(2023年6月4日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
1節の「ゲラサ人の地」は、ガリラヤ湖・ヨルダン川の東にあったデカポリス地方のこと。平行記事のマタイ8:28では、「ガダラ人の地」と呼ばれています。ゲラサもガダラもデカポリス地方の町ですが、ここでは町を指すのではなく地方名として用いられています。今回の出来事は、地図で「ゲルゲサ」と書かれているあたりで起こったと考えられます。デカポリス地方にはギリシア人が多く住んでいました。
9節の「レギオン」は、元々はローマ軍の軍団のことです。5千から6千名の兵士が所属していました。
イントロダクション
前々回、イエスさまと弟子たちが舟に乗り、ガリラヤ湖の東岸に向かう途中大嵐に遭った話をしました。イエスさまが風と湖を叱りつけると、すぐに嵐はやみました。こうして無事に向こう岸に着いたところから今回の話が始まります。
その地でイエスさまは悪霊につかれている人から悪霊を追い出し、解放してくださいました。ここから私たちは、私たちに対する神さまからの励ましを受け取りたいと思います。まずは起こった出来事を順に見ていきましょう。交読は13節まででしたが、20節まで解説します。
1.悪霊追い出しの奇跡
悪霊につかれた人の登場
ゲラサ人の地に到着
「こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた」(1節)。
ゲラサというのはデカポリス地方の町の一つで、ヨルダン川の東にあって、ガリラヤ湖からはずいぶん離れています。ここでは、町の名前ではなくデカポリス地方の別名として用いられています。マタイの福音書では、同様に「ガダラ人の地」と呼ばれています。
悪霊つきの人の出迎え
「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた」(2節)。
イエスさま一行が上陸すると、悪霊に取りつかれた人が墓場から出てきました。悪霊は元々は堕落した天使で、サタン(悪魔)に従い、神さまに逆らっています。そして、神さまが愛する人間を攻撃して、神さまから引き離そうとしています。
主な攻撃方法は、さまざまな欲望をかき立てて罪に誘惑したり、問題がやってきたときに神さまに対する不平不満の思いを植え付けたりすることです。しかし、時にはよりオカルト的な方法で人間を苦しめることもあります。その一つが人間に直接取りつき、人格を支配してしまうことです。
今回登場した人も、悪霊に取りつかれてひどい状態に陥っていました。
マルコやルカの福音書では1人だけのように書かれていますが、マタイの福音書を見ると2人だったことが分かります。マルコやルカは、おそらくより症状がひどい人にスポットライトを当てて書いたのでしょう。
では、悪霊に取りつかれたこの人はどんな状態だったのでしょうか。
ひどい状態
「この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである」(3-5節)。
この人は次のような状態でした。
- 町ではなく墓場に住んでいました。
- 鎖や足かせを破壊する、人間離れした怪力を発揮しました。
- 昼も夜も叫び続けました。
- 自分で自分の体を傷つけていました。
精神的な病で錯乱状態に陥った人も、時に常軌を逸した行動を取ることがありますが、鎖や足かせを破壊するほどの力を発揮するのは、この人が単なる精神的な病気ではないことを示しています。これは悪霊による超自然的な影響です。
イエスを拝する
「彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した」(6節)。
この人はイエスさまのところに飛んできました。そして、イエスさまの前でひれ伏しました。悪霊は神さまに逆らう存在ですから、神の御子であるイエスさまを敬ってひれ伏したわけではありません。イエスさまを恐れての行動です。
では、何を恐れたのでしょうか?
悪霊の叫び
「そして大声で叫んで言った。『いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください』。イエスが、『汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである』」(7-8節)。
悪霊は、この人の内から追い出されることを恐れていました。
悪霊の追い出し
悪霊の名
「イエスが『おまえの名は何か』とお尋ねになると、彼は『私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから』と言った」(9節)。
イエスさまが悪霊の名前を尋ねると、悪霊はレギオンであると答えました。レギオンとはローマ軍の軍団のことです。1軍団は6千人ほどの兵士から構成されていました。この人に取りついていた悪霊も、非常に大勢だったということです。
悪霊の懇願1
「そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した」(10節)。
平行記事であるルカの福音書には、次のように書かれています。
「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した」(ルカ8:31)。
「底知れぬところ」と訳されている言葉はギリシア語のアブソスで、悪霊たちの一部が閉じ込められている場所です。レギオンが震えおののくほど苦しい場所なのでしょう。
豚の群れ
「ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた」(11節)。
イエスさま一行がやってきたデカポリス地方は、10の都市という意味がある名前です。その名の通りギリシア人の植民都市が10個ありました。ユダヤ人はモーセの律法の定めによって豚は食べず、そのため豚を飼うこともしませんでしたが、デカポリス地方は異邦人が住む地域なので豚を飼っていたのです。
13節を見ると、その数2千匹ほどです。
悪霊の懇願2
「彼らはイエスに懇願して言った。『私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください』」(12節)。
悪霊は、苦しいアブソスに閉じ込められるくらいなら、人間でなくてもいいから、せめて豚の中に入らせてくれるよう願いました。
豚の溺死
「イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ」(13節)。
なんとイエスさまは、悪霊レギオンの願いを聞き入れました。すると、豚たちは錯乱状態に陥りました。そして、次々と崖から湖に身を投げて溺れ死んでしまいました。
ここはさまざまな解釈がなされています。
- たとえば、たくさんの豚を殺すことで、損をした飼い主たちがイエスさまを非難し、拒否するよう悪霊たちが企んだ結果だという説。
- 一方、アブソスは、元々は水の深い場所を指す言葉でした(詩篇107:23‐24,26)。ですから、豚と共に湖の深みにはまった悪霊レギオンは、結局彼らが恐れたとおりアブソス送りになったのだという説。
私としては、イエスさまが悪霊に出し抜かれたというより、後者の意見の方を採用したいところです。
人々の反応
集まってきた人々
「豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た」(14節)。
豚を放牧している人たちが、一部始終を見ていました。そして、近隣の町や村で話したので、多くの人々が集まってきました。
恐れを抱いた人々
「そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった」(15節)。
人々は、あれほどひどい状態だった悪霊つきの人が、静かに座っているのを見ました。また、ルカ8:27を見ると、この人は長いこと服を身につけていませんでしたが、今は服を着ています。おそらく弟子の一人が上着を掛けてやったのでしょう。
そして人々は恐れを感じました。ただ、原文のギリシア語を見ると、この恐れは恐怖心とは異なります。嵐を鎮めたイエスさまに対して弟子たちが抱いた恐れと同じく、畏怖の念、畏敬の念と訳すことができる感情です。
人々はイエスさまに圧倒的な力と権威があることを認め、まるで神さまを前にしたような畏怖の念を抱きました。
集まってきた人々への説明
「見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた」(16節)。
一連の出来事を目撃していた豚羊飼いの人たちは、近在から集まってきた人たちに起こった出来事を詳しく説明しました。
人々の懇願
「すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した」(17節)。
悪霊に徹底的に支配され、ひどい状態だった仲間が解放されました。ところが、ゲラサの地の人々はそれを喜びませんでした。2千匹もの豚が死んでしまって、大変な経済的損失を被ったからだと考えられます。このままイエスを自由に行動させていたら、さらに損害が出るのではないかと恐れたのでしょう。
解放された人の懇願
「イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った」(18節)。
一方、悪霊から解放された人はイエスさまに感謝しました。そして、一緒について行きたい、すなわち弟子入りしたいと願いました。
多くのユダヤ人はイエスさまを救い主だと受け入れなかったのに、この人は異邦人にもかかわらず素直に信じ、生涯をささげて従おうとしました。
イエスの返答
「しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい』」(19節)。
ところが、イエスさまはこの人の弟子入りを許可なさいませんでした。それは、この人がユダヤ人ではなく異邦人だったからです。
この後、イエスさまが十字架にかかり、復活し、天にお帰りになり、聖霊さまが弟子たちの内に降って住むようになり、その結果教会が誕生すると、教会は異邦人伝道を始め、多くの異邦人がイエスさまの弟子に加えられます。
しかし、十字架にかかる前のイエスさまは、「救いはまずユダヤ人から始まる。それからユダヤ人を通して異邦人が救われる」という神さまのご計画に基づく順番を忠実に守っておられました。この時は、ユダヤ人であるペテロたち十二使徒を訓練して教会の土台として育てることを優先しておられたのです。そこで、せっかくの弟子入りの申し出を退けられました。
そのかわり、家族の元に帰って、神さまが自分に行なってくださった奇跡について言い広めるようおっしゃいました。
イエスさまは、ご自分がいないところでイエスさまのことを救い主だと言い広めることを喜ばれませんでした。それは、この当時のユダヤ人が救い主のことを、罪を赦して神さまと仲直りさせてくださるお方としてではなく、ローマ帝国からイスラエルの国を独立させる政治的解放者として期待していたため、イエスさまについての間違ったイメージが広まることを危惧されたからです。
ベルゼブル論争の回に申し上げたように、イスラエルの国が公式にイエスさまのことを救い主ではないと判断して以降、その傾向はますます強まりました。
しかし、今回悪霊から解放された人は異邦人なので、その心配はありません。そこで奇跡の体験談を言い広めるようお命じになったのでしょう。
デカポリス伝道
「それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」(20節)。
この人は、イエスさまの言いつけ通り、家に戻りました。そして、家族だけでなく、デカポリス中にイエスさまのことを言い広めました。そのため、多くの人々が驚くことになります。
後に教会が異邦人伝道を始めたとき、デカポリス地方にもクリスチャンが出かけていって伝道したはずです。その時、この人からあらかじめイエスさまのことを聞いていた人々は、クリスチャンが語るイエスさまについての話に興味を持って耳を傾け、また素直に信じたに違いありません。
それでは、ここから神さまは私たちにどんな励ましを語ってくださっているでしょうか。
2.私たちも不自由な支配から解放される
不自由であることを認めよう
先進国では、悪魔礼拝や占いなどオカルトにのめり込んでいる人などを除き、あまり悪霊つきの現象は見聞きされません。先進国で活動している悪霊たちは、さまざまな快楽を餌にして神さまに逆らわせようという戦略を取ることが多いようです。
ですから、日本に住む私たちは、悪霊に直接取りつかれて支配されているわけではないでしょう。そのような強烈な方法ではなくても、もっとマイルドな方法で悪霊たちは私たちを支配して自由な人生を奪い去ろうとします。それは、私たちの罪の性質を刺激して、私たちが自由に生きられなくする方法です。
あるときイエスさまはおっしゃいました。
「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」(ヨハネ8:36)。この言葉を聞いた人たちは、自分たちは自由であって奴隷ではないと反発しました。しかし、イエスさまがおっしゃっているのは、私たち人間はみんな罪の奴隷状態にあって、本来神さまが人間に与えておられる自由を完全には味わえていないということです。
私も皆さんも、肉体的には誰にも拘束されていなくても、また政治的に自由が制限される独裁者が治める国や軍部が牛耳っている国に住んでいなくても、何かしらの不自由さを体験しているはずです。たとえば、
- 本当はそんなことをしてはいけないと分かっているのに、ついやめられないで行なってしまうことはないでしょうか。
- 今やらなければならないことは分かっているのに、周りの目を恐れたり、面倒くささが先に立ったりして、ついそれを実行できないことがないでしょうか。
- あれこれ心配しても仕方がないと分かっていても、ついつい不安感に押しつぶされそうになってしまうことがないでしょうか。
- 本当は相手を傷つけるつもりがないのに、感情的になってついきつい言い方になってしまうことがないでしょうか。
- 本当はそんなこと思ってもいなかったのに、周りの人たちの発言に引きずられて、悪口や愚痴や不平不満を口にしてしまうことがないでしょうか。
このような不自由さから解放されるためには、まず自分自身が不自由なのだという現実を認めなければなりません。
イエスに解放を願おう
私たちが、自分は不自由だということを認めるのは、「自分はダメ人間だ」と落ち込むためではありません。私たちには、私たちを不自由さから解放してくださるお方がいるという希望が与えられています。
自分が不自由であることを認めたなら、次にすべきことは、自由を与えると約束してくださっているイエスさまに、どうか解放してくださいとお願いすることです。
デカポリス地方の人々は、今の自分たちの生き方を変えることを嫌がって、イエスさまから遠ざかる道を選びました。私たちはそうではなく、イエスさまに近づく道を選びましょう。
ものすごい数の悪霊に取りつかれて、それはそれはひどい状態に陥っていた人を、イエスさまは簡単に解放なさいました。この人と同じように、私たちも罪の奴隷状態から解放されて、本来神さまが与えようとしておられる自由な生き方を取り戻すことができます。
イエスさまは十字架にかかり復活なさ今した。それによって私たちの罪は完全に赦され、そればかりか私たちは天の父なる神さまの子どもとなり、神さまから圧倒的に祝福される存在となりました。
しかも、私たちはただ赦されただけではありません。イエスさまを信じたときに私たちのうちに宿り、その後もずっと住んでくださっている聖霊さまは、私たちを内側から作り変えてくださっています。そして、罪の性質のために自由に生きられない私たちを解放して、だんだんと自由に生きられるようにしてくださいます。
ですから祈りましょう。イエスさまがこの自分を解放してくださり、自由を与えてくださるように。自分や他人や自然を粗末にするような生き方、また神さまを傷つけるような生き方ではなく、神さまが喜ばれる生き方、ひいては私たち自身が本当に幸せになる生き方ができるように、と。
自由な人生を始めよう
悪霊レギオンから解放された人は、イエスさまの弟子になることを求めました。それ自体は許可されませんでしたが、イエスさまは別の使命をこの人にお与えになりました。自分の体験を他の人に話すということです。
イエスさまを信じて自由な人生への第一歩を踏み出した私たちも、レギオンから解放された人のように新しい生き方を始めましょう。
悪霊から解放されたばかりのこの人は、ひどい格好をしていました。彼は裸の上に上着を羽織っている姿でした。髪の毛はボサボサ、髭や爪は伸び放題、風呂にも入らなかったため肌は薄汚れている上、自傷行為によってボロボロの状態です。大声で叫んだり乱暴な行動をしたりはしないとしても、見た目は以前とまったく同じでした。
それでもこの人は新しい生き方を始めました。
私たちも、イエスさまの恵みの福音を信じて救われたとき、それ以前の自分と劇的に何かが変わったわけではありません。頭の上に輪っかが浮かんだり、顔や洋服が光り輝いたりしたわけでもありません。
それでもイエスさまは、私たちが自由な生き方ができる力を与えてくださっています。それを信じて新しい生き方を始めましょう。これまでやめられなかったことを、祈りながら思い切ってやめてみましょう。これまでできなかったことを、祈りながら思い切ってやってみましょう。
やってみたら失敗するかもしれません。しかし、赤ちゃんが何度も何度も尻餅をつきながらやがて立ち上がり、そして歩き始めるように、私たちも何度も尻餅をつきながら、新しい生き方を身につけていきましょう。
この話をお読みください。
ある大工さんが教会に通い始め、洗礼まで受けたという話を聞いた仕事仲間たちが、その真偽を確かめました。クリスチャンの大工さんは本当だと答え、新約聖書を手渡して、是非読んでみてくれと言いました。
ヨハネの福音書の最初の方にざっと目を通した仲間の一人が、「水が酒になったなんて話、信じられるけぇ!」と言いました。すると、クリスチャンの大工さんはこう答えました。「俺は信じられるよ。だって、イエスさまは俺の酒をタンスに変えてくれたんだもの」。
この大工さん、かつては仕事や人間関係でおもしろくないことがあると、ついつい酒に逃げていました。やがてアルコール依存症となり、ろくに働きもしないで飲んでばかりいるようになります.当然収入は激減し、反対に酒代は鰻登り。やがて奥さんの嫁入り道具まで質に入れてしまいました。
さすがにこれではいけないと感じた大工さん、助けを求めて教会に足を運びます。そして、イエス・キリストを救い主と信じたのでした。すると、心の内側に不思議な平安や喜びがやってきました。
教会では別に禁酒を命じられたわけではありませんが、おもしろくないことが起こっても、もう酒に逃げなくてすむようになりました。気分もすっきりして、仕事も以前にも増してバリバリこなすようになり、収入も増えていきました。そして、奥さんのためにすてきなタンスを買ってあげることができたのでした。イエス・キリストは「酒をタンスに変えてくれた」のです。
キリストを信じると、神の聖霊があなたのうちに住み、あなたを内側から造り変えてくださいます。そして、生活全体に神さまの奇跡が満ちあふれるようになります。
あなたも不自由な生き方から解放されて、イエスさまが聖霊さまを通して自由な生き方ができるように変えていただけます。