本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

旧約聖書を実現するため

イエス・キリストの生涯シリーズ22

マタイによる福音書5章17節〜22節

(2023年3月12日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

17節の「律法や預言者」は、旧約聖書を指す表現です。

20節の「ゲヘナ」は最終的に悪魔・悪霊・不信者が送られる場所で、そこでは神さまに対する罪の罰として苦しまなければなりません。

イントロダクション

今日も先週に引き続き、山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれている一連のメッセージを取り上げます。今回のメッセージを通して、聖書に記されている神さまの命令が私たちを幸せに導くことを確認しましょう。

1.イエスの律法解釈

旧約聖書の成就

イエスが来た目的
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」(17節)。

「律法や預言者」とは、旧約聖書のことです。当時は、新約聖書はまだ成立していないので、当時の人たちにとっての聖書全体です。

パリサイ人たちユダヤの指導者たちは、この頃になるとイエスさまに対する反発を強めていました。彼らは、イエスさまが聖書の教えを無視し、民衆を惑わしていると批判しました。
それに対してイエスさまは、自分は聖書を否定するためではなく、逆にそこに書かれている預言や約束を実現するために来たのだとおっしゃいました。

事実、救い主であるイエスさまは聖書の預言通りの時期に、預言通りの場所で誕生し、預言が語っているとおりの奇跡を行なっておられます。そして、やがて聖書の預言通りに十字架でなくなり、復活なさいます。その結果、聖書が約束する罪の赦しと永遠のいのち、またやがて神の国に住む権利がイエスさまを信じる人たちにもたらされます。
預言や約束は必ず実現する
「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」(18節)。

モーセの律法も必ず実現します。これは、モーセの律法を守らないと救われないという意味でもありません。今の時代だけでなく、旧約聖書の時代も、救いは行ないによらず信仰によって与えられました。

また、これはモーセの律法が今も有効だという意味でもありません。イエスさまが十字架にかかったとき、モーセの律法は廃棄され、新たにキリストの律法が私たちに与えられました。
  • キリストの律法(第1コリント9:21)とは、使徒たちが新約聖書で命じていること、また福音書の中でイエスさまが将来の教会の信徒たちに向けて命じておられることです。
「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:14-16)。

では、18節でイエスさまは何をおっしゃっているのでしょうか。それは、モーセの律法が与えられた目的がイエスさまによって完全に実現するということです。ここでは主な目的を3つ挙げます。
  1. ユダヤ人をユニークな存在とし、異邦人が神に興味を抱くようにする。
    伝道のスタートは他の人との違いを見せることです。律法に基づくユニークなライフスタイルは異邦人の興味を引き、さらにはユダヤ人が信じている神さまに興味を持つきっかけとなります。
  2. ユダヤ人を異教徒から遠ざけ、異教礼拝から守る。
    異教徒をまことの神さまに導くことがユダヤ人の使命ですから、自ら異教礼拝に陥っては話になりません。しかし、モーセの律法を守って生活すると異教徒と完全に分離することになり、信仰が成熟するまで異教の影響を断ち切ることができます。
  3. 自己救済は無理だと自覚させ、恵みを信じる信仰よる救いに導く。
    613もあるというモーセの律法を完璧に行なうことは不可能です。モーセの律法は行ないによる救いは無理だということをユダヤ人に自覚させ、やがて救い主が現れたときに、この方を信じることができるよう導きます。「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」(ガラテヤ3:24)。
指導者を始め、多くのユダヤ人は最終的にイエスさまを救い主だとは信じませんでした。しかし、一握りのユダヤ人たちがイエスさまを信じました。その結果、モーセの律法の目的は果たされることになります。
天国で偉大な人
「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」(19節)。

天の御国とは、世の終わりに救い主が地上に建設なさる理想的な王国です。神の国、あるいは千年王国とも呼ばれています。神さまによって罪を赦されて救われた人たちは、全員復活してそこに住むことができます。
救いは行ないによるのではなく、救い主イエスさまの恵みの福音を信じる信仰によります。そして、救われた後に罪を犯したからといって、救いが取り消しになることは決してありません。

ただし、地上で行なった良い行ないは神さまによって覚えられていて、報いとして神の国でプラスαの祝福をいただくことができます。

イエスさまはまだ十字架にかかっておらず、復活もなさっていません。ですから、山上の説教が語られた時期はまだモーセの律法の目的は果たされておらず、まだ有効です。ですから、イエスさまご自身はモーセの律法を完全に守った生活をしておられましたし、弟子たちや民衆にも守るよう教えておられました。

そして、モーセの律法を守り、また他の人に守るよう勧める人は、天の御国でプラスαの祝福をいただいて偉大な者と呼ばれると、ここでイエスさまはおっしゃいました。

救い主による律法解釈

律法学者やパリサイ人にまさる義
「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(20節)。

律法学者は、モーセの律法を研究して民衆に分かりやすく解説する人たちです。パリサイ人は、ユダヤ教のパリサイ派というグループに属する人のことで、律法学者のほとんどはパリサイ人でした。

律法学者たちが登場したのはバビロン捕囚の頃です。自分たちが国を失って外国に引っ張ってこられたのは、自分たちや先祖たちがモーセの律法を無視したせいだと自覚したユダヤ人たちの間で、律法を守ろうという気運が高まりました。こうして律法ではいったい何が命ぜられているのか、そしてそれらを守るというのは具体的にどういう行動をし、どういう行動をしないことなのかということを律法学者たちが研究して民衆に解説したのです。

しかし、長い年月が経つうちに、彼らは聖書に書かれていないような新しい規則をどんどん作り上げるようになりました。これを福音書は「言い伝え」と呼んでいて、やがて何万もの言い伝えができあがります。

言い伝えの中には、モーセの律法に矛盾したり、その精神に反したりするような命令もたくさんありました。そして、イエスさまの時代の律法学者やパリサイ人たちは、モーセの律法そのものよりも言い伝えの方を大切にするようになっていました。

20節のイエスさまの言葉は、そんな律法学者やパリサイ人たちには義、すなわち神さまに認めてもらえるだけの正しさはないと暗に批判していらっしゃいます。天の御国に迎え入れられる人、すなわち本当に救われる人は、パリサイ人たち以上の義を持っていなければならないのです。

そしてこのあと、「〜だとあなたがたは聞いています。しかし、私はあなた方に言います」という言い回しが続きます。すなわち、パリサイ人たちが教えていた律法解釈と、神の御子である救い主イエスさまが教える律法解釈が対比されているのです。
殺人に関する律法解釈の違い
「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」(21-22)。

実際に人に危害を与えて殺していなくても、他の人に対して心の中で怒りを感じることも殺人同様に問題だとイエスさまはおっしゃいます。怒りが高じて殺意となり、それが殺人という行動に表れるからです。
律法学者やパリサイ人たちは、表に現れた行動ばかりを重視していましたが、イエスさまは内面も重視しておられます。 まさに「人はうわべを見るが、【主】は心を見る」(第1サムエル16:7)のです。
姦淫に関する律法解釈の違い
「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(27-28節)。

ここでもイエスさまは、表に表れた行為だけでなく、神さまは心の内側もご覧になって問題になさるのだと教えておられます。
離婚に関する律法解釈の違い
「また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです」(31-32節)。

モーセの律法が離婚する際は離縁状を与えるよう命じているのは、決して簡単に離婚していいという意味ではありません。むしろその逆で、女性の立場が弱かった古代において、しっかりとした離婚手続きを踏ませることによって簡単に女性たちが捨てられないようにしたのです。また、男が離婚した妻に後になって心変わりしてつきまとうようになるのを防ぐ狙いもありました。

しかも、離婚できる理由は、「妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくな」(申命記24:1)った場合でした。この「恥ずべきこと」とは姦淫のことですが、律法学者の一部のグループは、食事がまずいというようなちょっとした理由でも妻を離婚していいと教えていました。

イエスさまは、姦淫以外の理由で妻を離別したら、妻に姦淫を犯させることになると言いました。モーセの律法が認める離婚理由が姦淫だけなら、それ以外の理由で離婚された女性も姦淫したことになってしまいます。本来離縁状に関する律法は女性の権利を守るために与えられているのに、福音書の時代にはその精神がないがしろにされてしいたのです。

このほか、誓い、復讐、隣人愛についても、イエスさまはパリサイ人たちとの解釈の違いを述べていらっしゃいます。

求められている正しさのレベル

父が完全であるように完全であれ
「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(48節)。

パリサイ人たちの律法解釈の間違いを指摘し、本来神さまが意図された解釈を教えたイエスさまは、最後に天の父なる神さまのような完全さを身につけよとおっしゃいました。これが天の御国に入るため、すなわち救いを体験するために必要な、「律法学者やパリサイ人たちにまさる義」、神さまに受け入れられるだけの正しさの基準です。

要するに、心も行ないも完璧でなければならないということです。そんなことが可能でしょうか? 私には無理です。そして、イエスさま以外のすべての人間が無理です。もしも、心と行動が完璧だということが救いの条件ならば、地上の誰も救われないことになってしまいます。

しかし、安心してください。モーセの律法の目的の3番目を思い出しましょう。律法は人をイエス・キリストに導く養育係です。律法を真剣に守ろうとすると、私たちは完璧ではないという事実を突きつけられます。そして、一方的に罪を赦していただかなければ救われないことに気づかされます。

幸いなことに、一方的な赦しは与えられました。救い主イエスさまが私たちの罪の罰を身代わりに受けるため十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。それが自分の罪を赦すためだったと信じた人は、本当に罪を赦され、神さまの子どもとされ、将来神の国に入ることができます。
そして、一方的に罪を赦していただき、救っていただいたことを知った人は、完璧にはほど遠い存在であることを自覚しながらも、完璧目指して一歩、また一歩と成長しようとします。すなわち、神さまの命令について学び、それを実践しようと奮闘努力するようになるのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.聖書の命令に神の愛を見いだそう

すでに救われていることを感謝しよう

もしも神さまの命令を守ることが救いの条件だと思っていたら、命令を守ることは私たちにとって重荷となります。しかし、イエス・キリストの恵みの福音を信じた私たちはすでに救われています。

以前、聖書の教えを1つのキーワードで表すとしたらどんな言葉を上げますかと尋ねられたことがあります。皆さんならどんなふうに答えますか? 私がその時答えたのは、「すでに」でした。
  • すでに私たちは神さまに愛されています。これから愛されるのではなく、すでに。
  • すでに私たちは救われています。
  • すでに私たちの人生には天の御国の祝福が始まっています。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。

まだ罪人であったときとは、私たちがイエスさまを信じて罪を赦され、神さまの子どもにしていただく前ということです。まだ私たちが神さまのことを無視して、自分勝手な生き方をしていたとき、すでに神さまは私たちを愛し、救おうと決めてくださっていました。その証拠が十字架です。私たちが救われるためにイエスさまは来られ、十字架にかかってくださいました。
刺身すくい?
以前も申し上げたことがありますが、私が教会に通い始めた頃、「あなたはイエスさまを信じるだけで救われる」という牧師のメッセージを聞くたびに、魚がいけすから網ですくい上げられるイメージが浮かんで仕方がありませんでした。

ところで、ある人たちは刺身の状態で網にすくい上げられると思っていらっしゃるかもしれません。実際には、刺身ではなく、生きたままの状態ですくい上げられます。それと同じように、私たちは完璧な状態になったら救われるのではなく、欠点だらけの今あるがままの状態で救われるのです。
私たちは神さまの命令を守るから、神さまに愛され、救われ、祝福されるのではありません。すでに私たちは愛されています。そのことをいつも覚えて感謝し続けましょう。

命令の目的を見いだそう

では、行ないによらずあるがままの状態で救われた私たちに、聖書がさまざまな命令をしているのはなぜでしょうか。それは、私たちが幸せに生きていくためです。

イエスさまは、モーセの律法は2つの命令に要約されるとおっしゃいました。全身全霊で神さまを愛すること、そして自分自身のように隣人を愛することです。神さまとの愛の関係を育てることも、他の人と互いに愛し合うことも、いずれも私たち自身を幸せに導きます。自分勝手な生き方は、その時は良くても結局私たちを不幸にします。

モーセの律法の中には、どうしてこんな変な命令があるんだろうかというものもあります。たとえば、割礼を受けろとか、ヒゲを剃ってはならないとか、着物の裾に房を付けろとか。それらの命令の背後にも、広く見れば異教の影響からユダヤ人を守ったり、異邦人に興味を持ってもらって伝道のきっかけにしたりするという、人を幸せに導く目的があります。

現在私たちに与えられているキリストの律法も、私たちを縛って不幸にするためではなく、幸せにするために与えられています。聖書を読んで神さまの命令を見つけたら、私たちを幸せにしたいと願っていらっしゃる神さまの愛の目的を見いだしましょう。そして、感謝しましょう。

喜んで従おう

神さまにすでに救われていることを知り、また神さまの命令の背後には私たちを幸せにしたいという神さまの愛の目的が隠されていることを知った私たちは、感動と感謝を抱き、喜びます。そして、神さまに喜ばれる生き方がしたいという願いを持つようになります。

聖書の命令は、時に私たちに「守りたくない」という思いを与えるときがあります。そんなときは、改めて自分がすでに神さまに愛され、救われていること、またその命令は私たちの幸せのために与えられたものだということを確認しましょう。そして、思い切って守ってみましょう。

この話をお読みください

命令の背後に、私たちに対する神さまの愛を見いだしましょう。それから、たとえ表面的にはつらくても、喜んで従いましょう。そして、自分も周りの人も幸せになりましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com