(2025年3月9日)
使徒ペテロが地中海沿いの地域で行なった奇跡の場面です。アイネアという人の中風がいやされ、死んでしまったタビタ(ドルカス)という女性がよみがえりました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
続きを読む
32節の「リダ」は、エルサレムの北西40キロの所にあった町で、今のロード。旧約聖書(第1歴代誌8:12やネヘミヤ11:35)では「ロデ」と呼ばれています。
33節の「中風」は、脳血管障害や脊髄損傷などで体の一部がマヒする症状。
35節の「シャロン」は、ヤッファとカルメル山の間の平原。リダはシャロン平原の中にあります。
36節の「ヤッファ」は、リダの北西18キロの所にあった港町です。今のテルアビブの北部に遺跡が残っています。
43節の「皮なめし」は、獣の生皮をより長持ちして加工しやすい革に変える作業。モーセの律法では動物の死体に触ると汚れるとされていたため、敬虔なユダヤ人からは軽蔑されていました。また、当時の皮なめし技術では強い臭いを発することから、皮なめし職人は町の外に住まわされていました。
イントロダクション
以前東京の伝道所を任されていたとき、ビルの一室を会堂にしていました。あるとき、大家さんが亡くなって代替わりすることになり、仲介の不動産会社も交代しました。そして、新しい大家さんとの間で賃貸契約書を取り交わすことになりました。
その際、家賃の1カ月分を仲介手数料として不動産会社に支払えと言われました。前の不動産会社では、更新手数料など取られたことがありません。そこで支払わないと言うと、じゃあ出て行ってもらうことになると脅されました。
教会に出入りしていた中学生のお父さんが弁護士だったため、事の経緯を説明したところ「法的に支払う義務はない」という答え。それを不動産会社に伝えたら、理不尽な要求をしなくなりました。
知識は力です。知識は私たちを平安にします、勇気を与えます、希望をもたらします。神さまは、正しい知識を私たちに与えて、私たちを支えようとしてくださっています。平安や勇気や希望を与えられるような神さまからの知識を得るには、どのようにすれば良いのでしょうか。
1.リダとヤッファでの奇跡
アイネアのいやし
リダに向かうペテロ
(32節)さて、ペテロがあらゆるところを巡回していたときのことであった。彼は、リダに住む聖徒たちのところにも下って行った。
前回、サウロ(後の使徒パウロ)が救われて、伝道を始めたという話を取り上げました。以前のサウロは、教会を激しく迫害してクリスチャンたちを捕えていました。そんな彼が救われたことによって、ある程度の平和が訪れました。
そこで、使徒たちもエルサレムを出て、あちこちで伝道したり、救われた人たちを教育したりするようになります。使徒ペテロは、エルサレムから地中海に向かう道の途中にある、リダという町に立ち寄りました。そこにはすでにクリスチャンたちがいました。
2月23日のメッセージで、伝道者ピリポがエチオピアの宦官に伝道した記事を取り上げました。その後ピリポはアゾトに瞬間移動し、地中海沿いの地域で伝道しながら北上していって、最終的にカイサリアに定住しました。
今回の箇所に登場するリダや、36節以降に出てくるヤッファは、アゾトとカイサリアの間にあります。ですから、リダやヤッファの教会は、おそらくピリポの伝道によって誕生したのでしょう。
アイネアの病気
(33節)そこで彼は、アイネアという名で、八年間床についている人に出会った。彼は中風であった。
リダに、アイネアという人がいました。この人がクリスチャンかどうか分かりませんが、リダにやってきたペテロは、アイネアと出会います。
このアイネアは中風だったと書かれています。脳血管障害の影響でしょうか、あるいは脊椎を怪我したせいでしょうか、体の一部がマヒしていたのです。そして、8年間寝たきりの生活を強いられていました。
アイネアへのペテロの宣言
(34節)ペテロは彼に言った。「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒やしてくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると、彼はただちに立ち上がった。
ペテロは中風で立ち上がることができないアイネアに向かって、立ち上がって床を整えなさいと命じました。すると、アイネアはいやされ、立ち上がることができました。
この場面は、イエスさまが中風の人をいやされた場面を思い出させます(詳しくは
こちらのメッセージをお読みください)。
イエスさまがカペナウムのある家にいらっしゃったとき、中風の人が4人の友だちに連れられてやってきました。しかし、入口に人だかりができていて中に入れないため、屋根をはがして中風の人をイエスさまの前につり下ろしました。
その時、イエスさまは中風の人に向かっておっしゃいました。
(ルカ5:24)あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。
ペテロがアイネアをいやした際の言葉は、イエスさまの言葉に似ていますね。
ペテロは、自分自身の力でいやしが行なわれるとは思っていません。以前、神殿の美しの門で歩けない人をいやしたとき、「イエス・キリストの名によって歩け」と言っていやしました。今回もペテロは、「イエスさまがあなたをいやしてくださる」とアイネアに語っています。
リダとシャロンの人々の回心
(35節)リダとシャロンに住む人々はみなアイネアを見て、主に立ち返った。
ペテロが、イエスさまによるいやしなのだということを強調した結果、イエスさまのことがルダの町や周辺の町々に広まりました。そのため、多くの人たちがイエスさまの恵みの福音を信じて救われました。
- 恵みの福音とは、「この私の罪を赦すために イエスさまは十字架にかけられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。これを真実だと信じ、受け入れた人は、本当に罪が赦され、神さまの子どもとなり、永遠の祝福を受ける特権が与えられます。
タビタのよみがえり
タビタ(ドルカス)の善行
(36節)またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。
場面はヤッファという町に移ります。ペテロがいるリダから18キロほど北西に進んだところにある港町です。
そこに、タビタというユダヤ人の女性が住んでいました。ヤッファは異邦人が多く住んでいる町なので、タビタはギリシア語の名前も持っていて、ドルカスと呼ばれていました。
この人は多くの良いわざと施しをしていたと書かれています。タビタは、神さまに熱心に従うクリスチャンだったのです。
タビタの死
(37節)ところが、そのころ彼女は病気になって死んだ。人々は遺体を洗って、屋上の部屋に安置した。
信仰深いから病気にならないとか、問題に巻き込まれないとかいうことはありません。敬虔な信者だったタビタですが、病気にかかって死んでしまいました。遺体を処置した町の人々は、遺体を屋上の部屋に安置しました。
ペテロの呼び出し
(38節)リダはヤッファに近かったので、ペテロがそこにいると聞いた弟子たちは、人を二人、彼のところに遣わして、「私たちのところまで、すぐ来てください」と頼んだ。
リダに使徒ペテロがいると知ったヤッファ教会の人たちは、2人の人を遣わして、ペテロを呼び寄せることにしました。これまでペテロは数多くの奇跡を行なってきましたから、ペテロならタビタをよみがえらせてくれるだろうと期待したのでしょう。
嘆き悲しむ人々
(39節)そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
ペテロはすぐにヤッファに向かいました。すると、生前タビタが世話をしていた貧しい未亡人たちがペテロの元に集まってきます。そして、タビタは自分たちのために上着や下着を作ってくれたのだと、実物を見せながら涙ながらに語りました。
未亡人たちは、タビタはこんなにもすばらしい女性だったのだから、ぜひ奇跡によってよみがえらせてくださいと願っているのです。
ペテロによる奇跡
(40節)ペテロは皆を外に出し、ひざまずいて祈った。そして、遺体の方を向いて、「タビタ、起きなさい」と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がった。
ペテロは、遺体を安置していた部屋から人々を去らせて、一人で神さまに祈りました。そして、「タビタ、起きなさい」と呼びかけると、タビタは息を吹き返して立ち上がりました。
この場面も、イエスさまの奇跡を思い出させます。ヤイロの娘が死んだとき、イエスさまは彼女の両親と3人の弟子だけを部屋の中に残しました。部屋に入ることを許可された弟子の一人はペテロです。そして、イエスさまは、死んだ娘に向かって「少女よ、起きなさい」と呼びかけますすると、少女は生き返りました。
イエスさまがヤイロの娘に呼びかけた言葉は、ユダヤ人の日常語であるアラム語で「タリタ・クム」です。そして、今回の場面でペテロがタビタに呼びかけた言葉「タビタ、起きなさい」は、アラム語に直すと「タビタ・クム」。音まで似ていますね。
タビタと人々の再会
(41節)そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちを呼んで、生きている彼女を見せた。
こうしてタビタは、ペテロを通して与えられたイエスさまの奇跡によってよみがえりました。そして、教会の人たちに生きているタビタを見せました。教会の人たち、特に未亡人たちはどれほど喜んだことでしょうか。
ヤッファの人々の回心
(42節)このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
死んだタビタがよみがえったという話は、すぐにヤッファ中に広まりました。その結果、ヤッファでも多くの人たちがイエスさまの恵みの福音を信じて救われます。
その後のペテロ
皮なめし職人シモン宅への滞在
(43節)ペテロはかなりの期間、ヤッファで、シモンという皮なめし職人のところに滞在した。
その後もペテロはヤッファに留まりました。滞在したのは、皮なめし職人であるシモンの家です。
モーセの律法では、人や動物の死体に触れると儀式的に汚れるとされていました。ですから、動物の死体に触る皮なめしの仕事は、敬虔なユダヤ人からは汚れた仕事だとして忌み嫌われていました。また、作業中きつい臭いを発するため、町の中には住めませんでした。ペテロはそのような皮なめし職人の家に滞在したのです。
イエスさまが私たちの罪が赦されるため、私たちの身代わりとして十字架にかけられたとき、モーセの律法は役割を終えて廃棄されました。新約聖書には次のように書かれています。
(エペソ2:14-16)実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
(ガラテヤ3:24-25)こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
そのようなわけで、モーセの律法によれば忌み嫌われるべき皮なめし職人の家、絶対に泊まりたくないはずの場所にも、ペテロは抵抗なく滞在したわけです。
異邦人伝道の壁
そんなペテロですが、まだ異邦人に対して伝道しようという思いは生まれていません。
モーセの律法は、ユダヤ人が異邦人と交流することを厳しく戒めています。それは、まだ霊的に幼かったイスラエルの民が、異邦人の風習を真似て異教礼拝・偶像礼拝に陥ってしまうことを防止するためでした。
異邦人がイスラエルの神さまを信じて救われ、イスラエルの宗教行事や祭りに参加するためには、モーセの律法を守る生活をするという誓約をし、男性の場合には割礼を受けなければなりませんでした。つまり、ユダヤ人のようにならなければならなかったのです。
しかし、モーセの律法が役割を終えたことで、ユダヤ人は異邦人と自由に交流できるようになったし、異邦人は異邦人のままで、ただ恵みの福音を信じるだけで救いをいただくことができます。
エペソ2章で「二つのもの」と書かれているのは、ユダヤ人と異邦人のことです。ユダヤ人と異邦人が共に救われて、一つの体、すなわちキリストの体である教会に属するようになります。
ただし、異邦人への伝道は、次の10章になって初めて実現します。
「使徒の働き」は、モーセの律法が有効だった時代から、モーセの律法が廃棄された後の新しい時代への過渡期の記録です。使徒たちも他のクリスチャンたちも、新しい時代の特徴や行動原則をすべて知っていたわけではありません。聖霊なる神さまは、少しずつ新しい時代について教えてくださっています。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.聖霊の導きに従おう
すべて知っていると思わないようにしよう
ペテロは、クリスチャンはモーセの律法から解放されているということを知っていました。その結果、かつては忌み嫌っていたはずの皮なめし職人の家にも平気で滞在しました。
しかし、そんなペテロでも、この時点ではユダヤ人と異邦人が交流しても問題ないし、異邦人は割礼を受けてユダヤ人のようにならなくても救われるということを理解していません。ですから、リダやヤッファには多くの異邦人が住んでいたにもかかわらず、彼らに伝道しようとはしませんでした。
しかし、聖霊なる神さまは、ペテロや当時の教会の人たちを少しずつ教育し、新しい時代に関する知識を教えて行かれます。ヤッファに滞在していたペテロは、次の章で異邦人が救われる場面を目撃します。そして、異邦人も福音を信じるだけで救われるという真理に目が開かれます。
聖書による学び
今の私たちには、完成した聖書が与えられています。それを読むことによって、新しい教会時代についての知識を得ることができます。しかし、「自分はすでにすべての真理を知っている」というふうに思わないようにしましょう。
新約聖書に収録されている手紙の多くを書いたパウロは、神さまから多くの真理を示され、それを整理して教会の人たちに教えました。そんな彼でも、自分は完成されているとは考えていませんでした。そして、自分はいつでも成長できるし成長すべきだと考えて、常に学び、修練していました。
(ピリピ3:12-14)私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
謙遜に願おう
「分かっちゃいるけどやめられない」「分かっているけどできない」という言葉がありますね。しかし、私の師匠の一人はこう言いました。「分かっていたらやめられるはずだし、できるはずだ。やめられない、あるいはできないというのは、本当には分かっていないからだ」と。
たとえば、本当にはそれをやめなければならない、しなければならないという必要性が分かっていないから本気になれないのかもしれません。あるいは、実行するための方法が分かっていないのかもしれません。いずれにしても分かっていないのです。
にもかかわらず「分かってはいるんだけど」などと言うから、それ以上知ろうとしない、学ぼうとしない、考えようとしない。だからできないんだ、と。
私たちは、「私はもう十分知っている」と考えないようにしましょう。そして、いつも謙遜に「神さま、まだ私が知らないことを教えてください。まだ私が実践できていないあなたのみこころを教えてください」と祈りながら、聖書を開き、学びましょう。
主の栄光を第一としよう
福島県では、日曜日の午後に所ジョージさんの番組が放送されています(所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!)。
その番組の中で、時々古い金庫を空けるという企画が行なわれます。すごいお宝が入っていたということはほとんど無いのですが、それでも古くなって鍵の部分がさびたり壊れたりしている金庫でも、時間はかかっても最終的に開けてしまう鍵開け職人さんたちの技術は、驚くべきものです。
そんな鍵開け職人さんの元に、自分も鍵開けの技術を身につけたいと、弟子入りを希望する人が来たとします。職人さんが志望動機を聞くと、空き巣を働きたいからと答えたとしたら、絶対に弟子入りを認めないはずです。
聖霊なる神さまは、私たちに真理を教えてくださいます。しかし、正しい動機で求めなければ、聖霊さまは教えてはくださいません。
正しくない動機とは、たとえば聖書の知識をたくさん得ることによって、他の人に対して優越感を味わいたいという思いです。
聖霊の思い
聖霊さまは、救い主イエスさまの栄光、すなわちすばらしさを明らかにしたいと願っておられます。イエスさまは、聖霊さまのお働きについて次のようにおっしゃいました。
(ヨハネ16:14)御霊はわたしの栄光を現されます。
そして、子なる神であるイエスさまが栄光を受けることによって、父なる神さまの栄光も明らかになります。最後の晩餐の夜、イエスさまは次のように祈られました。
(ヨハネ17:1)子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
ですから、聖霊さまの願いは、父なる神さまと救い主イエスさまの栄光、すばらしさが明らかになることです。そのために私たちにも知識や知恵や力を授けてくださいます。
ペテロには奇跡を行なう力が与えられていました。その力は、死んだ人をよみがえらせることができるほどでした。しかし、その力はペテロ自身がほめたたえられるためではありません。イエスさまの偉大な力を明らかにすることによって、多くの人々を救いに導くためです。
ですから、ペテロは奇跡を行なう際、自分ではなくイエスさまを前面に押し出しました。自分ではなく、イエスさまがいやしてくださるのだと言うことを強調しました。そんなペテロだからこそ、聖霊さまも安心して助けてくださったのです。
神の栄光を第一としよう
ですから、私たちが聖霊さまの助けをいただいて成長したいのであれば、父なる神さまやイエスさまのすばらしさが明らかになることを第一に考えましょう。そして、神さまの栄光が明らかになるには、どんな言動をすればいいか考え、実践しましょう。
(第1コリント10:31)こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
学んだことを実践しよう
「知っていても実行しないのは、知らないのと同じ」という言葉を聞いたことがあります。
この話をお読みください。
パナソニックの創業者、松下幸之助さんが存命の頃、大阪で系列小売店の店主さんたちを集めて、販売促進セミナーが開かれました。幸之助さんの話の後、その地域で最も収益を上げている店主さんが壇上に上がり、どうすれば収益を上げることができるか、自分の店のやり方を皆に披露しました。
ところが、この店主さん、仕入や販売上の工夫、宣伝のやり方、社員の教育の仕方など、「企業秘密」のようなことまで全部お話しになったのです。
さすがに幸之助さんも心配になり、「同じ地域で、商売敵のお店の方もいらっしゃっているでしょうに、あんなことまでお話しになって大丈夫なのですか?」と尋ねますと、この店主さん、にやりと笑って、「大丈夫ですよ。聞いたって、どうせ実行しませんから」。
私たちは、悪魔に「ああ、あいつにはどれほど聖書を読ませても、教会の集会に行かせても大丈夫だよ。聞いたって、どうせ実行しないから」なんて言われないようにしたいですね。
知っているとは
イスラエルの文化において、「知る」とか「学ぶ」とかいうのは、ただ単に情報を持っているということではありません。知識とは実践的なものです。
たとえば、「スマホについて知っている」というのは、スマホを使ってどんなことができるのか知っているというだけでなく、実際に電話をかけたり、メールを送ったり、写真を撮影したり、調べ物をしたりできるという意味です。
ペテロは、神さまの栄光を現すことが私たちのしなければならないことだと知りました。ですから、奇跡を行なう際にこれはイエスさまのおかげだということを強調しました。また、モーセの律法は役割を終えたから、もはや皮なめしの仕事を忌み嫌う必要はないということを知りました。ですから、皮なめし職人シモンの家に泊まりました。
ペテロは、今回の時点では、異邦人も福音を信じるだけで救われるという知識をまだ与えられていません。しかし、来週取り上げることになりますが、イエスさまからそのことを教えられたとき、躊躇することなく異邦人コルネリウスの家に行って伝道しようとしました。
実践しよう
私たちも、聖霊さまが聖書を通して教えてくださったことを、実際に行ないましょう。もちろん、聖霊なる神さまの助けを願い求めながら。
あなたが今、イエスさまから「これを実行してほしい」と言われているのは何ですか?