのため律法学者たちは律法を研究し、律法にはどんな命令があるのか、また律法を守るとは、具体的に何を行ない、何をしないことなのかということを解き明かし、人々に教えたのです。当時の律法学者としては、旧約聖書のエズラ記やネヘミヤ記に登場するエズラが有名です。

しかし、長い年月が経つうちに研究の内容が変わっていきます。最初は律法を守るためという目的で補足的な規則を作っていたのが、次第に規則を作り上げることそのものが目的になっていったのです。

そして、イエスさまの時代には何万という細かい規則ができあがります。パリサイ人たちは自分たちがこれらの規則を守るだけでなく、民衆にもそれを守るよう教えていました。この細かい規則のことを、福音書は「言い伝え」と呼んでいます。

言い伝えでは、「安息日に働いてはいけない」というモーセの律法の命令について、してはならない労働行為のリストが1500も並んでいます。そして、安息日に麦の穂を摘み、手でもんで食べる行為もその禁止リストに入っています。穂を摘むのは収穫という労働、手でもむのは脱穀という労働、それを食べて胃に収めるのは貯蔵という労働だというのです。

日本人の私たちからするとバカバカしいにも程がありますが、当時のパリサイ人たちは大真面目にそう教えていました。パリサイ人たちの目には、イエスさまの弟子たちは神さまの命令を無視する極悪人であり、それを止めようとしないイエスさまは偽教師に映ったのでした。だから非難したのです。
ダビデの故事
「しかし、イエスは言われた。『ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか』」(3-4節)。

パリサイ人の言い伝えの多くは、モーセの律法と矛盾したり、律法の目的に反したりしていました。そこで、イエスさまはモーセの律法は完璧に守りましたが、言い伝えに関しては無視したり、わざと違反するようなことをしたり、言い伝えを守るよう教えるパリサイ人を非難したりなさいました。

ここでも、イエスさまはパリサイ人たちに反論するため、イエスさまはまずダビデの故事を持ち出しました。

当時のダビデは将軍としてサウル王に仕えていましたが、サウルはダビデの人気に嫉妬して、ダビデが自分を殺して王になろうとしているという妄想に取り憑かれました。そして、逆に命を奪おうとしますが、ダビデは王子ヨナタンの助けを得て都を脱出しました。
逃げている途中、空腹を覚えたダビデは、神の幕屋を守っていた祭司アヒメレクの元を訪れて、何か食べるものをくださいと願いました。ところがアヒメレクは食べ物を持っていませんでした。そこでアヒメレクは、新しいのと取り替えたばかりの供え物のパンをダビデに手渡しました。モーセの律法によれば、古い供え物のパンは本来祭司が食べるためのものですが、アヒメレクは空腹で困っているダビデをあわれんでそのようにしたのです

このようなことをしたアヒメレクについても、また供え物のパンを食べたダビデについても、聖書は彼らが罪を犯したなどと非難していません。パリサイ人たちも彼らを責めていません。

「安息日は聖なる日なんだから、おなかがすいていようとも関係ない。規則に従って我慢しろ」と命じるパリサイ人に対して、イエスさまは「モーセの律法はあわれみを大切にしているじゃないか。安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちではなく、あわれみを無視した規則を作って守るよう強要するあなたたちの方が律法に違反しているのだ」とおっしゃりたかったのです。
安息日に働く祭司の例
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか」(5節)。

さらにイエスさまは、祭司たちは安息日でも働いていると言いました。「仮にあなたたちの規則が正しいとしよう。麦を摘んだり手でもんで食べたりするのは労働だから安息日にしてはならないのだとすれば、安息日に神殿で働く祭司たちだって違反していることになるが、これはどうなのか」ではないかという問いかけです。

するとパリサイ人は次のように反論するかもしれません。「祭司は神に仕える特別な人たちだ。神殿で働くのは神さまへの奉仕であって普通の仕事とは違う」。

それを見越して、イエスさまは次のようにおっしゃいました。
神殿より偉大な存在
「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります」(6節)。

「宮より大いなるもの」とはイエスさまご自身のことです。神が人となってこられた救い主でなければ、自分は神殿より偉大だなんて誇大妄想も甚だしい主張ですね。

イエスさまは、「祭司が神殿で神に仕える特別な存在だから安息日に働いていいというのなら、私の弟子たちだって特別な存在だ。なぜなら、神殿よりも偉大な私と共にいて、私と一緒に神の国の奉仕をしているのだから」。

イエスさまはここで、安息日に働いてもいいとおっしゃっているわけではありません。イエスさまはモーセの律法を守りましたし、守るよう民衆にも教えました。ここでは、仮にパリサイ人の教えが正しいと仮定するとこういうおかしな矛盾が生じるということを示し、パリサイ人たちが教える言い伝えを否定しようとなさったのです。
神が喜ぶもの
「 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう」(7節)。

それからイエスさまは、ホセア6:6の言葉を引用なさいました。「真実の愛」と訳されている言葉は、ホセア書が書かれたヘブル語では「ヘセド」です。これは契約用語で、契約の当事者が契約で生じた義務を果たす際に表す熱心さ、誠実さ、優しさ、忠実さなどを指します。

契約をただ行なえばいいということではなく、どういう心、どういう態度で行なうかも大切だということです。

預言者ホセアを通して神さまはイスラエルの民に、「あなたたちはモーセの律法を守っていると言うが、いけにえをただ形式的にささげているだけだ。私に対する真実の愛、真実の忠実さなどかけらもないじゃないか。そんな心のこもっていないいけにえなど、私は喜ばない」とおっしゃったのです。

イエスさまは、安息日には仕事をせず休めという律法の規定についても、ヘセドをお求めになりました。「ただ仕事をしないことが求められているのではない。なぜ安息日に休むよう教えられているのかを知りなさい。神さまの命令を形式的に守るのではなく、どういう心で守るかを大切にしなさい」とおっしゃっています。

安息日は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念しています。

「七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は安息日を守るよう、あなたに命じたのである」(申命記5:14-15)。

エジプトで奴隷状態に遭ったとき、イスラエルの民は休みなく働かせられていました。しかし神さまの奇跡によって自由な民となったイスラエルの人々は、休むことができるようになったのです。安息日には仕事をせず休めという命令は、神さまが自由を与えてくださったことを喜び、感謝するために定められました。

また、安息日に休むのは一般のユダヤ人だけでなく、奴隷やイスラエルに寄留している外国人もでした。エジプトでイスラエルは異国人として迫害され、奴隷状態に置かれました。その苦しみを知っているイスラエル人は、自分たちのところにいる奴隷や在留異国人に優しくしなさいとモーセの律法は教えます。安息日は、他者に対してあわれみを示す日でもあります。
安息日の主
「人の子は安息日の主です」(8節)。

そして、イエスさまはとんでもない宣言をなさいます。これは、自分は神であると宣言するに等しい言葉です。

手の萎えた人をいやす

続く9-13節の出来事は、平行記事のルカ6:6によれば別の安息日に起こりました。このエピソードも、やはり安息日規定を巡るイエスさまとパリサイ人の争いです。

9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。
10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。
11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。
12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」
13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。


今度は、パリサイ人たちは露骨にイエスさまの罪を暴こうとしました。パリサイ人の言い伝えによれば、安息日に病気や怪我や障がいをいやすことは、安息日に働くことであり罪だったからです。

会堂に片手が動かない人がいたのも、たまたまではなくパリサイ人たちが連れてきたのでしょう。そして、イエスさまがその人をいやしたとき、安息日規定違反だと責めるつもりでした。

しかしイエスさまは、先ほどのエピソードでモーセの律法があわれみを大切にしていることを示されたのと同様、ここでもあわれみについて話をなさいました。

「たとえ安息日であっても、大切な羊が穴に落ちたら助けてやるし、それをあなたたちパリサイ人たちも規則違反だなどと責めはしない。では、羊よりもっと大切な人間をいやすのがどうしていけないのか。むしろモーセの律法は良いこと、すなわち困っている人を助けるあわれみの心を示すことを命じているのだ」とイエスさまはおっしゃいます。

そうしてイエスさまは、片手が動かない人をいやされました。

パリサイ人たちの反応

「パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」(14節)。

弟子たちが麦の穂を摘んで食べたエピソードでも、イエスさまが片手の動かない人をいやしたエピソードでも、 パリサイ人は誰もイエスさまの主張に反論できませんでした。

保育所や幼稚園の子どもが友だちに暴力を振るうのは、まだ言葉が発達しておらず、会話を通して利害の対立を解消できないからです。パリサイ人たちも小さな子どもと同じような精神状態に陥りました。言葉で対抗できない彼らは、実力行使に走ろうとしたのです。パリサイ人たちはイエスさまに対する憎しみを募らせ、ついに殺すための計画を立て始めました。
平行記事のマルコ3:6によるとこの計画には、ヘロデ党の人たちも加わっていました。ヘロデ党とは、かつてヘロデ大王がイスラエル全土を治めていたように、ヘロデ大王の死後ローマ人の総督によって治められるようになったユダヤ地方を、再びヘロデ王家に取り戻すための運動をしている政治的グループです。

ヘロデ党の人々は、神の国の王である救い主だと主張するイエスさまのことを危険視していました。もしローマ皇帝が機嫌を損ねたら彼らの夢が遠ざかりますし、下手をしたらローマ帝国による軍事介入を誘ってしまうかもしれません。

また祭司たちも、宮きよめの事件を起こしたり、「自分は神殿よりも偉大だ」などと言ったりするイエスさまのことを嫌悪しました。

こうしてやがてイスラエルの自治組織である最高法院(サンヘドリン)は、イエスという男は救い主などではなく、悪霊のかしらベルゼブルによって奇跡を行なう魔術師であると正式に結論づけます。そして、さらにその先に十字架刑が待っているのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.心をこめて自由をもたらす律法を守ろう

命令にこめられた神の真意を汲み取ろう

安息日には仕事をしないで休めというモーセの律法の定めを、パリサイ人たちはただ形式的に守ろうとしただけでした。そんな彼らに、イエスさまは心が大切だということを解かれました。また、その命令を与えた神さまの心も大切にしなければならないことを教えられました。

安息日規定は、神さまがイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放され、休むことができるようになったことを記念する日です。そのために、仕事をしないで休むよう命ぜられています。また、自分たちが神さまのあわれみによって自由が与えられたように、自分たちも奴隷や在留異国人など他の人にあわれみを示す日です。

ですから、安息日を守るように命ぜられたイスラエルの人々は、自由を与えてくださった神さまに感謝し、喜び、また他の人に対するあわれみの思い、愛の思いを育てなければなりません。

律法は束縛でなく自由をもたらすことを知ろう

イエスさまが十字架にかけられて以降、モーセの律法は完了して廃棄されました(エペソ2:11-19参照)。代わりに私たちには新しい自由をもたらす律法が与えられています。これは「キリストの律法」とも呼ばれています(第1コリント9:21)。

具体的には、イエスさまの十字架と復活以降に書かれた新約聖書の中に記されています。また福音書でも、イエスさまが十字架と復活以降の弟子たちに向けて語られた言葉の中に記されています。

今私たちが盗みをしないのは、モーセの律法に「盗むな」と書いてあるからではなく、キリストの律法で禁じられているからです(第1ペテロ4:15など)。

さて、イエスさまの兄弟ヤコブは、今の私たちに与えられているキリストの律法のことを「自由をもたらす律法」と呼んでいます(ヤコブ1:25、2:12)。律法、すなわち神さまの命令は、私たちを縛って不自由にするためのものではありません。逆に私たちをさまざまな束縛から解放して自由にするためのものです。
「もうそんなことはしなくていい」というメッセージ
故・古川第一郎牧師が、モーセの十戒に書かれている禁止命令について、それは「〜するな」ということではなく、「もう〜しなくていいよ」というニュアンスなんだおっしゃいました。

たとえば、聖書は異教礼拝や偶像礼拝を禁じています。それは、「もう神を求めて捜し回らなくてもいいよ。命も力もない偶像なんて拝まなくていいよ。あなたを造り、あなたを愛しているこの私があなたの神となり、あなたを赦し、あなたを私の子どもとし、必ず幸せにするのだから」という意味だと。

同様に、
  • 盗むなではなく、盗まなくてもいいよ。なぜなら、そんな人を傷つけるような真似をことしなくても、神さまが必ず幸せにしてくださるのだから。
  • 姦淫するなではなく、姦淫なんかしなくていいんだ。なぜなら、そんな自分や他の人を粗末にし、またバレてひどい目にあうリスクがあるようなやり方なんかしなくても、本当の喜びを神さまが与えてくださるのだから。
  • 安息日には仕事をするなではなく、この日は仕事をせず休んでいいんだよ。なぜなら、神さまがあなたを奴隷状態から解放して、自由を与えてくださったのだから。
これはかつてイスラエルに与えられ、今は廃棄されたモーセの律法だけではなく、今の私たちクリスチャンに与えられているキリストの律法でも同じです。神さまの命令は、私たちを解放して自由にし、幸せをもたらすために与えられました。

感謝し、喜ぼう

ですから、私たちは神さまの命令の背後に、私たちを幸せにしたいという神さまの熱い思いを見いだして、感謝し、喜びましょう。そして、心をこめて神さまの命令を守りましょう。

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