(2025年6月1日)
ピリピで不当逮捕されて鞭を打たれ拘禁されたパウロとシラスが、翌日町の長官に抗議する場面です。二人がローマ市民権を持っていたというのが鍵になります。
礼拝メッセージ音声
参考資料
続きを読む
35節の「警吏」とは、ローマ帝国の執政官や裁判官に付き従う護衛・実務執行人のことです。彼らは以下のような任務を担っていました。
- 罪人の逮捕・投獄・刑罰などを執行する
- 公の命令の伝達や執行を行なう
- 公務中の官吏の護衛をする
37節の「ローマ市民」は、ローマ市民権を持った人のこと。ローマ帝国では、文字通りローマに住んでいるローマ人だけでなく、一定の条件をクリアすれば解放奴隷や他民族にも市民権が与えられました。
ローマ市民には以下のような特権がありました。
- ローマの官職の選挙権と被選挙権
- 裁判を受ける権利と控訴権
- 十字架やむち打ちなどの残酷な刑罰の免除
- ローマ正規軍に入隊する権利(安定した給与、退職金、高品質の装備、名誉ある社会的地位)
- 公認の結婚(生まれた子どもが自動的にローマ市民となる)をする権利
- 人頭税や属州民税の免除
40節の「リディア」は、ピリピで最初に救われた女性。家族も一緒に救われました。彼女はティアティラ出身の紫布商人です。
イントロダクション
先週、他の教会の祈祷会で聖書のメッセージを語らせていただきました。その教会では、18年ぶりのご奉仕で、懐かしい方々とも再会を果たしました。その中に、江田信久さんという方がいらっしゃいます。

(画像引用:さわやかカウンセリング)
この江田さん、72歳で英語検定一級の難関を突破したそうです。英検一級は合格率10%といわれる超難関の試験です。人はいくつになっても実を結ぶことができるのですね。
- 英語学習に関するユーチューバーであるタロサックさんが、江田さんのインタビュー動画をアップしておられます。江田さん、聖書や祈りの話もしていらっしゃいますので、ぜひ視聴ください。インタビュー動画はこちらです。
私たちも、英検に限りませんが、人生に多くの実を結んでから天に引き上げられたいですね。今日は、ピリピで不当逮捕され、ムチを打たれて投獄されたパウロとシラスが釈放される場面から、人生に実を結ぶために必要な態度を教えていただきましょう。
1.パウロによる長官への抗議
エピソードの背景
前回の復習をしましょう。
- パウロ、シラス、テモテ、ルカたち一行はピリピにやってきました。そして、ティアティラ出身の商人であるリディアとその家族が救われました。
- それから、パウロは悪霊の力によって占いをしていた女奴隷から、悪霊を追い出しました。
- ところが、女奴隷に占いをさせて儲けていた主人から憎まれ、町を騒がせた犯罪者として訴えられてしまいます。裁判を行なう町の長官は、取り調べもせずにパウロとシラスをむちで打ち、牢に入れてしまいました。
- パウロとシラスが獄中で賛美していると、地震が起こって、牢獄の扉がすべて開き、囚人たちをつないでいた鎖が解けてしまいました。
- それがきっかけで、看守とその家族が救われました。看守は、パウロとシラスを自分の家に引き取りました。
パウロとシラスの釈放と長官への抗議
釈放の命令
(35節)夜が明けると、長官たちは警吏たちを遣わして、「あの者たちを釈放せよ」と言った。
鞭を打ち、一晩牢に入れるという処分を下したことで、長官はパウロたちが十分反省したと判断しました。そこで、釈放するよう命じました。そして、その命令は治安維持を司る警吏と呼ばれる役人によって看守に伝えられました。
看守による伝言
(36節)そこで、看守はこのことばをパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。さあ牢を出て、安心してお行きください」と言った。
このとき、パウロとシラスは牢の中にはいません。イエス・キリストを信じて救われた看守が、自分の家に二人を引き取ったので、二人は看守の家にいました。
釈放の処分について連絡を受けた看守は、パウロとシラスに牢獄から出て良くなったと伝えました。
警吏たちへの伝言
(37節)しかし、パウロは警吏たちに言った。「長官たちは、ローマ市民である私たちを、有罪判決を受けていないのに公衆の前でむち打ち、牢に入れました。それなのに、今ひそかに私たちを去らせるのですか。それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを外に出すべきです。」
釈放の知らせを聞いたパウロは、まだ看守の家にいた警吏たちの前に姿を現しました。そして、自分たちはローマ市民権を持っていると伝えます。
ローマ市民には、裁判を受ける権利や、ムチ打ちの刑には処されないという権利が与えられています。ところが、取り調べを行なわなかった長官は、パウロとシラスがローマ市民権を持っていることを知らず、裁判なしに鞭打ちの刑を執行してしまいました。
これは大変な法律違反です。パウロは、ただ自分たちを釈放するだけでなく、長官本人によるそれ相応の謝罪があってしかるべきではないかと抗議しました。
長官の対応
(38-39節)警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、二人がローマ市民であると聞いて恐れ、自分たちで出向いて来て、二人をなだめた。そして牢から外に出し、町から立ち去るように頼んだ。
長官は、警吏たちからパウロの抗議の言葉を聞きました。そして、パウロとシラスがローマ市民権を持っていることを知ります。
当時、ローマ市民の権利は非常に重視されていました。ですから、ローマ市民であるパウロとシラスを裁判を経ないでムチで打ったということがローマ当局に知られたら、長官は職を失うどころか、ひどい刑罰を受けることになりかねません。
ですから、長官はこの問題が公になることを恐れました。そこで、二人に謝罪します。口止めをしたわけです。
ただ、このままパウロたちをピリピにとどめておくと、また住民たちとトラブルになり、それが元で今回の不祥事が公になってしまうかもしれません。そこで、このまま静かに町を退去してくれるよう願いました。
次の町への出発
教会への励まし
(40 節)牢を出た二人はリディアの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから立ち去った。
パウロとシラスは、町を立ち去る前に、ピリピで最初に救われたリディアの家に向かいました。そして、リディアの家に集っているクリスチャンたちを励ましました。
前々回の聖書のメッセージで、使徒の働きの著者であるルカが、トロアスでパウロ一行に合流したという話をしました。その証拠は、それまで「彼ら」となっていた主語が、「私たち」に変更されたことです。
ところが、次の17章に入ると「私たち」という言葉が登場しなくなります。ですから、パウロたちはルカをピリピに残し、できたばかりの教会、リディア一家と看守一家、他に逮捕されるまでの数日の間に救われたクリスチャンたちを指導させたのでしょう、
- なお、17:14にテモテが登場しますので、テモテは二人についていったことが分かります。
なぜ最初に市民権のことを話さなかったのか
さて、ここで疑問が一つ残ります。それは、どうしてパウロたちは、釈放されるときになって初めて、「自分たちはローマ市民だ」と言ったのかということです。
長官の前に引き出された時、あるいは刑罰を受ける前にそれを語っていれば、今回のようなひどい仕打ちを受けることはなかったでしょう。
考えられる理由の一つは、刑罰を受ける前はそんなことを言い出すチャンスがないくらい、一方的に荒々しい扱いを受けたからでしょう。
そして、後になってローマ市民権を持ち出したのは、自分たちの名誉を回復するためでも、ひどい長官に恥をかかせて復讐するためでもありません。もし復讐したいのなら、今回の仕打ちをローマ本国に告発すればよかったのです。そうすれば、長官は処罰されることになります。
パウロたちが長官に謝罪を要求したのは、ピリピに残されるできたばかりの教会のためです。
教会への配慮
何もしないでパウロたちがピリピを離れると、残されたクリスチャンたちに対しても、理不尽な迫害が待っていることでしょう。また、パウロたちに親切な態度を示した看守は、その態度をとがめられて、罰を受けるかも知れません。
長官は今回のことが負い目となっていますから、教会や看守に対してあまり理不尽な態度は取れなくなります。もしそんなことをして、今回の不祥事をローマ当局に告発されたら、自分の首が飛んでしまいますから。
こうして、パウロとシラスはピリピ教会のことを心から案じ、できうる限りの手を尽くしてから、ピリピの町を後にしたのでした。
ここから私たちは、実を結ぶ人生を送るために何を心がければよいか考えます。
2.自分に与えられている資源を活用しよう
持っているものは何でも使う
パウロとシラスは、神さまの働きのために、自分の持っているものは全部利用しようと思っていました。今回は、ローマ市民権を持っていたので、教会を守るためにそれを利用しました。
パウロが持っていたもの
パウロはもともとユダヤ教のパリサイ派の学者で、旧約聖書に関する神学的知識が豊富でしたから、その知識を使ってユダヤ人に伝道しましたし、新約聖書27巻のうち、少なくとも13巻を執筆しました(他にヘブル書の著者もパウロだという説があります)。
また、ユダヤ教の教師(ラビ)は、民衆に聖書を無償で教え、生活の糧はそれ以外の仕事で得ていました。ヨハネの福音書に出てくるパリサイ人ニコデモは、井戸掘りの仕事で大変成功していたことが、当時の文献によって分っています。
ラビであったパウロも、テント職人として糧を得ていました。そして、後にパウロがコリントを訪問した際、同じテント職人であるアキラとその妻プリスキラと仲良くなり、彼らを伝道チームに引き込むことに成功しています。

ルーベンス作「使徒聖ペテロ」
(画像引用:Meisterdrucke)
あなたが持っているもの
あなたにはローマ市民権も、ラビの資格も、テント作りのスキルもないかもしれません。しかし、あなたが持っているスキルや資格、あるいは経験があるはずです。
自分が持っていないものを数え上げれば、数限りなく挙げられます。しかし、持っているものに注目すれば、それもまた数限りなく挙げることができます。
たとえば、私は、自分には強力なリーダーシップやカリスマ性は皆無だと思います。フランクに人とつき合う能力にも欠けていると自覚しています。
しかし、心理学に関する若干の知識や、四半世紀ほどカウンセリングに関わった乏しい経験、教育現場に関わった多少の経験があります。パソコンやインターネットに関するスキルもそれなりにあります。それらはもちろん大いに利用できる資源です。
中通りコミュニティ・チャーチの初期のメンバーは、ほとんどがネット上のやり取りか、カウンセリングセミナーの働きを通して来られた方々です。
私たちは、無いものにではなく、すでに持っているものに目を留めて活用することで大いに実を結ぶことができます。
マイナスの「持っているもの」
プラスの経験だけが私たちの資源ではありません。失敗もまた重要な資源の一つです。私に関しては、教会を一つ潰した経験は、思い出すほどに心が痛む経験ですが、同時に今の私の働きの根幹をなしている大切な資源でもあります。あの経験があったからこそ、私は、
- 教会は牧師が一人でリードするものではないということ
- 会堂が教会なのではなく、クリスチャンの集まりそのものが教会の本質だということ
- クリスチャンの義務ではなく、神さまの恵みに焦点を合わせるべきであるということ
などを学び、こうして須賀川の地に新しい教会を開拓し、今に至ります。
経験・特性を生かそう
私たちは、プラスの経験であれ、マイナスの経験であれ、様々な経験をイエスさまの働き、価値あることを生み出す働き、人を助ける働きのために用いることができます。
- ある人はヤクザ、別のある人は暴走族の過去があります。それを生かして、彼らは社会のアウトサイダーの人々にイエスさまがくださる希望を語っています。
- ある人は、愛する子どもが長らく不登校、ニートで悩んできました。そして、その経験を生かして、子育ての方法に関する啓蒙活動を行なっています。
- ある人は、バリバリの企業戦士として生きてこられました。それを生かして、熱心な信仰者として生きながら、同時にビジネスマンとして成功することは可能なんだということを証ししておられます。
- 暴動で紹介した江田さんは、子どもの頃から吃音に悩んでこられました。その経験を生かして、今は吃音の方たちの専門的なトレーニングを行なう仕事をしています。
あなたは何を持っておられますか? 持っていないものではなく、持っているものに注目しましょう。そして、それを使って神さまのために何ができるだろうかと考えましょう。
置かれた状況で最善を尽くす
パウロとシラスは、ピリピの町を追い出されることになりました。その決定を覆すことはできそうにありません。あの長官がピリピの町を治めているのだとすれば、同じようなことを残されたクリスチャンたちにする可能性も高いでしょう。
だとすれば、残されたリディア一家や看守一家たちのために何ができるだろうか。パウロとシラスは考え、それを実践しました。
迫害なんかない方がいいに決まっています。しかし、迫害が起きてしまいました。パウロとシラスは、起こった出来事を嘆くことに時間とエネルギーを費やしませんでした。その状況の中で、自分たちにできる最善は何だろうかと考え、それを実践しました。
どんなに泣こうが、わめこうが、人や神さまのせいにしようが、一旦起こってしまった出来事を無かったことにはできません。私たちにできることは、過去を振り返って嘆くことではなく、その残念な状況の中で、「これから私はどうしたらいいんだろうか」と考え、それを実践することです。
起こってしまった過去を嘆くことに時間とエネルギーを費やすのではなく、今の状況でできる最善は何かということを考え、見つけ出し、それを実践しましょう。
そうするなら、私たちは実を結ぶことができます。
動機は愛であることを確認する
当時のローマ帝国で、ローマ市民権を持っているか持っていないかは、非常に大きな違いでした。市民権を持っていないということは、奴隷か、征服された属州の民だということで、市民よりも低い地位にいるということでした。
パウロもシラスも、いわば特権階級にいたわけですが、それを自分のプライドを満足させるために使うことはありませんでした。また、以前紹介したエルサレム会議でも、おそらくパウロ以外のメンバーはローマ市民ではありませんでしたが、パウロは市民としての地位を利用して、自分の主張を押し通そうとはしませんでした。
パウロとシラスが長官に対して市民権を振りかざしたのは、自分の利益のためではなく、教会と看守を守るためでした。すなわち愛が動機だったのです。
クリスチャンの判断基準
クリスチャンにとって、何が正しいか、何をなすべきかを判断する基準の一つは愛です。愛とは、その人の最善を願うことです。
今自分が行なおうとしていることは、神さまにとって本当に最善だろうか、自分自身にとって本当に最善だろうか、他の人たちにとって本当に最善だろうか、ということを考え、実践しましょう。
例話1
Aさんは、会社や教会や家庭で、他の人の問題点を厳しく指摘する人でした。そして、それは相手のためだと思っていました。しかし、あるとき祈っていたら、神さまがそうではないことを示されました。
自分は他人を引き下げることで、自分が立派で正しい人間だということを実感したかったんだと思わされたのです。
そこで、他の人への接し方を変えました。意識して相手のすばらしいところを探し出して認めたり、相手がしてくれた些細な親切に感謝を表したりするようになりました。たとえ問題点を指摘しなければならないとしても、「ここをこんなふうにすれば、もっとあなたの持ち味が引き出されるよ」というような言い方をするようになったのです。
例話2
Bさんは、アルコール依存症のご主人のために、会社に欠勤の言い訳をしたり、飲んで暴れた部屋を黙って片付けたりしてきました。しかし、ある時それはご主人のためにならないということに気づます。
そのようにご主人の無責任な行動の結果を尻拭いしていると、いつまでたってもご主人は自分の問題に向き合うことができず、酒をやめなければならないということに気づくことができません。そこで、かわいそうですが、ご主人を放っておくことにしました。
冷たいようですが、それもまた愛の動機の故の行動です。
どんなふうに行動していいか迷ったときには、自問自答してみましょう。それは、単に自分のプライドや欲望を満足させたり、自分の不安を解消するためだったりしないだろうか。それとも、神さまや自分自身や他の人に対する、真実の愛に基づいた行動だろうか、と。
そして、私たちが愛に基づいて行動するとき、愛である神さまが共に働いてくださり。私たちは実を結ぶことができます。