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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

主の祈り

イエス・キリストの生涯シリーズ24

マタイによる福音書6章7節〜13節

(2023年3月26日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

7節の「異邦人」は、ユダヤ人以外の民族のことです。

10節の「御国」は、救い主が世の終わりに実現する理想的な王国のことです。天の御国、神の国、千年王国とも呼ばれます。

イントロダクション

前回の箇所で、イエスさまは偽善者たちの行動を指摘なさいました。特に5-6節は祈りについて指摘です。偽善者はわざわざ人前で祈ることでほめられようとしますが、イエスさまの弟子はそんな真似をしてはいけません。

イエスさまはここでちょっと脱線して、異邦人の祈りと望ましい祈りの違いを指摘しておられます。そして、いわゆる「主の祈り」を教えてくださいました。いったいどんな内容でしょうか。 そして、私たちが祈る際に気をつけるべき点は何でしょうか。

1.主の祈りの内容

(1) 父なる神へ呼びかける

「天にいます私たちの父よ」(9節前半)。

私たちは、天の父なる神さまに向かって祈ります。

私たちの幸せのカギは、天の父なる神さまが握っておられます。神さまは全知全能であり、何でもご存じで、何でも行なうことができます。神さまがご計画なさったことは、たとえ悪魔が妨害しようとしても必ず実現します。

そのことを信じて呼びかけましょう。

(2) 神を賛美する

「御名が聖なるものとされますように」(9節後半)。

聖書の中で名前というのは、その名を持つ本人を指します。

「聖なるものとされる」とか「聖別する」とかいう表現が、聖書の中に頻繁に出てきます。この言葉には、他のものから分離するという意味があります。特に神さまが聖いという場合、神さまはあらゆる被造物と異なる特別なお方だという意味です。

ですから、御名が聖なるものとされますようにという祈りは、神さまが何者にも優ってすばらしいお方だという賛美です。そこで、他の日本語訳聖書では、この箇所を「御名があがめられますように」と訳しています。

祈りというと、私たちは色々と願い事を神さまに申し上げることだと思いがちです。もちろん神さまは私たちの願い事にしっかりと耳を傾けてくださいます。しかし、まずは神さまのほめたたえる祈りから始めたいですね。神さまのすばらしさを私たちが意識すればするほど、私たちは確信を持って祈ることができるようになります。

(3) 神の国の実現を求める

「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(10節)。

「御国」とは、救い主が実現すると預言されている理想的な王国、すなわち千年王国のことです。福音書では天の御国とか神の国とか呼ばれています。

千年王国では人同士が傷つけ合ったり、人が自然を破壊したり、自然が人に牙を剥いたりすることなく、みんなが調和しながら平和に生活することができます。千年王国では、神さまのみこころが完全に行なわれるからです。

しかし、今はまだ千年王国は実現していません。世界のあちこちに痛みがあり、争いがあり、悲しみがあります。千年王国が実現するのは、復活して天にお帰りになった救い主イエスさまが、もう一度地上に帰ってこられるとき、すなわち再臨の時です。イエスさまが早く帰ってこられて、理想的な千年王国を実現してくださるよう祈りましょう。

あるときイエスさまは、「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)とおっしゃいました。これは、千年王国が物理的に実現するわけではないという意味ではありません。
  • 福音書時代のユダヤ人が公にイエスさまを拒否したため、その時代に千年王国が物理的に実現することはなくなり、ずっと未来のユダヤ人の時代に先送りされてしまった
  • しかし、千年王国の祝福は、信者の心の中から始まり、世界中に広がろうとしている
という意味です。私たちの心の中に、千年王国で実現する神さまとの深い交わり、他の人との平和な関係、自然との調和などが実現するよう祈りましょう。

(4) 日ごとの糧を求める

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」(11節)。

糧とは食べ物のことですが、ここでは毎日生きるのに必要なあらゆるものを指します。

イエスさまがサタンの誘惑を体験なさったとき、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(4:4)とおっしゃいました。私たちを毎日生かす糧の一つは、聖書の言葉です。

私たちは自分自身の力だけで生きているように思ってしまうことがあります。しかし、私たちが気づかないところで、神さまは様々なものを用意してくださり、私たちを生かしてくださっています。それを認めて感謝しながら、さらなる守りと導きを求めましょう。

特に「日ごとの」という言葉に注目してください。食事は毎日必要です。それと同じように、週に1回礼拝のときに「今週必要なものを与えてください」と祈ればいいというわけではありません。週に1回礼拝式で聖書を学べば十分ということはありません。

毎日聖書を開き、「今日私に必要なみことばを与えてください。今日必要なあらゆるものを備えてください」と祈りましょう。1日1回どころか、気づくたびごとにそう祈りましょう。

(5) 悔い改める

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(12節)。

預言者イザヤがイスラエルの民に語りました。「見よ。【主】の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1-2)。

神さまに喜ばれない思いを持ったり行ないをしたりしていたと気づいたら、速やかに神さまに告白して赦しを求めましょう。安心してください。イエスさまの十字架の血潮は、あらゆる罪を赦し、きよめます。赦されない罪は決してありません。

(6) 悪からの守りを願う

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」(13節)。

罪は赦されたらそれで終わりではありません。神さまに従うことを継続していかなければなりません。たとえ赦されるとしても、罪は神さまを傷つけ悲しませます。そして、私たちと神さまとの親しい関係をゆがめてしまいます。

ですから、私たちが悪魔や悪霊の誘惑を退け、罪を犯さないよう守ってくださいと祈りましょう。そして、単に罪を犯さなくなるだけでなく、積極的に神さまが喜ばれる生き方ができるようにと。

私たちの内に住んでくださっている聖霊さまは、私たちを内側から作り変え、イエスさまに似たものに日々成長させてくださいます。すなわち、私たちが神さまのみこころにかなう生き方、神さまが悲しむ生き方を辞め、神さまが喜ぶ生き方ができるように作り変えてくださいます。

ただし、聖霊さまは紳士です。私たちが嫌がるのに無理矢理手を付けることはなさいません。ですから、聖霊さまが自由に働いて私たちを作り変えてくださることを了承しましょう。そして、私たちが神さまに喜ばれる生き方ができるよう祈りましょう。
  • 礼拝式などで祈られる「主の祈り」は、この後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」という部分が付け加わっています。これはマタイが福音書を書いたときには載っておらず、後の時代になって加筆されたものです。

2.信じて祈ろう

異邦人のようであってはならない

「主の祈り」を弟子たちに教える前に、イエスさまはある注意をなさっています。「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」(7節)。

「お金を与えてください。お金を与えてください。お金を与えてください……」と何度も繰り返し祈ったら、願いがかなうと異邦人は考えている、というわけですね。日本人も、伝統的に念仏や題目を何度も唱えることをしてきました。

クリスチャンも、言葉数が多ければ祈りが聞かれるわけではないということを覚えていなければなりません。「イエスさま!」と100回唱えなさいとか、「ハレルヤ!」と息が切れるまで叫び続けなさいとか、そういうのは意味がないと私は考えます。
神の人格を無視した祈り
私があなたの名前を呼んだとします。「○○さん」と。そこから対話が始まりますね。最初に呼びかけるときや、話の途中で「○○さん、○○さん」と2度名前を呼ぶことはあるかもしれません。しかし、「○○さん、○○さん、○○さん、○○さん……」と何度も何度も連続で呼んだらどうでしょうか。

あるいは、「これやって、これやって、これやって……」と何度も何度も要求し続けたら……? きっとおかしな人だと思われるでしょう。

言葉数が多い祈りとは、そういう語りかけです。それは神さまを人格として捉えておらず、願いをかなえるための便利な道具扱いにするものです。その道具を思い通りに動かすための呪文を唱えるのが祈りというわけです。そんな祈りはしてはいけないとイエスさまはおっしゃいます。

同じ言葉の繰り返しに意味がないように、声の大きさも関係ありません。目の前に話を聞いてくれる人がいるのに、まるで遠くにいるかのように怒鳴るのはナンセンスです。大きな声で祈ってはいけないわけではありませんが、大きな声で祈ったから願いがかなえられやすくなるわけではありません。
また、惰性的に口先で唱えるだけの祈りになっていないかということにも注意しましょう。

この話をお読みください

神はすでに必要をご存じだと信じて祈ろう

繰り返しではなく、長さではなく、声の大きさでもありません。大切なのは、どんな信仰の思いを持って祈るか、です。

異邦人の祈りについて語られた後、続けてイエスさまはおっしゃいました。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」(8節)。

ダビデも詩篇の中で次のように歌っています。「ことばが私の舌にのぼる前になんと【主】よあなたはそのすべてを知っておられます」(詩篇139:4)。

神さまは、私たちが何かを祈り求める前に、すでにその内容をご存じです。また、仮に私たちが願わなかったとしても、私たちに必要なものが何かをよくご存じであり、それらを用意してくださいます。

それは、親が小さな子どもがいちいちお願いしなくても、その子の成長に必要なものが何かを知っていて、それらを用意するようなものです。神さまは、私たちの天の父です。

そのことを信じて私たちは祈るのです。
祈る意味ある?
では、私たちが願う前に神さまがその内容を知っておられるのなら、私たちが祈る意味はあるのでしょうか。祈りがただ神さまに願い事を並べるだけなら意味はないでしょう。しかし、祈りは神さまとの対話、交流、人格的な触れ合いです。

確かに、親は子どもに何が必要か知っていて、お願いされなくても用意します。しかし、子どもとおしゃべりすることはとてもうれしいですし、対話の中で欲しいものをおねだりすることもまた喜びです。たとえその願いを100%聞き届けることはないとしても。

神さまは、私たちに本当に必要なものをご存じです。だからこそ、安心して何でもお願いすることができます。私が願ったことが100%実現するとしたら、私は恐ろしくて祈ることができなくなります。そんな責任、私には負えません。責任は神さまが負ってくださり、神さまは絶対にへまをなさらず、みこころに合わない願いはかなえられないと信じるからこそ、私は何でも祈ることができるのです。
好きなように祝福してください
以前、次のような祈りをささげていました。「神さま、どうか私を祝福してください。何が祝福かはあなたが一番よくご存じですから、その内容やタイミングについてはあなたにお任せします。あなたのお好きなように祝福してください」。最近忘れていたので、再開したいと思います。

ただ、この祈りは危険でもあります。私が最善だと思う内容やタイミングは、神さまがお考えになる最善とは異なる場合があるからです。もしかしたら、私にとっては嫌だなと思うことが起こるかもしれません。それでも、神さまの最善が私にとっても最終的には最善だと信じてそう祈ることにします。

よかったら、皆さんもそんな危険な祈りをしてみませんか?
聴く祈り
そして、対話とはしゃべることだけではありません。聴くこともまた必要です。祈りが神さまとの対話なら、私たちが口を閉じ、神さまの語りかけを聴く時間も持つ必要があります。お願いする祈りに10分かけるなら、聴く祈りも10分取りたいものです。

今回学んだことによって、私たちと神さまとの祈りの交わりが、ますます祝福されますように。

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