(2025年2月3日)
教会を迫害するためにダマスコに向かっていたサウロ(後の使徒パウロ)は、天からの光を浴びて失明してしまいます。そして、復活のイエス・キリストの声を聞きます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
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1節の「サウロ」は、後の使徒パウロ。熱心なパリサイ派のユダヤ人で、サンヘドリン(議会)のメンバーだったガマリエルの門下生でした。サウロ(サウル)というのはヘブル語名で、パウロ(パウロス)はギリシャ語名。彼は元々、小アジア南西部にあったタルソという外国の町の出身です。
1節の「大祭司」は、イエスさまが十字架にかけられたときと同じくカヤパ。
2節の「ダマスコ」は、今のシリアの首都ダマスカス。
2節の「この道の者」は、クリスチャンのことです。クリスチャン(キリスト者、キリストに付く者、キリストバカ)という呼び名が誕生するのは、少し後になってから、アンティオキア教会においてです(11:26)。
イントロダクション
教会に対する迫害の急先鋒だったサウロが、後の大伝道者パウロに変わるきっかけとなった出来事を取り上げます。ここから神さまの愛について教わり、励ましをいただきましょう。
1.サウロのダマスコ途上での体験
ダマスコに向かうサウロ
迫害の情熱に燃えるサウロ
(1節前半) さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、
サウロという人物が登場します。後の使徒パウロです。
サウロは、教会で配給の問題に当たるために選ばれた7人の一人、ステパノが石打ちの刑にあったとき、その現場にいました。石を投げる人たちが脱いだ上着の番をしたのです(7:58)。
そして、キリスト教会を徹底的に叩き潰すことこそ神のみこころだと考えます。その後、サウロは積極的にクリスチャンたちを捜し出して捕えていきました。その結果、多くのクリスチャンたちが死刑になったり、エルサレムの外に逃げ出したりしてしまいました(8:1-3、26:9-10)。
ダマスコでの迫害計画
(1節後半-2節)大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
サウロは、クリスチャンたちの一部がシリアのダマスコに逃げ込んだという情報を得ます。そこで、彼らを一網打尽にしようと考えました。そして、ダマスコでもクリスチャンを逮捕する権限を大祭司に求め、ダマスコにあった諸会堂宛の紹介状を手に入れました。
こうして、迫害の情熱に燃えるサウロは、仲間たちと共にダマスコに向けて出発しました。
天からの光と声
天からの光
(3節)ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
あと少しでダマスコに到着するというとき、サウロに向かって天から光が差し込みました。
天からの声
(4節)彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
光を浴びたサウロは、倒れ込んでしまいました。そんなサウロに向かって語りかける声が響きました。それは「なぜわたしを迫害するのか」という問いかけです。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作「聖パウロの回心」
(画像引用:feel the art)
声の主
(5節)彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
サウロが声の主に向かって「あなたは誰か」と尋ねると、声の主は「あなたが迫害しているイエスだ」と答えました。
サウロが迫害していたのは教会、すなわちクリスチャンたちです。しかし、イエスさまはサウロがイエスさまのことを迫害しているとおっしゃいました。それは、教会がキリストの体だからです。
(第1コリント12:27)あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
サウロへの命令
(6節)立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
イエスさまはサウロに、ダマスコの町に入れとお命じになりました。そこでイエスさまはサウロに、これからサウロがすべきことを教えてくださいます。
その内容は、今回の続きの箇所に書かれています。イエスさまが、ダマスコに住むアナニアというクリスチャンに語られた言葉です。
(
15-16節)しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。
彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
少なくとも2つのことがサウロに示されます。
- サウロはイエス・キリストを信じてクリスチャンとなり、さらに伝道者として異邦人の平民や支配者たち、そしてユダヤ人に伝道するようになる。
- サウロがクリスチャンを迫害してきたように、伝道者となったサウロ自身が迫害を受けて苦しむ。
ダマスコに入ったサウロに、イエスさまは「福音を信じて救われなさい。そして、その後は迫害を恐れず、ユダヤ人にも異邦人にも伝道せよ」とお命じになるのです。
同行していた人たち
(7節)同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
サウロと一緒にダマスコに向かっていた人たちにも、イエスさまの声は聞こえました。しかし、何が起こっているのかよく分からなかったでしょう。ただ呆然と立っているだけでした。
目が見えなくなったサウロ
(8節)サウロは地面から立ち上がった。しかし、 目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
イエスさまの語りかけが終わると、サウロは立ち上がります。その時、彼は何も見えなくなっていました。
一人で歩けないサウロは、同行していた人たちに手を引かれてダマスコに入っていきました。
3日間の断食
(9節)彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。
ダマスコに着いたサウロは、ユダという人の家に滞在しました。そして、3日間の断食を行ないました。サウロは混乱していたはずです。
これまでサウロは、イエスは救い主ではなく魔術師だと信じ、またクリスチャンたちを殺して教会を滅ぼすことこそ神さまのためのわざだと固く信じていました。それなのに、天からの光と声によって、それがひっくり返されてしまいました。サウロがやっていたことは、神さまと神さまが遣わされた救い主に逆らう行為だったのです。
どれほどショックで、また混乱したことでしょうか。彼は、今後自分がどうすべきか、断食の祈りをしながら思い巡らしていました。
その祈りの中で、神さまはサウロに、アナニアという人が来て目をいやしてくれると示されました。
(11-12節)「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです」。
また、15-16節に書かれているように、今後のサウロの使命についても示されたことでしょう。
サウロのいやしと救い
その後のサウロについては簡単に解説します。詳しくは、2022年8月22日に語った信仰の助演男優シリーズ24「
ダマスコのアナニア」の記事をご覧ください。
アナニアによるいやし
イエスさまは、ダマスコに住むクリスチャンのアナニアに語られました。そして、サウロが滞在しているところに行って、彼に手を置いていやしてやるようにとお命じになります。最初、サウロのことを恐れたアナニアでしたが、先ほど読んだイエスさまのご計画を知らされると、忠実に命令を実行しました。
するとどうなったでしょうか。
(18節-19節前半)するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。
サウロは見えるようになり、聖霊さまによって満たされました。目がいやされただけではなく、イエスさまによる救いを体験したのです。そして、救いのしるしとして洗礼を受け、食事をしました。
サウロによるダマスコ伝道
(19節後半-20節)サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。
サウロは数日間ダマスコに滞在しました。その間、町のあちこちにあったユダヤ人の会堂に行きました。
元々サウロは、ダマスコに着いたら諸会堂を訪問する予定でした。それは、クリスチャンを逮捕する権限が自分に与えられていることを会堂の人たちに示し、協力を要請するためでした。
ところが、アナニアを通して救いを体験したサウロは、会堂に集うユダヤ人に向かってイエスこそ神の子、すなわち聖書が登場を約束してきたメシア、キリスト、救い主だと宣言します。迫害者サウロが、伝道者サウロに変えられたのです。
アラビア下り
数日間のダマスコ滞在後、サウロは一時的にアラビアに下りました。
(ガラテヤ1:17)私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。
アラビアで何をしていたのでしょうか。おそらく神さまとの祈りの時を過ごしていたのでしょう。そして、旧約聖書とイエスさまの関係、モーセの律法とクリスチャンの関係、信仰義認、異邦人の救い、教会の働きと聖霊の賜物といったさまざまな神学的テーマについて思索を深めていきました。
また、イエスさまが自分に与えた使命についても、深く考えたことでしょう。
エルサレム教会へ
アラビアからダマスコに戻ったサウロは、精力的に伝道活動を行ないました。そのため、ユダヤ人たちはサウロを殺そうと計画しました。そのことを知ったダマスコ教会の人たちは、密かにサウロを逃がします。こうして、サウロはエルサレムに戻っていきました。
バルナバによる取りなし
ところが、ひどい迫害を行なっていたサウロのことを、エルサレム教会の人たちは信用せず、受け入れようとしませんでした。
しかし、バルナバがサウロは確かに救われているということを確認し、間を取り持ってくれたため、サウロはエルサレム教会に受け入れてもらえました。
故郷のタルソへ
しばらくエルサレムに滞在したサウロは、ここでも精力的に伝道しました。特に対象となったのが、ギリシア語を話すユダヤ人たちでした。彼らは外国で生まれ育ち、その後イスラエルに戻ってきた人たちです。
しかし、彼らはサウロの言葉を受け入れず、かえってサウロを殺そうとしました。そこで、エルサレム教会の人たちはサウロを逃がしました。こうしてサウロは故郷であるタルソに戻ります。そして、後にバルナバによってアンティオキア教会に招かれるまで(11:26)、そこに滞在しました。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神は愛してくださるお方だと知ろう
守る愛
教会はキリストのからだ
サウロは、イエスさまを直接迫害していたわけではありません。しかし、イエスさまはサウロに「わたしを迫害している」とおっしゃいました。それは、教会がキリストのからだだからです。
ですから、教会、すなわちクリスチャンたちが攻撃され、痛みを覚えれば、イエスさまも痛みを覚えられます。
イエスはあなたの痛みを知っている
つらい状況に陥って、祈っても祈っても、なかなかそこから抜け出せないとき、「神さまは、私がこんなにつらい思いをしているのを、分かっているの?」と思うことがないでしょうか。
いや、あなたはそうではないかもしれませんが、少なくとも私はしょっちゅうそう思ってしまうのです(何という牧師でせう!)。
しかし、そのたびに今日の箇所を思い出します。私が苦しむとき、イエスさまも同じ痛みを味わってくださっています。それは、イエスさまが私の苦しみを知ってくださっているということです。
痛みに対処してくださる
イエスさまが私の痛みを知って、ご自身も痛みを感じておられるというのは、それだけにとどまりません。イエスさまがその痛みに対処してくださるということです。実際、教会の最大の迫害者であったサウロは、イエスさまによってそれ以上迫害を続けることができなくなりました。
ただし、イエスさまが痛みに対処してくださるというのは、「すぐに痛みや苦しみが取り除かれる」という意味ではありません。
私たちは、痛みや苦しみはすぐになくなることが良いことだと、普通は思いますね。苦しいのは誰だって嫌ですもの。しかし、十字架という苦しみによって世界を救われたイエスさまは、私たちとは違う考え方をなさるようです。
サウロの迫害を、イエスさまは始まってすぐにはお止めになりませんでした。その結果、教会のほとんどのメンバーは、エルサレムに住んでいられなくなり、各地に散らされました。
ところが、迫害者たちにとって皮肉なことに、クリスチャンが各地に散らされたことによって、ますますクリスチャンの数が増え広がることになりました。行く先々で、クリスチャンが伝道を始めたからです。
イエスさまは、あなたの痛みを知っておられます。そして対処してくださいます。もしも痛みがなかなか解消されないとしたら、それには必ず意味があります。そして、痛みは必ず、あなたやあなたの大切な人たち、そしてこの世にとって益になります。
この話をお読みください。
私たちの教会の一員であるAさんは、まだ若いお母さんですが、あるとき健康健診で緑内障の疑いがあると言われました。そこで専門の病院で詳しく検査してもらったところ、今は特に治療の必要はないという結果が出ました。
しかし、このことでAさんは、小学生の息子Bくんの目のことも気になるようになります。眼鏡をかけてもなかなか視力が矯正されないのです。最初はゲームのやり過ぎだと思っていましたが、もしかしたら目に何か病気を抱えているのではないかと考えるようになり、詳しく検査をしてもらいました。
すると、両目が網膜剥離を起こしているとの結果でした。外傷性のものではなく、生まれつき剥離しやすい体質だったようです。このままでは間もなく失明してしまうということで、すぐに手術が行なわれました。
Aさんは、緑内障かもしれないと言われて精密検査を受けるまでの間、失明するかもしれないという不安と戦わなければなりませんでした。結局失明の恐れはないという診断でしたが、あの不安な日々を味わったことは無駄ではありません。あの不安がなければ、Bくんの目を詳しく診てもらおうとは思わず、手遅れになっていたかもしれないからです。
一方、Bくんが網膜剥離にならねばならなかった理由はまだ分りません。しかし神さまにははっきりとした目的がおありです。そしてそれは、BくんやAさん一家、そして私たち他の者にとって、最終的に最善なものです。愛である神さまがすべてを支配し、動かしておられる以上、最善以外はあり得ません。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
イエスさまは私たちの痛みをご存じです。そして、最も良い対応をしてくださいます。このことを信じましょう。たとえそれが実感できなくても、「実感できないけれど、それを信じます」と祈りましょう。
赦す愛
サウロを救ったイエス
イエスさまが、サウロに現れ、語りかけ、一時的に目を見えなくさせたのは、クリスチャンたちを助けるためだけでなく、サウロを助けるためでもありました。
イエスさまはサウロの目を見えなくさせることで、これ以上、神さまに敵対する罪を続けることを止めてくださいました。
そして、彼をすぐに滅ぼすこともできたのに、それをしないで、悔い改めのチャンスをお与えになりました。
さらに、彼の神さまに対する熱心さや持ち味を、本当の意味で生かすための道を教えてくださいました。サウロは、神さまに反逆するために教会を迫害していたのではなく、それが神さまに仕える道だと信じていたのです。本当の意味で神さまのみこころに生きるとはどういうことか、それをイエスさまは彼に教えてくださいました。
復活のイエスさまと出会い、アナニアと出会い、さらに教会と出会ったサウロは、今まで以上に生き生きと神さまに仕えることができるようになりました。
新しい人生
サウロ(後の使徒パウロ)は、ローマ7章で、「自分はしたい善を行なうどころか、したくない悪を行なってしまう。何とみじめな人間なのだろう」と、かつての嘆きを告白しています。
熱心に神さまに仕え、神の民にふさわしいきよい自分であることを目指したパリサイ派であったパウロだからこそ、理想にほど遠い自分の姿にがっかりしていたのでしょう。
だからこそサウロは、何とか神さまにいいところを見せないとと思い、激烈なまでにクリスチャンを迫害したのでしょう。
かつて、イエスさまのところにやってきたパリサイ人ニコデモも、同じような悩みを抱えていました。がんばっても、がんばっても、ちっとも神さまに愛されている確信が来ない。将来必ず神の国に招き入れられるという確信が来ない。むしろ、がんばればがんばるほど、自分が神さまに受け入れられないような不完全な存在だと思い知らされるのです。
しかし、そんなサウロもニコデモも、不完全な自分のままで、神さまに赦され、愛され、祝福されていることを確信し、喜びや感動や希望に満ちあふれるようになったのです。
敵を愛する愛
イエスさまは、私たちクリスチャンに「あなたの敵を愛しなさい。祝福しなさい」と命じておられます。もちろん、私たちの師匠であるイエスさまは、ご自分でもその生き方を実践しておられます。
教会、すなわちご自分のからだを迫害する、本来敵であるはずのサウロを、イエスさまは深く愛し、赦し、祝福された新しい人生をお与えになりました。
あなたは、ご自分が神さまの祝福にふさわしくない、どこか足りない存在だと思うことがありますか? イエスさまと教会の敵だったサウロでさえ、こんなにも愛され、祝福されたのです。あなたも、もちろん愛され、祝福されています。
それを信じてください。そして、それを自分によくよく言い聞かせてください。
あきらめない愛
サウロが選ばれた理由
イエスさまは、当時の教会(クリスチャンたち)を愛し、またサウロを愛しただけではありません。教会の外の人たち、さらにはその時代以降のあらゆる人たちを愛し、祝福しようとなさいました。
サウロが選ばれたのは、ユダヤ人だけでなく、異邦人も救いに導くためでした。当時、ユダヤ人たちの多くは異邦人を軽蔑していました。自分たちは神さまに選ばれた特別な民であり、異邦人は神さまに呪われていると考えていたのです。
しかし、神さまはそんな異邦人を救うためにサウロを選ばれました。その後、サウロは小アジアやギリシアなどを巡って福音を語り続けました。その結果、多くの異邦人が救いに導かれます。
さらにサウロ(パウロ)は、新約聖書に収められているうち、ほぼ半分の、少なくとも13通の手紙を執筆します(ヘブル書は著者不明ですが、パウロだとする説もあります)。そこでは、律法に関する豊富な知識を生かして、クリスチャンの救いや将来の希望、現在の生き方などについて、しっかりとした聖書的な根拠や指針を示してくれています。
イエスさまは、サウロを救い、彼をイエスさまと共に働く使徒としてくださいました。それによって、ユダヤ人ではなくローマ帝国の一員でもなかった私やあなたも、神さまの赦しや祝福の中にあるということを教えてくださっています。
そうです。今日の箇所で、イエスさまがサウロに現れてくださったのは、あなたのことをイエスさまが愛し、あなたにその愛を知って欲しいからなのです。
主の熱心
天の父なる神さまの愛、イエスさまの愛、聖霊さまの愛は、熱心な愛、あきらめずにしつこく追い求める愛です。
あるとき、イエスさまは、羊を100匹持っていた羊飼いの話をなさいました(ルカ15:4-7)。羊飼いは、99匹を野に残してもいなくなった1匹を探し求めます。そして、見つけたなら大喜びをするでしょう。それと同じように、1人の罪人が悔い改めて救われたならば、神さまは天使たちと共に大喜びなさいます。
イエスさまは、あきらめることなくいなくなった一人を捜し求めるお方です。誰一人として失われることを望んではおられません。できるだけ多くの人を救いに導いて、神さまとの親密な関係を取り戻させ、神さまと共に幸せに暮らすことができるようにと、しつこいまでに熱心に願っておられます。
遠慮するのをやめよう
ですから私たちは、イエスさまに対する遠慮を捨て去りましょう。イエスさまの側では私たちを幸せにしたいと、熱心に願ってくださっているのですから。
私たちは神さまによって祝福されているし、これからも祝福され続けます。祝福に対して、「もう少しきよく正しい人間になったら」とか、「もう少し聖書のことが分かったら」とか、「みんなにほめてもらえるような人間になったら」とかいうふうに、私たちの側で勝手な条件をつけないようにしましょう。
この話をお読みください。
昔、ノルウェーの王さまが、お忍びで町に降りていきました。すると、ボロボロの格好をしたヨハンという男が近づいてきて、「もう何日も食べていないのです。どうかお恵みを」と言いました。哀れに思った王さまは、カードを取り出すと、そこにメッセージと自分のサインを書き込み、ヨハンに手渡しました。そこにはこう書かれていました。「このカードを持っている者を、今日の夕食に招待する」。
目の前の紳士が王さまだと知って、ヨハンはとても驚きましたが、同時に自分にとんでもない幸運が舞い込んできたことを喜びました。夕食の時間になると、さっそくヨハンは王宮に出かけていきました。ところが、門番が彼を見とがめます。「こらこら、そんな汚いなりで王宮に入るつもりか。あっちへ行け」。
そこで、ヨハンは王さまからもらったカードを取り出し、門番に見せました。すると、「おお、これは確かに王さまのサインだ。失礼した。通ってよろしい」。ヨハンは無事に王宮に入り、今まで味わったことのない豪華な食事にありつきました。
次の日の夕食時、、ヨハンはまた王宮にやってきました。門番は言いました。「昨日は王さまの招待状を持っていたから通したが、今日は通すわけにはいかないよ」。ところが、ヨハンは門番にカードを見せながらこう言いました。「ほら、ここに『今日の』と書いてありますね。だから、『今日』私は夕食をいただきに来たのです」。門番は「確かにあんたの言う通りだな」と苦笑いしながら、ヨハンを通してくれました。こうして、ヨハンは毎日王宮の夕食にありつくことができたとさ。
私たちもこのヨハンのように、自分に与えられている特権を大胆に使いたいですね。「こんなことをお祈りしたら図々しいんじゃないか」などと心配しないで、今までよりもう少しだけ大胆な祈りをささげてみましょう。