(2024年9月1日)
ゲツセマネの園で、イエス・キリストが祈っている場面です。
礼拝メッセージ音声
参考資料
36節の「ゲツセマネ」は、エルサレムの東にあるオリーブ山の、エルサレム側の麓にあった園。「油しぼり」という意味の名前で、オリーブの木が植えられていて、オリーブ油を絞る作業場があったことからそうなづけられたのだと思われます。
36節の「ゼベダイの子二人」とは、使徒ヤコブと使徒ヨハネ。
イントロダクション
十字架の時が刻一刻と迫っています。
「十字架の苦しみ」と言いますが、福音書の記者たちは、十字架の上でのイエスさまの苦しみをどちらかというと淡々と描いているように思えます。むしろこのゲツセマネの場面の方が、イエスさまの苦しみをより深く描き出しているようです。
イエスさまは苦しみもだえながらゲツセマネの園で祈りました。そして、そこで勝利を手にします。後は淡々となすべきこと、すなわち十字架にかかるという痛みを背負われ、私たちが救われるための道を開いてくださいました。
私たちは、生きている以上、様々な苦しみに直面します。そんなとき、どのようにそれを乗り越えていけばいいでしょうか。ゲツセマネの園で苦しみもだえながら祈られたイエスさまから学びましょう。
1.ゲツセマネでのイエスの祈り
ゲツセマネの園へ
弟子への指示
(36節)それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
十字架直前の過越の祭りの食事会、いわゆる最後の晩餐が終わって、イスカリオテ・ユダを除く11人の使徒たちを連れたイエスさまはゲツセマネの園へ向かわれました。ゲツセマネの園は、エルサレムの東にあるオリーブ山の麓にあります。
ゲツセマネの園に到着したイエスさまは、弟子たちにこれから自分は祈りをささげるということを告げ、ここに座っているようにと指示しました。平行記事のルカ22:40では
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と語っておられますから、ただ座っていればいいというのではなく、祈ることが求められています。
「誘惑」は「試練」とも訳せます。信仰が本物かどうかを試すためのテストのことです。間もなくイエスさまは逮捕され、十字架刑で殺されてしまいます。その時、悪魔は弟子たちに「イエスへの信仰なんか捨ててしまえ」と誘惑してきます。弟子たちはその信仰のテストに合格する必要があるのです。
その力を神さまからあらかじめ受け取るために祈りなさい。イエスさまはそのように弟子たちにお命じになりました。
悲しみもだえるイエス
(37節)そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
それからイエスさまは、弟子たちから離れて奥に進まれました。ルカ22:41には
「石を投げて届くほどのところ」と書かれています。それほど遠くではないけれど、すぐそばでもないという距離です。
その際、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は一緒に連れて行きます。イエスさまが十二使徒の中でこの3人だけを連れて行動なさったのは、この場面だけではありません。ヤイロの娘がよみがえった時、そしてヘルモン山でイエスさまが栄光の姿に変えられた時も、この3人だけが同行を許されました。
すると、イエスさまは悲しみもだえ始めました。次の節にもそのことが書かれています。
3人の弟子へのイエスの願い
(38節)そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
イエスさまは3人の弟子に、ご自分が死ぬほどに悲しい思いをしているということを正直に話されました。悲しみの理由については後ほど解説します。
それから、自分と一緒に目を覚ましていて欲しいと願われます。これもただ起きていろということではなく、祈って欲しいということです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、自分が誘惑に陥らないようにと祈る上に、イエスさまが悲しみを乗り越えることができるように援護射撃の祈りをすることを求められました。
イエスの祈り
父への願い
(39節)それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
イエスさまは祈りの中で、天の父なる神さまに2つの願いをなさっています。
- 「この杯」を過ぎ去らせてください。
- わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。
「杯」とは何を表しているのでしょうか? この言葉は、旧約聖書の預言書では、神のさばきの比喩的表現としてよく用いられました。ぶどう酒の赤い色が血をイメージするからでしょう。たとえば、
(エレミヤ25:15)まことにイスラエルの神、【主】は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。
ですから、今回のイエスさまの場合には、杯とは十字架にかかることを指しています。ただし、イエスさまは十字架にかかることそのものが嫌だとおっしゃっているわけではありません。
旧約聖書は、動物が血を流して犠牲になることによって罪人の罪が赦されるように、救い主が十字架にかかって血を流すことによって、人類の罪が完全に赦されるようになるということを預言しています。
イエスさまは救い主であり、罪のないお方ですから、聖書の教えに反するような願いをささげることなどありません。
人類が罪を赦されるためには、救い主は十字架で血を流し、肉体的に死ぬだけでかまいません。しかし、旧約聖書には書かれていませんが、イエスさまは霊的な死もこれから経験しようとしていました。霊的な死とは、父なる神さまとの関係が断ち切られることです。
永遠の昔から父なる神さまと一つでいらっしゃった御子イエスさまにとって、一瞬でも父なる神さまとの関係が断ち切られることは、大変な悲しみであり苦しみでした。それは、生まれつき罪人として神さまと切り離されて生まれた私たちには想像することができない悲しみ、苦しみです。
ですから、イエスさまは十字架にかかること自体は拒否なさいませんでしたが、できれば霊的な死というさばきについては取り除いて欲しいと父なる神さまに願われたのです。
と同時に、イエスさまは自分の願いではなく、父なる神さまの願いを優先してくださるようにとも祈っています。イエスさまは、ご自分の願いは願いとして正直に告白しましたが、最終的に父なる神さまのご計画に従うと宣言なさったのです。
では、なぜイエスさまが肉体的に死ぬだけでなく、霊的にも死ななければならなかったのでしょうか。なぜそれが父なる神さまのみこころなのでしょうか。それについては後ほど解説します。
ペテロへの指導
(40-41節)それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
「それから」と書かれていますから、割とすぐに祈りが終わったかのように錯覚してしまいます。しかし、実際には少なくとも1時間はイエスさまは祈っておられました。
その間、聖書には書かれていませんが、悪魔がイエスさまの心に、霊的な死がいかに恐ろしいか語りかけ、十字架にかかることそのものをやめてしまえと誘惑し続けたはずです。イエスさまはその誘惑と祈りながら戦われました。ルカの福音書に次のように書かれています。
(ルカ22:43-44)すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
ところが、祈りのサポートをお願いしていた弟子たちは、その間に眠りこけてしまいました。夜も更けてしまっていたからです。イエスさまはどんなにかガッカリなさったことでしょうか。
ベッリーニ「ゲツセマネの祈り」(画像引用:Wikipedia)
その一方で、イエスさまは「霊は燃えていても肉は弱い」とおっしゃっています。たとえイエスさまに忠実に従いたいという思いは強くても、人間は肉体的な弱さを抱えているということです。その肉体的な弱さによって、信仰的な思いに応じた行動ができないときがあります。イエスさまはそのことを指摘して、眠ってしまった弟子たちに理解も示しておられます。
2度目の祈り
(42節)イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
イエスさまは、2度目の祈りをおささげになりました。
マタイの福音書では後半の祈りしか記されていませんが、マルコ14:39には
「前と同じことばで祈られた」と書かれていますから、前半の「この杯を過ぎ去らせてください」という祈りもなさいました。そしてイエスさまは、自分が霊的な死を迎えることが父なる神さまのみこころなら、それに従いますという祈りもなさいました。
どうしてイエスさまが十字架にかかり、肉体的に死んで血を流すだけでなく、霊的に死んで父なる神さまから切り離されなければならないかという話が残っていましたね。それは、イエスさまが天の大祭司になるためです。
大祭司は、罪のある人間ときよい神さまとの間を取り持つ仲介者の役割を担っています。モーセの律法の定めでは、大祭司は年に一度、神の幕屋(後の神殿)の至聖所という場所に入り、イスラエルの民がその1年の間に犯した罪が赦されるための儀式を行ないます。
この大祭司について、聖書は次のように教えています。
(ヘブル5:2)大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
イエスさまは人間してこの地上に来られ、人間が味わう様々な悩み苦しみを体験なさいました。そして、神さまに切り捨てられるという霊的な死においても、人間と同じ体験をしてくださいました。だからこそ、イエスさまは天の大祭司として、私たち人間のために天の父なる神さまに心からの取りなしをしてくださることができるのです。
(ヘブル4:15-16)私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ですから、旧約聖書には書かれていませんでしたが、イエスさまはご自分が霊的な死を体験することが父なる神さまのみこころだと知り、それを受け入れようとなさいました。ただ、それはイエスさまにとって あまりにもつらく、悲しく、苦しいことですから、血のような汗を流しながら、この苦しみを乗り越える力を求めて祈られたのです。
そして、だからこそ弟子たちにもサポートの祈りを願いました。ところが……
また寝てしまった弟子たち
(43節)イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
3人の弟子たちはまた寝てしまっていました。マルコ14:40には
「彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった」と書かれていますから、この時目覚めはしました。同じ間違いを繰り返したわけで、弟子としては大変な失態です。しかし……
3度目の祈り
(44節)イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
イエスさまは弟子たちを責めることをせず、また元の場所に戻って3度目の祈りをなさいました。
逮捕の予告
弟子たちを起こすイエス
(45節)それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
3度目も弟子たちは寝てしまっていました。イエスさまは彼らを起こすと、ご自分が神さまに逆らう者たちによって逮捕される時が来たとおっしゃいました。
積極的に捕まりに行くイエス
(46節)立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
「わたしを裏切る者」とは、イスカリオテのユダのことです。
ユダヤの指導者たちはイエスさまを憎み、殺したいと願っていました。しかし、民衆に人気があり、少なくとも預言者だと思われているイエスさまを公衆の面前で逮捕すると、暴動が起こりかねません。そこで、ユダは銀貨30枚と引き換えに、イエスさまを密かに逮捕できる場所を指導者たちに教えて、捕り方と一緒にゲツセマネの園にやってきたのです。
アンジェリコ「イエスの捕縛」(画像引用:Wikipedia)
イエスさまは「さあ、行こう」とおっしゃいました。それは逃げ出して逮捕を逃れるためではありません。神さまのみこころ通りに十字架にかかり、肉体的な死と霊的な死を引き受けるためです。
そこには、霊的な死を悲しんで苦しむイエスさまの姿はありません。イエスさまは父なる神さまのみこころに従う覚悟を決め、堂々と十字架に向かって進んで行こうとなさったのです。イエスさまは祈りの戦いに勝利をなさり、平安を手になさいました。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。イエスさまとは内容が異なりますが、私たちもまた悩み、悲しみ、苦しみを体験します。そんな私たちが悩み、悲しみ、苦しみに勝利をし、信仰を奪い取ろうとする悪魔や悪霊の誘惑をはねのけて勝利を得るために、イエスさまのゲツセマネの祈りは何を教えてくれているでしょうか。
2.正直かつ信仰的な祈りをささげよう
ゲツセマネの祈りの2つの側面
イエスさまのゲツセマネの祈りには、2つの側面があります。それは、
- 自分の気持ちや願いを正直に告白して願う側面
- 神さまのみこころに従うと宣言する側面
です。
自分の気持ちや願いを正直に告白しよう
イエスさまは、霊的な死についての悲しみを正直に父なる神さまに告白なさいました。そして、できれば霊的な死を体験しなくて済むようにして欲しいと願われました。
その祈り方はどうだったでしょうか。静かにつぶやくように祈られたと思いますか? いいえ。ヘブル5:7には
「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」と書かれています。それだけ必死だったということです。
また、弟子たちにも正直に自分のつらい思いを告白して、祈りによって支えて欲しいと願いました。
私たちも、大声を出すかどうかは別として、イエスさまの正直さは見習いたいと思います。本当は苦しくてつらいくせに、神さまへの個人的な祈りの中でも「苦しくありません。ハレルヤ!」などと自分をごまかすのではなく、少なくとも祈りの中では、正直に自分の否定的な気持ちを打ち明け、助けてくださるように願いましょう。
また、信仰の友に祈りのサポートをお願いしましょう。
そうするなら、イエスさまの元に天使が遣わされて励ましたように、私たちにも神さまからの助けの手が差し伸べられます。
神のみこころに従うと宣言しよう
勝利の秘訣は正直な祈りというわけですが、それだけなら異教徒の人々の方が率直かつ大胆に祈りますね。家内安全、商売繁盛、良縁、子宝、病気快癒、志望高校学、大願成就……。
しかし、クリスチャンの勝利の祈りは、ただ正直なだけではありません。どんなに無茶な願いを並べ立ててもいい。泣いたり、わめいたり、さんざん悪態をついたりしてもいい。それでも、最後には、「神さまのみこころの通りになりますように」と祈るのです。
なぜ、私たちは自分たちの正直な気持ちや願いを祈るだけでなく、「神さまのみこころのままに」と祈るのでしょうか。それは、「神さまは最善以外のことをなさらない」と信じているからです。
私たちは、感情ではイヤだと思うかもしれません。自分の考えや計画が一番だと思うかもしれません。しかし、それでも神さまのご計画が一番だというところに戻っていきます。だから、「みこころがなりますように」と祈るのです。
2人の女性への神のみわざ
神学生の頃、2人の印象的な女性と出会いました……と言っても、浮いた話ではなく、神さまのために働いている先生方で、一人は池田登喜子先生、もう一人は矢部登代子先生とおっしゃいます。二人とも病気や怪我が元で歩けなくなってしまったという、共通の体験をお持ちです。
池田先生は、貧しさ故に十分な治療ができず、足の骨まで腐って、ぶよぶよになってしまいました。しかし、あるとき、宣教師の祈りによって奇跡的にいやされ、不自由なく歩くことができるようになりました。そして、伝道者となって、神さまはどんな絶望的な状況からも、人を救い出すことができるのだということを、ご自分の体験によって語っておられました。
一方、矢部先生はいやされませんでした。むしろ、治療がうまくいかず、関節が固まってしまい、車いすに座ることさえできない体になってしまいました。しかし、絶望の中で聖書に出会い、「人は生きているのではなく、生かされているのだ。生かされている以上、どんな人にも生きる意味と使命が与えられているのだ」ということを知らされます。そして、生きる希望を見出されたのでした。
そんな矢部先生の元に、たくさんの子どもたちが集まってくるようになりました。また、悩みを抱えた人たちが集まってくるようになりました。そして、その集まりはやがて教会になりました。
池田先生はいやされることによって、矢部先生はいやされないことによって、それぞれに神さまの愛や力を人々に伝え、人々を慰めたり励ましたりしておられました。
どうして、一方はいやされ、一方はいやされなかったのか。どうして逆ではいけなかったのか。あるいは、どうして二人ともいやされるのではいけなかったのか。それは分かりません。しかし、大切なことは、お二人とも、与えられた人生を最終的に受け入れ、そこで神さまに従おうとなさったということです。それが、それぞれに最高の人生をもたらしました。
神の計画を受け入れ従うという宣言
神さまは最善以外のことをなさいません。あなたは今、戦いの中にいらっしゃいますか? 知ってください。あなたの上にも、神さまの最善が実現しつつあります。
ですから、正直に自分のつらい気持ちを神さまに告白し、自分の願い通りにその問題が解決するようにと祈ると共に、最後には「それでもあなたのご計画の通りになりますように。私はあなたのご計画に従います」と宣言する祈りもささげましょう。
今週も、神さまが祈りを通して私たちに平安やワクワクするような思いを味わわせてくださいますように。