(2024年8月25日)
イエス・キリストが弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と命じ、その愛について解説している箇所です。最後の晩餐を終えてオリーブ山のゲツセマネの園に向かう途上で語られました。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
イエスさまは16節で
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです」とおっしゃいました。
私たちも、ペテロやヨハネたち十二使徒と同じくイエスさまの弟子です。私たちもイエスさまによって選ばれて、実を結び、求めるものがかなえられるという奇跡を体験できます。そのために必要な態度を教えていただきましょう。
1.愛についての教え
イエスの命令
互いに愛し合いなさい
(12節)わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
前回の箇所で、イエスさまは実を結ぶ人生が与えられるために、イエスさまにとどまるようにとおっしゃいました。イエスさまにとどまるとは、イエスさまの戒めを守ることです。
そして12節では、そのイエスさまの戒めがなんなのか語られました。それは、弟子たちが互いに愛し合うことです。このことはすでに最後の晩餐の時のメッセージでも語られています。
(13:34)わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
モーセの律法でも、他の人を愛することを教えています。その基準は、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というものです。しかし、イエスさまがモーセの律法に変わって与える新しい命令では、「イエスさまが私たちを愛してくださったように」というのが基準です。
では、イエスさまはどのようにして私たちを愛してくださったでしょうか。それは死ぬことでした。イエスさまは、私たちの罪が赦されるために、十字架にかかって命をささげてくださいました。
聖書が教える救いは、お金が儲かることでも、健康になることでも、社会的に成功することでもありません。神さまの存在やすばらしさを認めず、神さまに逆らい続けて自分勝手に生きてきた罪が赦されて、神さまと親しい関係になることです。
全知全能である神さまと仲良しであると言うことが、私たちを強め、励まし、「どんなときでも大丈夫」という平安をもたらします。
では、どのようにして私たちはその救いを手に入れることができるのでしょうか。それは、「恵みの福音」を信じることです。恵みの福音とは、「この私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかられた。そして、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということです。それを本当のことだと信じ受け入れた時、神さまの一方的な恵みによって私たちの罪は赦されます。
友のために命を捨てる
(13節)人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
人間が示すことができる最大の愛は、友のために命を捨てることです。
イエスさまは実際に命を捨てることを求めていらっしゃるわけではありません。愛するというのは、何かを犠牲にすることです。時間だったり、体力だったり、財産だったり、自分の権利だったり、他の人の幸せのために何かしらを手放しますね。その犠牲にするものの究極が命だとイエスさまはおっしゃっています。
この話をお読みください。
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(1894生)はポーランド出身で、長崎で6年間宣教活動を行なったことがあります。
第二次世界大戦中の1939年9月、コルベ神父はナチスドイツの秘密警察によって逮捕され、悪名高いアウシュヴィッツ第二強制収容所に送られました。逮捕の理由ははっきりとは分かっていません。そして、2年後の1941年7月、脱走者が出たことによる見せしめとして、収容所内の10人が死刑(餓死刑)に処されることになりました。
無作為に10人が選び出されると、そのうちのフランツェク・ガイオニチェクという軍人が、「もう一度妻と子に会いたい」と泣き叫び始めます。すると、10人に選ばれなかったコルベ神父は、自分が彼の身代わりになると申し出ました。「自分は神父で妻も子もおらず、年寄りですから」と。それが認められ、コルベ神父は餓死刑に処されることになりました。
収容所で働かされていたポーランド人通訳者の証言によると、餓死させるための牢内で、コルベ神父は静かに祈りをささげ、賛美歌を歌っていたそうです。さながらそこは礼拝堂のようであった、と。そして、2週間後、コルベ神父にはまだ息がありましたが、収容所上層部の判断により毒を注射されて殺されました。
戦後、生き延びて解放されたガイオニチェクは、ヨーロッパやアメリカを回ってコルベ神父が自分にしてくれたことを伝えて回ります。
イエスの友
イエスの命令を実行するなら
(14節)わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
イエスさまの命令を実行する人のことを、イエスさまはご自分の友とお呼びになります。この場合のイエスさまの命令とは、互いに愛し合うということです。
しもべではなく友
(15節) わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。
イエスさまにとって、弟子たちはもはやしもべではなく大切な友だちです。そして、しもべと友の違いについて語られました。
イエスさまは「しもべは主人が何をするのか知らない」とおっしゃいました。しもべは主人が最終的に何を目的として自分にこの命令をしたのか、知らなくても問題ありません。「これをしなさい」と言われたことだけ理解し、実行していればいいのです。
一方、仲の良い友だちなら、主人の内面まで知っています。深い心の交流があるからです。
そしてイエスさまは、友である弟子たちに父なる神さまから聞いたことをすべて知らせました。イエスさまがこれから何をしようとしていらっしゃるのか、それが何のためなのか、これまで弟子たちには余すところなく語ってこられたのです。
イエスさまと深い心の交流があり、イエスさまが何を考えているか知っている弟子たちは、もはやしもべではなく友だとイエスさまはおっしゃいます。
もっとも、この時の弟子たちは、まだイエスさまがこれまで教えてこられたことをほとんど理解できていません。彼らがイエスさまの目的やご計画や思いを理解できるのは、もう一人の助け主とか真理の御霊とか呼ばれる聖霊なる神さまに満たされた後です。
(14:26)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
この時の弟子たち、イエスさまの目の前にいる弟子たちは、まだ友と呼ばれる資格がありません。しかし、彼らがやがて必ずイエスさまの友と呼ばれるにふさわしい存在になるということを信じておられるイエスさまは、それを先取って弟子たちのことを友と呼ばれました。
イエスの選び
誰が選んだか
(16節前半) あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。
ユダヤ教の伝統では、弟子の方が師匠であるラビを選び、弟子入りをお願いしました。しかし、イエスさまの場合には、イエスさまの方があなた方を選んだと言われています。言いました。確かに、十二使徒であるピリポもマタイも、イエスさまの方から「私に従ってきなさい」「私についてきなさい」と語りかけています(ヨハネ1:43、ルカ5:27)。
ただ、アンデレともう一人の弟子(ヨハネのことだと考えられています)の場合には、ユダヤ教の伝統に則って、彼らの方からイエスさまに弟子入りを願いました(ヨハネ1:38-39)。それでも、まずイエスさまが彼らを救い、彼らを弟子にしたいと願われたからこそ、彼らはイエスさまについていきたいと願うようになったのです。
この話をお読みください。
最近私たちの教会の礼拝式にいらっしゃるようになられたAさんは、かつて心にひどい痛みを抱えていらっしゃいました。そして、その痛みから解放されたいと願い、神社に行かれます。それから、「どれが本当の神さまなのか教えてください」「本当の神さまがいるなら助けてください」と祈ったそうです。
するとその後、さまざまな導きによって教会と出会い、イエス・キリストを信じるようになりました。あの時祈ったように、本当の神さまを知ることができたのです。
私自身も、自分が福音を信じて救われるまでのプロセスを振り返ってみると、何か強い力が働いて救われるよう導かれてきたのだということを認めざるを得ません。私が救われたのは奇跡です。
私たちは自分の意思で聖書を読んだり、教会の集会に出席したり、福音を信じたりします。それは紛れもない事実です。その一方で、私たちがそうしたのは神さまが私たちを救いたいと願ってくださり、導いてくださったからです。
だからこそ安心です。私たちがイエスさまを選んだのなら、私たちの信仰が揺らぐと救いの土台も揺らいでしまいます。しかし、選んだのがイエスさまだとしたら、私たちの信仰がどんなにアップダウンしようとも、救いの事実は変わりません。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
弟子たちの弟子入りを願われ、彼らを弟子として選ばれたのはイエスさまです。そして、多くの弟子の中から12人を選び出し、使徒という特別な立場に任命したのもイエスさまです。
選んだ目的
(16節後半)それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
イエスさまが弟子たちを選んだのは、2つの目的に基づきます。
- 弟子たちが出て行って実を結び、しかもその実が残るようになること
- 弟子たちがイエスさまのお名前によって求めるものが、父なる神さまによって与えられるようになること
1番目の目的は何を表しているのでしょうか。これは弟子たちが出て行って伝道するようになり、救われる人たちが起こされることを示しています。
イエスさまが十二人を使徒として任命した直後、2人一組にしてイスラエルの各地に派遣なさいました。彼らはイエスさまこそ救い主であって、救い主が地上に建設すると預言されてきた神の国の実現が近づいたと宣べ伝えました。その結果、イエスさまを救い主だと信じる人たちが起こされました。
また、イエスさまが昇天なさった後、聖霊さまに満たされた弟子たちは、出て行って恵みの福音を宣べ伝えます。そして多くの人がイエスさまの十字架と復活を信じて救われることになります。
2番の目的については、これまでも何回か語られています。これは自分の欲望が全部かなうという意味ではないということを申し上げましたね。
イエスさまのお名前によって祈るとは、まずイエスさまのおかげで罪が赦され、祈りが神さまに届くようになったということを感謝しながら祈るということ。そして、イエスさまの名代として祈るということでした。イエスさまだったら何を祈り求められるだろうかと考えて祈るということですね。
特に、1番目の目的である伝道との関係に注目しましょう。弟子たちが伝道をしていく中で、さまざまな困難や迫害にぶつかります。まさに「友のために命を捨てる」覚悟をしなければならない時もあるわけです。そんなとき、父なる神さまが祈りを聞いてくださるという約束は、弟子たちにとってどれほどの励みになることでしょうか。
互いに愛し合うこと
(17節) あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。
イエスさまは、改めて新しい命令、「互いに愛し合いなさい」という戒めを語られました。
2.イエスの弟子として愛を示そう
犠牲を払う愛
愛とは、他の人の幸せのために、自分が持っているものの中で何かを犠牲にすることです。たとえば、
- バスや電車で、体の不自由な人や妊婦さんやお年寄りに席を譲ること
- 貧困、飢餓、戦争などで生活が困窮している人のためにお金やものをささげること
- 家族のためにテレビのチャンネル権を譲ること
こういった愛の行為が、何かを犠牲にして成り立つというのは分かりますね。さらに、
- 相手の話にじっくり耳を傾けて寄り添うこと
- 落ち込んでいる人を慰め、励ますこと
- 誰かの祝福のために祈ること
こういったことも、自分の時間や体力をささげていることになります。
時に私たちは、犠牲を払うのが惜しいなと感じる場合があります。それでも、その「したくない」という自分の思いを捨てて愛を実践することもまた、犠牲を払うことです。
聖霊なる神さまが、犠牲を払って愛する力を与えてくださるよう祈り求めましょう。みこころにかなう祈りは必ずかなえられます。
もっとも、相手を助けない方が相手のためになる場合もありますから注意が必要です。たとえば、依存的な人を下手に手助けしてしまうと、ますます無責任にさせてしまい、自立を遅らせることになってしまいます。
こういう場合には、「自分でできるよ。一人でやってごらん」と励ましたり、陰で祈ったりするサポートをするのが良いでしょう。こういうサポートもまた、犠牲を払う愛です。
実際相手に何をして差し上げるか、何を犠牲にするかについては、真理の御霊である聖霊さまに知恵を求めましょう。
選び取る愛
これはどういう意味かというと、すでに友だちになっている人に対して愛を示すだけでなく、相手が誰であれ、その人を私の友とし、友として愛そうと決めるいうことです。
イエスさまは弟子たちのことを我が友と呼ばれました。しかし、そんな弟子たちはイエスさまの友と呼ばれる資格のない人たちでした。
弟子たちは、互いに愛し合うどころか、誰が神の国が実現した時に高い地位に就けるか、何度も言い争ったり牽制し合ったりしていました。
また、ペテロは、「イエスさまのためならたとえ火の中、水の中。私だけは絶対にあなたを見捨てたりしません」と豪語していました。他の弟子たちもそうです。しかし、実際にイエスさまが逮捕されると、みんなイエスさまを置いて逃げ出してしまいました。ペテロに至っては、イエスさまのことを「あんな奴知らない」と3度も言ってしまいます。
また、イエスさまが亡くなると、弟子たちは部屋の中に引きこもってしまいました。迫害が自分たちにも及ぶのではないかと恐れたからです。
そんな弟子たちが信仰の勇者に変えられ、互いに深く愛し合い支え合うようになるのは、聖霊さまが降ってこられて彼らを満たしてからです。この時の弟子たちは不完全にもかかわらず、イエスさまは彼らのことを友と呼ばれました。そして、彼らの罪が赦されるために命をささげてくださったのです。
私たちも、本当の神さまを知り、イエスさまの十字架と復活を信じる前に、イエスさまによって選ばれ救いへと導かれました。
イエスさまがそんなふうに愛を示されたように、互いに愛し合いなさいとイエスさまはおっしゃいました。ですから、私たちもまた相手が誰であれ、友と見なして愛を示すのです。
それどころか、別の箇所でイエスさまは
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とさえおっしゃっています。
聖霊さまが私たちに、それを実行する力を与えてくださいますように。
感謝から生まれる愛
イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように」に愛し合いなさいとおっしゃいました。私たちが、どんな相手であっても犠牲を払って愛を示す前提は、まずイエスさまが私たちを一方的に選び、犠牲的な愛を示してくださったということです。
自分はこんなにもイエスさまに愛されている! それが私たちの行動の原動力です。
毎日のディボーション、個人的な聖書の学びと祈りの中で、イエスさまがどれほど私たちのことを大切に思い、また愛の行動を示してくださっているか、思い巡らせましょう。
今週も、イエスさまの愛に満ちあふれ、その愛を原動力として他の人に愛を示していきましょう。 そして、それによって私たちの証しや伝道を通して救われる人という実を結び、また人が救われる過程で神さまに祈りをかなえていただける奇跡を体験しましょう。