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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

一粒の麦のたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ78

ヨハネによる福音書12章20節〜30節

(2024年5月12日)

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」というイエス・キリストの有名な言葉が語られた箇所の解説です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

20節の「祭り」は、過越の祭り。この祭りの日にイエスさまは十字架にかけられました。今回の出来事が起こった紀元30年の過越は、今の暦で4月7日(金)に行なわれました。

21節の「ベツサイダ」は、ガリラヤ湖の北岸にあった町。ピリポのほか、ペテロとアンデレ兄弟の出身地でもありました。アンデレ一家は後にベツサイダの西にあるカペナウムに移住しました。
23節の「人の子」は、「人間」という意味ですが、イエスさまはご自分のことを指しておっしゃる際にこの言葉をお用いになりました。なお、預言者ダニエルは、救い主のことを「人の子のような方」と呼んでいます(ダニエル7:13)。イエスさまはご自分を「人の子」と呼ぶことで、ご自分が救い主であることを宣言なさっています。

イントロダクション

シベリアの強制収容所で、囚人にスコップで穴を掘らせ、次にその穴を埋めさせるという労働が課されていたそうです。意味のない作業を延々と続けさせることで、心をへし折り反抗する気力を失わせるためです。

ところが、ある心理学者が「人類の福祉のための研究に協力してほしい」と協力者を募り、あの収容所と同じ作業をやってもらいました。すると参加者は心が折れるどころか、「人類のための研究に参加している」という強いやり甲斐を感じ、嬉々として作業を続けたそうです。

目的や使命が見えないと人はやる気を失います。しかし、目的や使命が明確になると、人は生き生きと輝きながら生活することができます。今日は、一粒の麦のたとえを含む箇所を取り上げます。ここから私たちの人生の目的、使命を明らかにしていただきます。それによって、私たちの毎日が張りのあるものになりますように。

1.この箇所の詳細

ギリシア人の依頼

祭りを祝いに来たギリシア人
(20節)さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。

この「祭り」は、過越の祭りです。モーセの律法には、毎年祝う7つの祭りが定められています。その中の3つの祭り、過越の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、仮庵の祭りについては、エルサレムに詣でて祝うよう命ぜられています。
この年、紀元30年の過越は今の暦で4月7日の金曜日に行なわれました。そして、今回の出来事が起こったのはその直前の火曜日です。そういうわけで、世界中からたくさんのユダヤ人がエルサレムに集まっていました。

そして、祭りを祝うためにエルサレムに来たのはユダヤ人だけではありません。ユダヤ教に改宗した異邦人や、正式な改宗の手続きを踏んではいないけれどイスラエルの神こそまことの神であると信じている異邦人(神を畏れる異邦人)もエルサレムに来ていました。

ここに登場したギリシア人たちも、改宗者、あるいは神を畏れる異邦人でしょう。
ギリシア人たちの願い
(21節)この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

イエスさまは昼間は神殿で人々を教えておられました。異邦人は、神殿の「異邦人の庭」と呼ばれる外庭までは入れますが、改宗者であってもその先に入ることはできません。異邦人が入れる外庭とユダヤ人が入れる内庭の境目には、高さ1.2mの隔ての壁(木製の柵)が設けてあって、そこに「ここから先に異邦人が入ったら殺される」という警告文が掲げてありました。

ですから、イエスさまに会うためには、イエスさまに外庭まで、あるいは神殿の外まで出てきていただく必要があります。そこで、十二弟子の一人であるピリポに取り次ぎを願いました。
ピリポとアンデレによる取り次ぎ
(22節)ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。

ピリポは同じく十二弟子であるアンデレに相談しました。これまで、イエスさまは異邦人と交流なさったことはあります。そして、ローマ人の百人隊長(ルカ7:2-10)や、カナン人の女性(マタイ15:22-28)については、その信仰を賞賛しています。

しかし、娘の病気をいやして欲しいと願うツロの女性に対して、当初イエスさまは「自分はユダヤ人のために遣わされた」とおっしゃって、相手をなさいませんでした。また、積極的に異邦人と交流しようとはなさいませんでした。

ですからピリポは、どうしたものかと迷ったのでしょう。そして、アンデレと相談してイエスさまに直接伺いを立てることにしました。

イエスの教え

人の子の栄光
(23節)すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。

イエスさまは、ギリシア人との面会については何も答えず、不思議なことをおっしゃいました。

「人の子」とは、イエスさまがご自分のことを指しておっしゃる言葉です。元々は人間という意味ですが、預言者ダニエルは、幻の中で見た救い主のことを「人の子のような方」と呼んでいます(ダニエル7:13)。ですから、ご自分のことを「人の子」と呼ぶイエスさまは、暗に自分は救い主だと宣言しておられるのです。

その救い主がいよいよ栄光を受けるときが来たとイエスさまはおっしゃいます。ピリポやアンデレ、またそこにいてイエスさまの教えを聞いていた人々は、この言葉をどう解釈したでしょうか。

旧約聖書の預言者たちは、救い主が来ると神の敵をすべて滅ぼして、地上に理想的な王国、神の国を建設すると預言していたからです。

そして、当時のイスラエルはローマ帝国の属国となっていました。そこで、ユダヤ人たちは早く救い主が現れて、イスラエルを独立させてくださり、平和と繁栄を与えてほしいと強く願っていました。
ですから、おそらく、全員がイエスさまの「栄光を受けるときが来た」という言葉を次のように解釈したはずです。「いよいよイエスさまは、ご自分が救い主であることを公に宣言して、ローマ帝国に対して独立戦争を仕掛け、世界を征服して神の国を地上に建設なさるのだ!」

これまでイエスさまは「わたしの時はまだ来ていません」と言い続けてこられましたし、聖書もそう語ってきました。ヨハネ2:4、7:6、7:30、8:20です。しかし、いよいよ時が来た! 独立宣言だ! そこにいた人々はワクワクするような思いを味わったことでしょう。

しかし、イエスさまがおっしゃった「栄光を受ける」とはそういう意味ではありませんでした。
一粒の麦のたとえ
(24節)まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

「麦が死んだら発芽しないじゃないか、聖書は嘘を教えている」などと突っ込んではいけません。これは科学的表現ではなく、文学的表現です。種が土の中に埋められて見えなくなる様子を、遺体が墓に納められて見えなくなる様子に重ねて「死ぬ」と表現しているのです。

一粒の麦が死ぬことによって、多くの実を結ぶとイエスさまはおっしゃいました。これは、イエスさまが死ぬことによって、多くの人々が救われて永遠のいのちを手に入れることを表しています。

永遠のいのちを手に入れるとは、神さまとの親しい交わりを手に入れることです。(ヨハネ17:3)「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」。

全知全能であり、あらゆる祝福の源である神さまと親しく交わることができるというのは、私たち人間にとってなんと幸いなことでしょうか。どんな困難がやってこようとも、私たちは恐れる必要がありません。

しかし、人間には生まれながらにして罪があります。罪とは神さまの存在やそのすばらしさを認めず、神さまの命令に従いたくない性質です。正義である神さまは罪とは相容れません。ですから、本来であれば罪人である私たちは神さまによってさばきを受け、永遠の苦しみという罰を受けなければならないはずでした。

しかし、救い主であるイエスさま、罪のないイエスさまが私たち罪人の身代わりとして罪の罰を受けてくださることによって、私たちの罪が赦される道を神さまは開いてくださいました。

イエスさまは、3日後の金曜日には十字架にかけられ、命を落とされます。そして、さらに2日後の日曜日に復活なさいます。それによって、私たちの罪は赦され、神の敵では無く神さまの子どもとして新しく生まれ、永遠に続く祝福の中に入れられます。

しかも、その救いは、私たちが何か良い行ないをしたごほうびとして与えられるのではありません。この自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかけられたこと、イエスさまは死んで葬られたけれど3日目に復活なさったこと。これを信じるだけで私たちのものになります。

イエスさまは神の国を地上に実現することを「栄光を受けるときが来た」とおっしゃったのではありません。神の国が実現するのは、イエスさまがもう一度地上に戻ってこられるとき、再臨の時です。この時イエスさまがおっしゃった「栄光」とは十字架にかかって死ぬことです。すなわち、救い主としての使命を見事に果たされるときです。
弟子への教訓
(25-26節)自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

イエスさまは命をかけて人々に救いをもたらされます。そして、イエスさまに従う弟子たちにも同じ覚悟をお求めになりました。

「自分のいのちを憎む」とは、命を粗末にするとか、心身の健康に気を配らないとかいう意味ではありません。「愛する」「憎む」という表現は、ユダヤでは優先順位を表しています。

たとえば、イサクの2人の息子、エサウとヤコブについて、神さまは「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ9:13)と書いていますが、これは神さまがエサウを憎んでひどい目にあわせたという意味ではなく、ヤコブの方がエサウより祝福されたという意味です。具体的には、アブラハムと神さまとの間に結ばれたアブラハム契約が、息子イサクに継承され、その後イサクの長男エサウではなく次男やコブに継承されたということです。

ですから25節の言葉は、永遠のいのちを人に届けることを第一にしなさいという意味で語られています。

この後、イエスさまは十字架にかかり、復活し、その後天にお帰りになりました。そして、ペンテコステの日に聖霊なる神さまが弟子たちを満たし、教会が誕生します。すると、弟子たちはイエスさまがお命じになったとおり自分の命をかけて伝道し、人々に永遠のいのちをもたらす働きを始めました。

そのために、多くのクリスチャンが迫害を受けて命を落としました。十二弟子も、ヨハネを除いてみんな殉教の死を遂げたと言われています。今回登場したピリポは、小アジアのヒエラポリスというところで石を投げつけられて殺されたという伝承があります。また、アンデレは、ギリシアのパトラというところでX型の十字架にはりつけになって死んだと伝わっています。

イエスの祈りと父なる神の声

イエスの決意宣言
(27節) 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。

イエスさまは、ご自分の心が騒いでいることを正直に告白なさいました。永遠の昔から父なる神さまと共におられた御子イエスさまにとって、罪の裁きとして父なる神さまから切り離されるというのは、とてつもない霊的な痛みを覚える出来事です。

私たち人間でも、悪いことをしていないのに誤解されて悪者扱いされれば心が痛みますね。しかし、イエスさまが味わう痛みはそれとは比べものになりません。その痛みは、生まれつきの罪人であり神さまから切り離されていた私たち人間には、想像もできないものです。

しかし、イエスさまは十字架にかかって父なる神さまに捨てられることこそ、救い主である自分の使命であると宣言なさいました。そして、十字架への道から逃げようとなさいませんでした。

そしてイエスさまは父なる神さまに祈ります。
父なる神の返答
(28節)父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

神さまの最終的な目的は、御自身の栄光、すなわち神さまのすばらしさが全宇宙に明らかになることです。そのために神さまはあらゆることをご計画なさり、その計画通りに歴史が進んでいきます。

そして、人の罪を赦し、神さまの子どもにするという救いのご計画も、その栄光の目的の一環です。
旧約聖書の預言者たちは、救い主が神の敵を滅ぼして神の国を実現するという預言の他に、人類の罪の罰を背負って苦しみ死ぬことも預言しています。たとえば、イザヤ53章などです。

ですから、「御名の栄光を現わしてください」とは、「あなたのご計画の通りになりますように」という意味です。すなわち、「あなたのご計画に従って、私は十字架にかけられ、全人類の罪のさばきを身代わりに引き受けます」という決意表明です。

それに対して、天から声が聞こえます。人類の歴史の中で、神さまはさまざまな奇跡を通して、あるいは不思議な摂理のわざによって、ご自分のすばらしさを明らかにしてこられました。そして、十字架、復活、昇天、聖霊降臨と、この後も神さまのすばらしさを示す出来事を引き起こされます。そして、世の終わりの時代に神さまの救いの計画は完全に実現します。

イエスさまの決意表明に対して、父なる神さまはご自分が責任を持って救いの計画を実現すると約束なさったのです。
群衆の反応
(29-30節)そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。

福音書に父なる神さまの語りかけが載っているということは、弟子たちには神さまの声の内容が判別できたのだと思われます。しかし、群衆は良く聞き取れなかったようです。雷だという人もいれば、天使の声だという人もいました。

それに対してイエスさまは、神さまの声は自分イエスのためではなく、あなたたちのために語られたのだとおっしゃいました。これまでイエスさまは、教えやいやしのために忙しいときでも、朝は静かなところに退いて神さまに祈りをささげておられました。父なる神さまからの励ましをずっと聞き続けておられたのです。ですから、わざわざ聞こえる声で励まされる必要はありませんでした。

むしろ、励ましを必要としていたのは弟子たちと群衆でした。群衆はもちろん、この時点では弟子たちも神さまの救いのご計画について理解していません。みんなイエスさまが独立宣言をすると期待しているのです。
その後の出来事
今回は朗読しませんでしたが、この後の出来事についても触れておきます。

イエスさまは「人の子は上げられなければならない」と発言なさいました。上げられるというのは、この場合「はりつけになって死ぬ」という意味です。すると、群衆は質問します。「聖書によれば救い主は死なないと教わってきたが、あなたは人の子は死ぬとおっしゃる。では、あなたは救い主ではないのか。それともあなたがおっしゃる人の子とは救い主以外の人のことを指しているのか」。

たとえば詩篇110:4には、救い主について「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である」と語っています。しかし、これは十字架の死を否定する預言ではありません。救い主は十字架にかかって死んだ後、復活して永遠に生き続けます。

とにかく、群衆の多くは救い主が十字架にかけられなければならないという聖書の教えを理解できませんでした。結果的に、群衆はイエスさまに幻滅していきます。いつまでたっても独立宣言をせず、それどころか自分は死ぬなどと発言する人が救い主であるはずがないと思うようになります。

そして、ローマ軍を滅ぼすどころか、逮捕されてローマ総督の前に引き出されたイエスさまについて、「十字架につけろ!」と叫ぶようになります。
ところで、イエスさまはギリシア人たちと面会なさったのでしょうか。聖書には記されていません。しかし、この後イエスさまは群衆たちを残して神殿から出て行かれましたので、おそらく神殿の外でギリシア人と面会なさったのではないかと私は考えています。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の計画を最優先にしよう

神の計画の目的を知ろう

神さまのご計画の目的、神さまの行動基準は何でしょうか。それは、神さまの栄光が現わされることです。神さまのすばらしさが、全宇宙に、全被造物に明らかになることです。

ある人は、人間が救われることが神さまの目的だと言いますが、違います。それは手段の一つに過ぎません。最終目的は神さまの栄光です。

(エペソ1:11-12)またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

人類の救いが神さまの最終目的なら、救いを受け取らなかった人が世の終わりにさばきを受けるのは、神さまの目的が達成されなかったということになってしまいます。罪人や悪魔・悪霊に対するさばきは、神さまが正しいお方であるということを明らかにします。これもまた神さまの栄光が現れるという目的に添っています。

この宇宙の歴史、そして人類の歴史は、神さまのすばらしさが明らかになるという目的に添って動いています。そのことを確認しましょう。

神の栄光を現わそう

私たちもまた、神さまの栄光を現わすためにこの世に生を受けました。そして救われ、クリスチャンとなりました。

私たちは、私たち自身の祝福のために存在しているわけではありません。私たち自身が地上で成功し、繁栄するために存在しているわけではありません。私たちは、神さまのすばらしさを明らかにするためにここにいます。

私やあなたがここに存在していることが、すでに神さまのすばらしさを明らかにしています。ですから、さらに一歩進んで、私たちは積極的に神さまのすばらしさを明らかにするための行動をしましょう。

私たちが何をどう語れば、あるいはどんな振る舞いをすれば、神さまのすばらしさが今よりもっと自分自身や他の人に明らかになるでしょうか。それを考えながら毎日を過ごしましょう。

聖書もそれを勧めています。

(第1コリント10:31)こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

食べるとか飲むとかいう日常の些細な行動も、神さまのすばらしさを明らかにするためにはどうしたらいいだろうかと考えて選びましょう。

苦難も神の栄光という目的で捉えよう

イエスさまは、永遠の昔から離れたことのない父なる神さまから切り離されるという苦難を経験なさいました。それは人間には想像することさえできない苦しみですが、イエスさまはあえてそれを引き受ける道を選ばれました。十字架が、神さまの栄光が明らかになるという神さまのご計画の一部だったからです。

私たちも、この地上で生きているとさまざまな苦難を経験します。病気になったり、経済的なピンチに陥ったり、人間関係のトラブルに巻き込まれたり……。

そんなとき、この世のすべては神の栄光という目的に向かって進んでいるということを思い出しましょう。神さまは全知全能です。何でも知っておられ、何でもすることができます。ですから、私やあなたが体験する苦難は、降って湧いたようなアクシデントではありません。神さまのご計画のうちで起こったことです。

ということは、私や皆さんが経験した苦難は、神さまのすばらしさが明らかになるためになくてならない大切な要素だということです。

今は意味が分からなくても、やがてその意味が明らかになります。この地上でか、あるいは死んで天国に迎え入れられて後かは別として、いずれかならず私たちは自分が経験した苦しみによって、神さまのすばらしさが明らかになったことを知るときが来ます。そして、感動し、喜びに満たされることになります。
もちろん、苦難を取り除いてくださいと祈っていいのです。神さまが祈りを聞いてくださり、苦難を取り除くことが神さまの栄光を現わすことになるかもしれません。ですから、苦しいときには祈りましょう。

しかし、たとえ祈ったとおりに問題が解決しなくても、何かがおかしいなどと思わないでください。イエスさまが祈られたように、神さまの栄光を求める祈りをしましょう。

「父なる神さま。あなたのご計画をあなたが望まれるとおり自由にお進めください。そして、それによってあなたの栄光、あなたのすばらしさをもっともっと私や私の周りの人に明らかにし、私たちが感動に打ち震えるようにしてください。

この一週間、神さまのすばらしさをさまざまな場面で体験して、感動に満たされますように。

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