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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

アナニアとサッピラへのさばき

使徒の働きシリーズ7

使徒の働き5章1節〜11節

(2025年1月26日)

初代教会のメンバーだったアナニアサッピラ夫妻が、神のさばきによって死んでしまったという記事です。ここから神の恵みを見出します。

礼拝メッセージ音声 ※修正済み


イントロダクション

大きく成長していく初代教会に、罪の問題が現われます。その結果、アナニアとサッピラの夫妻が神さまからの罰によって命を失いました。

神のさばきなどというテーマは、喜んで学びたい内容でありませんね。しかし、そんな悲しい記事の中にも神さまの恵みと祝福が隠されています。今日はその宝を掘り当てて感謝や喜びを味わうと共に、さらに熱心にイエスさまに従っていこうというやる気を引き出していただきましょう。

1.アナニアとサッピラへの罰

さばきの発端

原始共産制
今回の出来事の背景を見てみましょう。直前にこのようなことが書かれています。

(使徒4:34-37)彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

できたばかりのエルサレム教会では、メンバーが自分の財産を持ち寄って、必要な人に分配していました。そのため、生活に困窮する人がいませんでした。エルサレム教会のクリスチャンたちは、互いに支え合っていたのです。

ここで、特にバルナバの名前が挙げられています。これは「使徒の働き」の中で、後に彼がパウロの保証人になったり、一緒に伝道旅行に出かけたりするという重要な役割を担うことになるからでしょう。
土地の売却
(1節)ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、

そして今回の箇所です。アナニアとサッピラという夫婦が登場します。彼らは、他のクリスチャンたちと同じように、自分が持っていた土地を売り払ってお金に換えました。教会にささげて、貧しい人の生活を支えるためです。

ここまでは、バルナバを始めとする他のクリスチャンたちと同じでした。
一部だけの献金
(2節)妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

当時のエルサレム教会は、神殿で礼拝したり教えを受けたりするほか、信者の家に分かれて集まっていました。いわゆる「家の教会」です。アナニアは、自分たち夫婦が所属している家の教会の場所にやってきます。このとき、アナニアはサッピラを家に残して、一人で献金を持ってきました。

アナニアとサッピラの行動が他の人たちと異なったのは、代金の一部を自分たちの手元に残したということ、すなわち一部しか献金しなかったということです。この事実は、アナニアだけでなく妻のサッピラも知っていました。

アナニアへのさばき

聖霊を欺いた罪
(3節)すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。

2節に「使徒たち」と書かれていますから、この時十二使徒のうち少なくとも2人はその場所にいたということです。その一人はペテロでした。

ペテロは、アナニアが土地の代金の一部しか持ってこず、残りは手元に残したことを見抜きます。そして、アナニアがサタン(悪魔)に心を奪われて、聖霊なる神さまを欺こうとしたと言いました。つまり、アナニアが罪を犯したと指摘したのです。
つく必要がなかった嘘
(4節)売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

ペテロはアナニアに、どうして今回のようなことを企んだのかと尋ねます。そもそも、自分の財産を貧しい人たちのためにささげることは、義務ではなかったからです。アナニアたちには土地を売り払う義務はなかったし、たとえ売ったとしても代金のすべてをささげなければならない義務もありません。

すなわち、今回アナニアたちがしたように、代金の一部を手元に残してもまったく問題ありませんでした。

では、何が問題だったのかというと、アナニアが「これは土地の代金の全部です」と嘘をついて献金したことです。自分たちは貧しい人たちのために大きな犠牲を払いましたよと、アピールしたかったのです。

土地の代金のすべてをささげなかったことが罪なのではなくて、自分たちの見栄のために嘘をついたこと、すなわち偽善がアナニアたちの罪でした。
アナニアの死と教会への影響
(5節)このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。

ペテロの断罪の言葉を聞いたアナニアは、神さまのさばきによって死んでしまいました。その結果、この話を聞いた人たちの間に大きな恐れが生じたと聖書は記しています。

この恐れは、「自分たちも、嘘をついたらさばきを受けて殺されるかもしれない」という、神さまの罰を恐れてビクビクするようになったということではありません。神さまに対して、いわゆる畏怖の念、畏敬の念が深まったという意味です。

すなわち、エルサレム教会の中に、もっともっと神さまに忠実に従っていこうという思いが生まれ、それが深まったということです。
アナニアの埋葬
(6節)若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。

教会の中で、若い人たちが死んだアナニアの遺体を包みました。なお、当時の埋葬の手順は以下の通りです。
  1. 遺体を水で洗いきよめる。
  2. 香油と防腐効果がある没薬を塗る。
  3. 帯状の亜麻布でぐるぐる巻きにする。
  4. 横穴式の墓に納める。
  5. 約1年経って遺体が白骨化したら、骨を箱に入れる。
  6. その箱を墓穴の奥や別の場所に設けられた棚に安置する。

アレクセイ・アレクセイヴィチ・ハルラモフ作
「アナニアとサッピラの罰」(1865年)
(画像引用:MEISTERDRUCKE

サッピラへのさばき

3時間経過
(7節)さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。

アナニアが死んで、若者たちがその遺体を処置して葬っている間に、約3時間が経過しました。アナニアの妻であるサッピラが、ペテロたちのいる家にやってきます。サッピラは夫の身に何が起こったのか知りません。
ペテロの質問とサッピラの答え
(8節)ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。

ペテロは、今回の献金が土地の代金のすべてだったのかと尋ねました。これはサッピラにとって、自分たちが見栄のために嘘をついたことを告白するチャンスでした。

聖書は、罪を告白するなら、神さまがその罪を赦してきよめてくださると約束しています。

(第1ヨハネ1:9)もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

アナニアとサッピラは、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンです。ですから、ここで正直に自分たちがやったことを認めて悔い改めていれば、サッピラの罪は赦されたはずでした。しかし、サッピラは罪を告白せず、嘘を重ねてごまかす道を選んでしまいました。
ペテロによる断罪
(9節)そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」

ペテロは、悔い改めなかったサッピラに言いました。まずペテロは、アナニアとサッピラが聖霊なる神さまを試そうとしたと指摘します。「神を試す」とは、神さまの力や心、忍耐、約束が本当かどうか信じず、疑うことです。 今回のケースで、もしもアナニアとサッピラが、人がどんなに隠そうとしても神さまは人の心の内をお見通しだということ、また神さまは偽善を嫌っておられるということを信じていたら、教会の人たちの前で「これが代金のすべてです」と偽らなかったでしょう。

サッピラの罪を指摘したペテロは、聖霊さまを試そうとした罪、この場合には偽善の罪を犯して、悔い改めのチャンスを生かさずごまかし続けようとしたサッピラに、神さまからのさばきが下ると宣告しました。

夫を葬った人たちがサッピラを運び出すというのは、サッピラも死んで葬られるという意味です。
サッピラの死と埋葬
(10節)すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。

ペテロの預言はただちに実現しました。サッピラはすぐに倒れて死んでしまいます。そして、アナニアの埋葬を終えて戻ってきた人たちは、続けてサッピラも埋葬することになりました。
畏怖の念の拡大
(11節)そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。

今回の出来事を通して、教会全体に神さまに対する畏怖の念が広がっていきました。5節にも同様のことが書かれています。2回書かれているのは、これが重要なポイントだということです。

アナニアとサッピラに対する神さまのさばき自体は、大変悲しく残念なことです。しかし、そのさばきを通じて教会の人たちの中に、ますます神さまに忠実に従っていこうという思いがわき上がりました。こうして、エルサレム教会はますます力強く拡大していくことになります。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神への正しい恐れを持とう

罪と神は相容れないことを知ろう

今回の箇所を含めて、聖書は神さまに対する恐れを持つことを命じています。といっても、それは罪に対する罰を恐れて萎縮するということではありません。

私たちが「この私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかった。そして、死んで葬られ、3日目に復活した」と信じるなら、その人はクリスチャンです。すなわち、過去・現在・未来のすべての罪が赦され、それどころか神さまの子どもとして愛され、永遠に続く祝福をいただくことができます。

イエスさまを信じてクリスチャンになってからも、私たちは神さまの命令を守らなかったり、神さまの約束を信じられなかったりします。すなわち罪を犯してしまうことがあるのです。しかし、そんな罪も神さまに告白するならすぐに赦されます。
罪を犯していいわけではない
だからといって、「どうせ赦されているんだから、安心してどんどん罪を犯してかまわない。自分勝手に生きてかまわない」ということにはなりません。罪は神さまと相容れません。罪は、神さまの存在やすばらしさを無視したり値引いたりすることです。

私たちは大切な人に裏切られたり、無視されたり、馬鹿にされたりしたら傷つき、悲しみますね? 神さまは私たち人間のことを深く愛していらっしゃいます。ですから、私たちは罪を犯すと神さまは傷つき、悲しまれます。

そのことを知っていたら、「どうせ赦されるんだから、罪なんてどうでもいい。自分勝手に生きていこう」などという発想が生まれるはずがありません。

罪は、本来イエスさまが身代わりに死んで償いをしなければならないほどにひどいものだということを、私たちは忘れてはなりません。そして、神さまのみこころを学び、それに従う生き方を熱心に追求しましょう。

罪を犯すと私たちも損をすることを知ろう

罪は神さまを傷つけるだけではなく、私たちにも損害をもたらします。
(1) 神との関係がおかしくなる
神さまと罪は相容れませんから、私たちが罪を犯して悔い改めないでいると、神さまとの関係がおかしくなってしまいます。その結果、神さまへの祈りが聞かれているという確信を失ったり、神さまからの祝福が私たちに届かなくなったりします。
(2) 千年王国の祝福をもらい損ねる
また、将来実現する神の国(千年王国)では素晴らしい祝福を味わいますが、生きている間に行なった良いわざに応じて、追加の祝福がいただけます。

ですから、どうせ赦されるんだからといって、神さまを無視して自分勝手な生き方を続けていると、本来いただけるはずの千年間続くボーナスをもらい損ねることになります。これは損ですね。
(3) ショック療法としての罰が下ることがある
そして、神さまは愛する私たちが罪を犯し続けることを望まれないので、悔い改めないでいると一種のショック療法として罰を与えることがあります。何か痛い目にあうのです。場合によっては、今回のアナニアとサッピラのように、命を失うこともあります。

コリント教会では、聖餐式に関して問題が生じていました。お金持ちだけでさっさと食事を済ませてしまったり酔っ払ってしまったりして、貧しくて食べ物を持ってこられない人たちが聖餐式に参加できないでいたのです。

パウロは手紙の中で、その差別の罪や聖餐式をないがしろにする罪を教会の人たちが悔い改めない結果、病気になったり死んでしまったりする人たちがかなりいると指摘しています(第1コリント11:18-34)。

クリスチャンはすべての罪がすでに赦されています。そのことは決して忘れてはなりません。罰を恐れてビクビクするのは神さまの望まれる生き方ではありません。

しかし、だからといって罪を犯し続けるのは損です。罪を犯したことに気づいたら、サッピラのようにごまかさないですぐに悔い改めて赦しを確認し、神さまとの関係を回復しましょう。

神に愛されていることを知ろう

罪とさばきの問題を考える際、神さまの愛を抜きにして考えてはなりません。イエスさまは私たちが罪の罰を受けて滅びることを良しとなさらず、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。それほどまでに私たちは神さまに愛されているのです。

あのアナニアとサッピラも、悔い改めなかった結果命を失いましたが、その魂は救われています。私たちが死んで天のパラダイスに挙げられたら、そこにアナニア夫妻がいます。

私たちが信じる神さまは、愛の神、恵みの神、赦しの神です。そのことを決して、決して忘れてはなりません。私たちは罰が怖いからイエスさまに従うのではなく、イエスさまに命がけで愛されている感謝と喜びの故に、熱心に従おうとするのです。

この話をお読みください。
昔、横山幹雄牧師(となみ野聖書教会)が語ってくださった言葉が心に残っています。それは、「何が罪かを考えるより、どうしたらイエスさまに喜んでいただけるかを考えましょう」という言葉です。

何が罪かばかり考える生き方は、「どうやったら神さまに叱られないで、しかも自分の好きなことをやることができるだろうか」という、なんだか神さまの目を盗むような生き方につながりかねません。そのような態度は不健全であって、神さまとの良い関係を育てないどころか、むしろおかしくしてしまうでしょう。

川端光生牧師(キリストの栄光教会)が、著書「理屈っぽい人のQ&A要点ノート」の中でこんなエピソードを書いておられます。ある人が川端先生にこう尋ねました。「姦淫は罪ですね?」

先生はこう答えます。「その通り、妻以外の女性と関係を持つことは罪です」。

するとその人は重ねてこう尋ねました。「じゃあ、どうしようもない状況で関係を持ったとしたらどうですか? それでも罪になるのですか?」

川端先生は著書の中でこうおっしゃっています。「もし私が『どうしようもない状況ならしかたがありませんね』と答えたなら、きっとこの人は自分でそのどうしようもない状況を作り出して、姦淫に及ぶつもりだったのだろう」。

そういう心で「罪を犯さないようにしよう。いったい何が罪なのだろうか」と考えたとしても、すでにその人の心は神さまの方を向いていません。神さまとの関係が、最初からおかしくなってしまっています。だからすでに罪を犯しています。

使徒ヨハネが手紙の中に記しています。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません」(第1ヨハネ5:3)

何が罪か考えることも大切ですが、それ以上に、どうすることが神さまを愛することなのか考えるようにしましょう。そしてそのためにも、自分がいかに神さまに愛されているかを考えましょう。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
今週も、聖書を通し、祈りを通し、他のクリスチャンの証しを通し、日々のさまざまな出来事を通して、天の父なる神さま、イエスさま、聖霊さまのあふれる愛を体験しましょう。そして、感謝と喜びに満たされて神さまのみこころを学び、実践しましょう。

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