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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ぶどうの木と枝のたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ92

ヨハネによる福音書15章1節〜11節

(2024年8月18日)

イエス・キリストは、ご自分のことをぶどうの木、弟子たちのことをぶどうの木の枝にたとえました。そして、実を結ぶ人生について教えていらっしゃいます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

2節の「刈り込み」とは、果樹や野菜が実(果実や菜根)を大きく味良く結ばせるために、必要な栄養をとられないよう、余分な枝や花や実を取ってしまうこと。

イントロダクション

一生を終える直前、「私の人生は、ほとんど何も良いものを生み出すことができなかった」とがっかりしながらではなく、「私の人生は実り多いものだった」と感謝しながら天に召されていきたいですね。

イエスさまと11人の弟子たちは、過越の食事を終えてオリーブ山にあるゲツセマネの園に向かっています。途中で、ぶどうの木が目に入ったのかもしれません。イエスさまはご自分と弟子たちの関係をぶどうの木とその枝にたとえて説明なさいました。

ここから、豊かに実を結ぶ人生について、私たちも教えていただきましょう。

1.わたしはぶどうの木、あなたがたは枝

あなたがたは実を結ぶ

イエスと父
(1節)わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
旧約聖書では、イスラエルがよくぶどうの木、そして神さまが農夫にたとえられてきました。しかし、しばしば悪い意味でそのたとえが用いられています。

(エレミヤ2:21)わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。

元々イスラエルが神さまの選びの民となったのは、彼らだけが祝福されるためではありません。イスラエルが神さまに従い、神さまがイスラエルが大いに祝福されるのを見た他の民族が、自分たちも神さまのことを知りたい、神さまに従いたいと思い、救われるようになるためです。

しかし、旧約時代のイスラエルは、神さまの命令を無視して偶像礼拝に走りました。そこで、祝福どころか国がアッシリアやバビロンによって滅ぼされるというさばきを招きました。福音書の時代も、ローマ帝国によって支配されています。

ところが、ここではイエスさまがぶどうの木にたとえられています。イエスさまは父なる神さまの命令を完璧に守り、神さまのみこころを地上で実現してこられました。そこで「まことのぶどうの木」と呼ばれています。
枝の除去と刈り込み
(2節)わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。

イエスさまがぶどうの木なら、枝は弟子たちです。そして、枝のうち実を結ぶものと結ばないものが区別されています。

実とは「何かが生み出すもの」という意味です。たとえば、聖書は以下のようなものを「実」と呼んでいます。
  • 植物が生み出す果実や穀物
  • 母が生み出す子ども
  • 労働が生み出す成果
ここでは特に次のようなものを「実」と呼んでいます。
  • 人の心が生み出す良い性質
  • 良い性質が生み出す良い行動
  • 良い行動が生み出す良い結果
このような「実」を結ばない人は、父なる神さまが取り除いてしまうとイエスさまはおっしゃいました。これについては、主に2つの解釈があります。

一つは、実を結ばない人は死んでしまうという意味。第1コリント11:30を読むと、罪を犯して悔い改めない人が、神さまのさばきによって病気になったり、死んでしまったりすることが分かります。

ただし、その人の救いが取り消されるというわけではありません。救いは信仰によって与えられるのであって、いったん救われた人の救いが行ないの悪さによって取り消されることはないからです。これはクリスチャンが罪を犯し続けて、神さまとの親しい交わりを体験できないことを防ぐための、神さまからの教育的指導です。

もう一つの解釈は、本当の信者ではない人が永遠のさばきを受けるという意味。イスカリオテのユダがその代表です。この人たちはクリスチャンであると言いながら、本当にはイエスさまのことを信じていませんから、元々救われていません。
  • ちなみに、増田牧師は最初の「死んでしまう」という解釈の方を採用しています。今回の話を聞いているのは、みんな救われた弟子だけだからです(3節参照)。
一方、「実」を結ぶ信者はどうでしょうか。イエスさまは、さらに実を結ぶために刈り込みを受けるとおっしゃいました。これはよけいなものが取り除かれて、本当に大事なものだけが残されるということです。これについては、後半で詳しく取り上げます。
あなたがたはすでにきよい
(3節)あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。

イエスさまは11人の弟子たちに関しては、すでにきよいとおっしゃいました。それはイエスさまが話した言葉によってと言われています。弟子たちはイエスさまの言葉を信じました。

もちろん、イエスさまの教えをすべて理解できたわけではないし、この後イエスさまが十字架にかかることも、ましてや復活することも、イエスさまが何度教えられたのに信じてはいません。おまけに、この後全員イエスさまを残して逃げ出しますし、ペテロに至ってはイエスさまのことを3度「知らない」と言い張ってしまいます。

しかし、少なくとも11人はイエスさまがご自分のことを救い主だと語られた言葉は信じました。それ故に11人は救われ、きよめられています。
わたしにとどまれ
(4-5節)わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

枝がぶどうの木から離れてしまうと、水や栄養分を受け取ることができず、実を結ぶことができません。

イエスさまは「わたしにつながりなさい」ではなく、「とどまりなさい」とおっしゃいました。それは、弟子たちは「すでにキリストにつながっている」という前提があるということです。3節で語られたように、弟子たちはすでに救われ、きよめられています。

あなたがクリスチャンなら、改めてイエスさまにつながろうとする必要はありません。すでにあなたはぶどうの幹であるイエスさまにつながっており、そこから豊かな栄養を受け取り、着々と実を結ぶ準備が進んでいます。

大切なことは、イエスさまにとどまり続けるということです。イエスさまにとどまるとはどういう意味かについては、7節で語られます。
実を結ばない枝
(6節)わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
投げ捨てられ、枯れ、そして焼かれて燃えてしまうというのは、燃える火の池で永遠に苦しみを受けるというさばきのことではありません。繰り返しになりますが、この話を聞いている弟子たちはすでに救われており、救いは取り消しにならないからです。

これは、クリスチャンが復活して天のパラダイスに携挙された後に経験する、「キリストの御座のさばき」のことを指していると思われます。

(第2コリント5:10)私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

キリストの御座のさばきは、救いか滅びかを決める裁判ではありません。地上に実現する千年王国(神の国、天の御国)でどのような祝福を受け取るかを決める査定の場です。救いを受け取った人はみんな千年王国に入れますが、地上での生き方に応じていただける祝福が変わるということです。

(第1コリント3:12-15)だれかがこの土台(註:キリストのこと)の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。

救われた後に罪を犯し続けても、救いそのものが取り消されることはありませんが、本来受け取ることができたはずの祝福をもらい損ねることになります。ですから、どうせ赦されるのだからと自己中心的な生き方をするのは、長い目で見ると損です。

欲しいものを求めなさい

わたしのことばがとどまっているなら
(7節)あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

枝である弟子たちがぶどうの木であるイエスさまにとどまるとは、イエスさまの言葉が弟子たちの内にとどまるということです。これは、この後10節でも触れられますが、イエスさまの命令を守るということです。

イエスさまの命令を守るなら、何でも欲しいものを願えとイエスさまはおっしゃいます。そして、それがかなえられると約束されました。

この約束については、前々回も学びました。神さまのみこころにかなう願いは、必ずかなえられます。

(第1ヨハネ5:14)何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

イエスさまの命令にしたがっている人は、自己中心的な欲望に従って願うことはありません。ですから、その願いは神さまのみこころに添っており、かなえられるのです。
父の栄光
(8節)あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

私たちが豊かに実を結ぶのは、他の人から「立派な人だ」「信仰深い人だ」とほめられるためではありません。御子イエスさまによって私たちを救い、私たちを聖霊さまによって内側から造り変えてくださる天の父なる神さまがほめたたえられるためです。

愛にとどまりなさい

愛にとどまる
(9-10節)父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
イエスさまは、ご自分の愛にとどまるようにと弟子たちにおっしゃいました。イエスさまの愛にとどまるとは、イエスさまの命令を守るということです。

そして、その模範として、イエスさまが父なる神さまの命令を守っておられることを示されました。私たちのモデルは、人として来られたイエスさまです。
喜びで満ちあふれるように
(11節)わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

イエスさまは、ぶどうの木と枝のたとえを語られた目的を示されます。それは、弟子たちが喜びに満たされるためです。イエスさまが父なる神さまに従うことを喜びとなさったように、私たちがイエスさまに従う時、私たちの内には大きな喜びがわき上がってきます。

それは、ぶどうの木に枝がしっかりつながっているように、自分がイエスさまとしっかりつながっていることを確信できるからです。自分がイエスさまに喜ばれ、愛されていることを確信できるなら、私たちは安心だし、どんな状況の中でも喜びを実いたすことができます。なにしろ、全知全能の神さまが味方なのですから。

実際、弟子たちはこの後さまざまな迫害や苦労を体験し、ヨハネ以外は殉教の死を遂げることになります。しかし、彼らは喜びに満たされながら、最期の時までイエスさまのために働き続けました。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちは実を結ぶことができる

実を結べることを信じよう

私たちクリスチャンは、みんな良い実を結ぶことができます。良い性質、そこから生まれる良い行ない、そして良い行ないが生み出す良い結果です。

聖書は、私たちが救われた時、聖霊なる神さまが内に入り、住んでくださるようになったと教えています。そして、その聖霊さまが私たちに良い性質を結ばせてくださいます。

(ガラテヤ5:22-23節前半)しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

(第2テモテ1:7)神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。

リンゴの種をまくとリンゴの実がとれます。みかんの種をまくとみかんの実が取れます。同様に、聖霊さまが私たちの心の畑に蒔かれると、聖霊さまの実である素晴らしい性質が実を結びます。
それは聖霊さまのお働きです。ですから、イエスさまを信じて救われたなら、どんな人でも変わることができます。

この話をお読みください。
岩井喜代仁さんは、元やくざの親分で、覚醒剤や麻薬を密輸し、売りさばいていました。しかし、自らも覚醒剤依存症となり、やくざの世界を追われてしまいました。

生活に困った岩井さんは、彼に薬の味を教えた元売人、近藤恒夫さんにお金を借りに行きます。すると、近藤さんはすっかり覚醒剤から手を洗い、それどころか、ダルクという団体を作って、薬物依存症者の回復を支援していました。こうして、岩井さんもダルクを通じて薬物依存症と闘うことを決意し、ダルクのスタッフとして働くことになりました。

実は、ダルクはキリスト教の神父さんが始めた働きが元になっていて、岩井さんもやがて「イエスさまによって、人は生まれ変わることができる」という聖書のメッセージを信じ、洗礼を受けることになります。

ダルクのスタッフとなった岩井さんは、結城市にある空き家に住み込み、送られてくる青年たちと一緒に生活を始めました。

かつて板場で働いたことがあるので、数十人分の食事を作るのはお手の物です。それに、やくざの親分をやっていたおかげで、たくさんの男の子たちと一緒に暮らすのも、全く苦になりません。

岩井さんは言いました。「俺、やくざをやったことが、こんなに役に立つなんて思わなかった」。

ある時、17歳の男の子が送られてきました。送られてきた日、彼はいろいろと岩井さんに食ってかかりました。岩井さんは叱りもせず、「分かった分かった。まあみんなと一緒に温泉でも行こうや」。ところが、この男の子、温泉から帰ってくると、やたら素直で従順になったのです。返事も「はいっ!」と、非常に礼儀正しくなりました。それは、温泉で岩井さんの背中に彫られた入れ墨を見たから……。

「神さまは、本当に粋な方。ダメな人生の象徴のような入れ墨さえも、用いてくださる」。岩井さんはそう言って笑います。

今、岩井さんは、薬物依存問題の第一人者として、多くの子どもたちを救う働きをしています(註:2011年6月現在)。「大丈夫。人は生まれ変わることができる」。かつて神父さんに言ってもらったその言葉を、今度は岩井さんが、薬物に溺れて人生を見誤った人たちに語っています。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
あなたも変われます。これまでも造り変えられたように、これからも変わり続けます。そのことを信じましょう。

イエスの命令に従おう

クリスチャンの内側に結ばれる御霊の実は、聖霊さまのお働きによります。しかし、私たちにもしなければならないことがあります。それは、イエスさまに従おうと決意し、実際に従いましょう。

いくら聖霊さまのお働きによって造り変えられ、成長していくといっても、「聖霊さま、造り変えてください。聖霊さま、成長させてください」と唱えて座り込んでいるだけでは何も変わりません。

(ピリピ2:12-13)こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

聖書の中には、このように、神の民が、神さまの約束を手に入れるために努力するように求める命令が、数多くあります。「私の約束を手に入れられるよう、この私が助ける。だから、それを信じるならば、あなた自身の手足を使ってやってごらんなさい」ということです。

聖霊さまは、神の民と共に働いて、すばらしいことをしてくださいます。
  • ペテロは湖を歩いてくるイエスさまを見て、自分も湖面を歩きたいと願いました。イエスさまは彼に「来なさい」とおっしゃいます。つまり歩けるという約束が与えられたのです。しかし、実際にペテロが足を湖面に踏み出したからこそ、歩くことができました。
  • モーセは、神さまが追いすがるエジプト軍からイスラエルを守ってくださると信じて、命ぜられるままに、海に向かって杖をさしのべました。
  • ダビデは、巨人ゴリヤテのためにイスラエル軍が戦意を失ったとき、「これは主の戦いだ」と宣言すると共に、投石機と石を手にしてゴリヤテに立ち向かっていきました。
聖霊さまは、愛の実を結ばせてくださいます。ですから、それを信じて、誰かに対して愛のわざを実践してみましょう。聖霊さまは、喜びの実を結ばせてくださいます。それを信じて、自分や周りの人たちに喜びがもたらされるようなことをやってみましょう。聖霊さまは、あなたと共に働いてくださいます。

刈り込みを受け入れよう

刈り込みというのは、果樹や野菜の実、あるいはその花や枝を、収穫期になる前に間引きすることです。私はぶどうの実の刈り込み作業を見学したことがありますが、房がすかすかに見えるくらい粒を間引きしていました。

一見もったいないようですが、刈り込みをしないと、実が小さくまずくなってしまいます。適切に刈り込みをすると、栄養分が残った実にぎゅっと濃縮して、一個一個の実が甘くて大きく育つわけです。
優先順位の整理
一本のぶどうの枝が幹から受け取る水や栄養分の量には限界があるように、私たちに与えられている時間には限りがあります。また、いろいろなことをどれだけ同時にできるかという処理能力は一人一人違います。

自分の処理能力を超えるくらいいろいろなことを同時に行なおうとすると、一つ一つのことがおろそかになって、結局十分な結果をもたらすことができなくなってしまいますね。

ですから、私たちが実のある生活を送りたければ、行動に優先順位をつけて、本当に必要な行動に時間とエネルギーを集中的に使っていく必要があります。ということは、不必要な活動やものや関係を切り捨てる必要があるということです。

あれこれ忙しくするけれど、どれもあまり実を結ばないなあと感じるようでしたら、生活の優先順位を再検討してみましょう。あなたの普段の生活の中で、何か削らなければならない活動や、捨てなければならないもの、後回しにしなければならない関係はありませんか?
強制的な刈り込み
優先順位の整理は、自分の意志で生活に刈り込みを入れる必要があるという話です。

ですが、自分の意志や願いとは関係なく、何かを失う体験をすることもありますね。病気になるとか、親しい者を失うとか、仕事がうまくいかなくなるとか……。

しかし、それらを積極的に「イエスさまによる刈り込み」ととらえてみてください。すると、不幸だと思っていた状況の中に、今まで見えてこなかった祝福の種が隠されていることに気づくことができるでしょう。

公式サイトの過去記事を読み返していたら、2005年にパソコンのハードディスクが壊れたという記録が見つかりました。バックアップもうまく行っておらず、データが全滅です。
教会のテキスト類も、8ヶ月分の会計データも、住所録も、礼拝賛美に使っていたカラオケデータも、全滅。一時、放心状態に陥りましたが、「私たちは……途方に暮れますが、行き詰まることはありません」(第2コリント4:8)という聖書の言葉通り、イエスさまはすぐに立ち直る力を与えてくださいました。

祈りの中で教えられたのは、これはチャンスだということです。消えてしまったテキストは、その6年前、開拓伝道で福島に来る前後に作ったものです。6年の間、私はいろいろと神さまの訓練を受け、信仰の姿勢が少し変わってきていました(もちろん、良い方向に変わったと信じています)。イエスさまは、そのことに気づかせてくださいました。

私は、「もう一度、すべてを一から作り直しなさい」と神さまがおっしゃっているような気がしました。テキストも、より読みやすく分かりやすいものに書き直すチャンス。データベースソフトを使って自作した会計プログラムや住所録も、より操作性の良いものに作り直すチャンス。そう考えると、内側から沸々とやる気がわき起こってくるのを感じました。

そして、こんなことにも気づかされました。船が海の上を走っていて、エンジンが止まったとしても、しばらくはそのまま前に進みます。しかし、これではいずれ船は止まってしまいます。私も、いつの間にか生き生きとした神さまとの交わりを見失っていたようです。

毎週、聖書からメッセージを語っていますが、もしかしたら、できたての料理を出すのではなく、何日か前の冷たくなった料理を、電子レンジでチンして出しているようなものだったのかもしれません。新しいテキストやブログラムを作りながら、神さまとの関係ももう一度フレッシュなものにしたいと、私は強く願いました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
信じましょう。私たちは変わり続けることができます。神さまは、問題でさえも用いて、私たちが人生の中で豊かに実を結ぶことができるようにしてくださいます。そして、やがて招き入れられる千年王国で、素晴らしい祝福を刈り取ることができます。

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