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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神の国の市民の特徴

イエス・キリストの生涯シリーズ21

マタイによる福音書5章1節〜16節

(2023年3月5日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「その群衆」とは、イスラエル各地からイエスさまの元にやってきた人々です(4:25)。

1節には「山に登られた」とありますが、平行記事のルカの福音書には、「それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった」(ルカ6:17)と書かれています。山から平地(山の中腹の平らになっているところ、または湖岸近く)に降り、そこで集まってきた人々をいやした後(ルカ6:18-19)、再び高いところに登って説教なさったのでしょう。
マタイの記録を山上の説教、ルカの記録を平地の説教として、別の出来事だとする説もありますが。

イントロダクション

大勢の群衆がイエスさまのところにやってきました。するとイエスさまは、山に登って腰を下ろされました。これはこれからメッセージを語るという意味です。弟子たちがそばに集まってきたので、イエスさまはいわゆる山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる一連のメッセージを語り始めました。ですから、群衆も聞いていたでしょうが、主な聴衆はイエスさまの弟子たちです。

(画像引用元:Wikipedia
この山上の説教は、救われるために守らなければならない命令ではないし、将来神の国が実現したときに守るべき法律でもありません。主な内容は、モーセの律法についての、救い主であるイエスさまの解説です。特に、パリサイ人たちが教えていたことと対比して述べておられます。

モーセの律法は、出エジプト後からイエスさまが十字架にかかるまでの間、ユダヤ人が守るよう神さまが与えたものです。今は完了して廃棄され、キリストの律法と呼ばれる新しい命令が与えられています。具体的には使徒たちの手紙で教えられていることと、イエスさまが将来の教会の信者に向けて語られた命令です。ですから、今の私たちが山上の説教の内容そのものを守る必要はありません。

しかし、ここには神さまの命令を私たちがどのように受け取ったらいいかを知るヒントがたくさんちりばめられています。山上の説教を読むことで、救われた私たちに与えられているキリストの律法についても、イエスさまがどんなことを期待していらっしゃるか深く知ることができます。

そして、以前も申し上げましたが、神さまの命令と約束は表裏一体です。山上の説教を読むことで、私たちは自分たちに与えられている約束についても深く知ることができるようになります。

これからしばらく山上の説教を取り上げることになりますが、今回はその冒頭部分をご一緒に読んでいきましょう。

1.天の御国の市民たち

冒頭部分で、イエスさまは「神の国」の市民の特徴について述べています。神の国とは、救い主が地上に実現すると預言されている理想的な王国のことです。マタイの福音書では「天の御国」とも呼ばれています。また、黙示録20章から1千年間続くことが分かっているので「千年王国」とも呼ばれます。

パリサイ人たちは、ユダヤ人として生まれれば、全員自動的に神の国に入る資格を手に入れることができると教えていました。そして、すべてのユダヤ人が1日でも律法を守ったら、救い主が来て神の国が実現するとも教えていました。しかし、イエスさまはそれとは違う教えをなさいました。

8つの幸い

まずイエスさまは、神の国の祝福を味わうことができる人たちが、どんな特徴を持っているかについて語っておられます。ここには8つの特徴が挙げられています。
(1) 心の貧しい者
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(3節)。

日本語で「心が貧しい」という場合、精神的に卑しいとか心が狭いとかいうような悪い意味で使われます。しかし、聖書が「心が貧しい」という場合は、神さまが喜ばれる性質です。

この箇所以外では、「心の貧しい者」は詩篇の2箇所に登場します。ユダヤの詩の特徴は「対句」と言って、2つのフレーズが1セットになって登場します。2つのフレーズは同じことを繰り返して語る場合もありますし、まったく逆のものを比較する場合もあります。これを踏まえて、詩篇の2箇所を見てみましょう。
  • 「【主】は心の貧しい者を支え悪しき者を地面に引き降ろされる」(詩篇147:6)。こちらは、「心の貧しい者」が「悪しき者」と対照的な存在として描かれています。 つまり肯定的な意味で用いられているということです。
  • 「心の貧しい者たちよ見て喜べ。神を求める者たちよあなたがたの心を生かせ」(詩篇69:32)。ここから、「心の貧しい者」が「神を求める者」と同様の意味で用いられていることが分かります。
「心の貧しい者」とは、自分の正しさやきよさによっては、神さまに認められ神の国に入る資格が得ることなどできないと自覚している人のことです。

そういう人は「神を求める者」となります。自力救済をあきらめ、神さまによって罪を赦され、救っていただくしかないことを知っているからです。そして、そういう人にこそ神の国の祝福は与えられると、イエスさまは約束しておられます。
(2) 悲しむ者
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(4節)。

ここで言われる悲しみは、自分の身に起こった災難について悲しむことではありません。ここは3節からの流れで解釈しなければなりません。心の貧しい人は、自力救済は不可能なほどに、自分は罪深いということを自覚しています。そんな自分の罪深さを悲しむのです。
しかし、その人の悲しみは必ず慰められ、喜びに変わります。なぜなら、罪を赦されて罰を受けないどころか、祝福に満ちた神の国の市民権を与えられるからです。
(3) 柔和な者
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(5節)。

「御霊の実シリーズ」の柔和のメッセージでも触れましたが、柔和という言葉は謙遜と訳すこともできます。自分の罪深さを知る人は、傲慢さを捨て謙遜な生き方をするようになります。

また、罪深い自分が神さまによって一方的に赦され、愛され、神の国の市民権まで与えられたということを喜ぶ人は、他の人の失敗や欠点に対して柔和に対応することができます。

イエスさまは、そういう人は本当に神の国の市民となり、神の国の中に自分の土地を与えられ、そこに住むことができると約束なさいました。
(4) 義に飢え渇く者
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(6節)。

自力救済をあきらめ、神さまの赦しを受け取った人は、自分自身が考える正しさではなく、神さまがお考えになる正しさ、すなわち神の義を求めるようになります。しかも、飢え渇いている人が食べ物や飲み物を慕い求めるような激しさで求めるようになります。

そのような人は満ち足りるとイエスさまはおっしゃいました。お金に満ち足りるのではありません。神の義に満ち足ります。すなわち、私たちの内側が聖霊さまによってきよめられ、少しずつイエスさまに似たものに変えられて、神の国の市民にふさわしい行動ができるようになるのです。
(5) あわれみ深い者
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」(7節)。

神の国の市民権を与えられた私たちは、少しずつイエスさまに似たものに変えられていきます。イエスさまの行動の一番の特徴は愛です。私たちもまた、愛の人に変えられていき、他の人に対してあわれみ深い行動を取ることができるようになります。
イエスさまは、そういう人たちは神さまのあわれみを受けて、神の国に入れていただけると約束なさいました。もちろん、人は行ないによって救われることはありません。あわれみ深い行動が救われて神の国に入る条件なのではなく、自分が神さまのあわれみを受けたことを知っているからこそ、ますます他の人に優しくできるということです。
(6) 心のきよい者
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」(8節)。

一方的な赦しを体験した人は、だんだんと罪深い行ないから離れていきます。内面がきよめられていくからです。それは人間の努力だけでもたらされるきよさではなく、聖霊なる神さまのお働きによります。

罪を離れ、心がきよめられるに従って、私たちはだんだんと神さまのことを深く知ることができるようになっていきます。私たちは肉眼で直接神さまを見ることはできませんが、「神を見る」と表現できるほどに、神さまが近い存在となるのです。

そして、やがて復活の時がやってくると、もはや罪の性質から完全に解放され、完全なきよさを手に入れることができます。そのとき、私たちは神の国において、愛に満ちた神さまとさらにお近づきになることができるのです。
(7) 平和をつくる者
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(9節)。

平和をつくるとは、他の人を赦し、その人との間に平和を築き上げることです。また、他の人同士が争っているのを仲裁し、両者の間に平和をもたらすことです。

ただ、そのように人を赦したり仲裁したりするためには、自分自身の心の中が平安でなければなりません。そうでないととてもそんなことをする余裕が生まれないからです。

しかし、神さまとの平和を手に入れた人、すなわち神さまによって自分自身の罪を赦され、「神を見る」と表現できるほど神さまとの親密な交わりを保っている人は、心の内に深い平安を味わいます。そして、それを原動力として、自分の外側に平和をつくりあげる働きをすることができるようになるのです。

そういう人は、救いを体験して神の国の市民となるだけでなく、神さまの子どもとさえ呼ばれるようになります。単なる国民でなく王子・王女です。
(8) 義のために迫害されている者
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(10節)。

これまで述べてきたような約束を手に入れた人は、まだイエスさまを信じていない人にイエスさまのことを伝えようとします。また、神さまが喜ばれる生き方をしようと心がけるようになります。

すると、必ずこの世から反発を食らいます。この世は基本的に神さまに逆らう性質を持っているからです。また、悪魔も全力で妨害しにかかります。その結果、いわゆる迫害を受けることもあります。
今の日本では、命まで取られることはほとんどないでしょうが、それでもさまざまな攻撃を受けることはつらいものです。しかし、最悪命を奪われることになったとしても、神の国の市民権を奪うことは誰にもできません。悪魔でさえも救いを取り消しにすることはできません。

ですから、イエスさまは迫害を受けたら喜びなさいとおっしゃいました。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです」(11-12節)。

地の塩・世の光

神の国の約束を手にした弟子たちに対して、イエスさまはこの世の人々に合わせて妥協するのではなく、迫害を恐れず神さまに喜ばれる正しい生き方を貫くよう励まされました。それが、地の塩・世の光のたとえです。その励ましは、現代の弟子である私たちに対しても向けられています。
地の塩
「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです」(13節)。

塩には防腐効果があります。私たちクリスチャンが神さまに喜ばれる生き方を積極的に行なうとき、この世の方が影響を受けて、正しい方向に変化していきます。しかし、迫害を恐れてこの世と同じような生き方をしていては、そのような良い変化をもたらすことができません。
世の光
「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(14-16節)。

このたとえも、私たちが迫害を恐れず、人前で神さまに喜ばれる正しい行ないをし続けるよう励ましています。それは私たち自身がほめられるためではありません。私たちを救い、内側から作り変えてくださった神さまがほめたたえられるためです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の恵みによって与えられた神の国の約束を信じよう

正しい行ないの原動力

私たちが、たとえ馬鹿にされたり罵られたりする危険があっても、それでも神さまの命令を守るのは、そうしないと救われないからではありません。私たちは神さまの一方的な恵みによって、すでに救われています。恵みの福音を信じたとき、すなわちイエスさまがこの自分の罪を赦すために十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活したということを信じたとき、私たちは救われたのです。
恵みの福音を信じた結果、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の刑罰を免れただけでなく、永遠に祝福される神さまの子どもとされました。さらに、将来イエスさまが建設なさる神の国の住民として迎え入れられるという希望も与えられました。

その喜び、希望こそが私たちを正しい行ないに導く原動力です。神さまからの罰に対する恐れではありません。

神の恵み

罪の赦しや神の国の希望は、私たちの修行や献金や努力によって、ごほうびとして与えられるのではありません。神さまからの恵み、一方的なプレゼントです。イエスさまが8つの幸せについてのメッセージで明らかになさったように、自力救済は無理だと認めて神さまの恵みに依り頼んだ人が、神の国に入る権利を手に入れます。そして、その喜びによって迫害されても正しい行ないをすることができるようになるのです。

この話をお読みください

私たちはいつも、救いは行ないによるのではなく恵みによるのだということを忘れてはなりません。

神の国の約束

私たちは、今の生活がどうであったとしても、将来神の国に入るという約束をいただいています。そこに土地と住まいを与えられ、ワクワクするような働きの場を与えられます。そして、この地上で行なったすべての良い行動に対して、神さまから報いをいただきます。

他の人には無視されるような行ないであっても、あるいは馬鹿にされたり罵られたりするような行ないであっても、イエスさまが喜ばれる行ないならば、イエスさまは決してそれを見逃さず、忘れず、必ず報いてくださいます。

ですから私たちは、かつてのユダヤ人がモーセの律法を学び、実践することを求められたように、聖霊さまの助けをいただきながら、聖書の教えを学び実践していきましょう。

最後に、 アメリカの公民権運動を導いたキング牧師の言葉を紹介して終わります。
「もし道路掃除の仕事があなたに回ってきたとするなら、ミケランジェロが絵を描いたように、一生懸命、道路を掃きなさい。
ベートーベンが作曲したように、一生懸命、道路を掃きなさい。
シェイクスピアが詩を書いたように、一生懸命、道路を掃きなさい。
あなたが一生懸命に道路を掃いた結果、天と地にいるすべての天使たちが働きの手を休め、こう言うようにしなさい。『ここに自分の役割を見事に果たした道路掃除人がいる』と。」

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