本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

テサロニケとベレアでの伝道

使徒の働きシリーズ25

使徒の働き17章1節〜12節

(2025年6月8日)

パウロの第二回伝道旅行は、マケドニアのテサロニケ、さらにベレアへと進みます。たくさんの人、特に異邦人が救われますが、テサロニケではユダヤ人による迫害も起こります。

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回の舞台、テサロニケもベレアも、マケドニア属州(ギリシア北部)にある町です。特にテサロニケはマケドニアの首都として発展していました(この頃の人口約12万人)。 ベレアはテサロニケから80キロ西にあった町です。

画像をクリックすると拡大します
(画像引用:聖書 新改訳2017)

7節の「カエサル」は、ローマ皇帝のこと。この時(紀元49年)の皇帝は、第4代クラウディウス(在位:41-54年)です。クラウディウスは49年に、ローマ市からすべてのユダヤ人を追放する命令を出し(使徒18:2参照)、その効力は彼が死ぬ54年まで続きました。

イントロダクション

テサロニケでもベレアでも多くの異邦人が救われました。しかし、救われたユダヤ人の数は、ベレアでは多かったのですがテサロニケではそれほど多くありません。この違いはどこにあったのでしょうか。

ここから私たちが、神さまが約束してくださった祝福を実際に体験するのに必要な態度について考えましょう。

1.テサロニケとベレアでの伝道

テサロニケでの伝道

ピリピからテサロニケへ
(1節) パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。

パウロの第二回伝道旅行は、ギリシア北部のマケドニアで続いています。ピリピの町で伝道していたパウロとシラスは、それまで同行していたルカをピリピに残して、アンピポリス、アポロニアと進み、テサロニケに到着しました。
会堂での伝道
(2節) パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。

イエスさまがパウロに与えた使命は、異邦人への伝道です(ローマ11:13、ガラテヤ1:15-16など)。しかし、神さまの救いのご計画に従って伝道を行ないました。それは、まずユダヤ人に伝道し、それから異邦人に伝道するという順番を守るということです。

テサロニケでも、この方針に従ってパウロは行動しました。テサロニケにはピリピと違ってユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がありました。そこに入って、礼拝のために集まってきたユダヤ人に対して伝道を行ないました。

それが3回の安息日に渡って行なわれたと書かれています。すなわち、テサロニケでの伝道が少なくとも3週間続いたということです。
パウロが語った内容
(3節)そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。

パウロがテサロニケのユダヤ人たちに語ったのは、旧約聖書が到来を預言してきたキリスト(メシア、救い主)についてです。

キリストが来ると、地上の悪をすべて滅ぼして、地上に理想的な王国である神の国(天の御国)を建設して世界を統治し、ユダヤ人や聖書の神さまを信じる異邦人はそこに住んで永遠に幸せに暮らすと信じていました。

パウロは、神の国が実現する前に、キリストは苦しみを受けて死に、その後復活すると預言されているということをテサロニケのユダヤ人たちに語りました。さらに、そのキリストこそ、ナザレのイエスというお方だと宣言します。

また、その証拠を挙げていきました。イエスさまが実際に語ったことや行なったことを挙げて、それらが旧約聖書のキリスト預言と一致しているということを示したのでしょう。
伝道の結果
(4節)彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。

パウロの話を聴いたユダヤ人たちの中に、納得してイエスさまを救い主だと信じる人たちが現われました。ただ、この書き方は、その数がそれほど多くないことを示しているようです。

ただ、ユダヤ教に正式には改宗していないけれど、聖書の神さまを信じ礼拝するギリシア人は、たくさん信じて救われました。男性だけでなく、多くの貴婦人たちも救われます。
ユダヤ人によるねたみ
(5節) ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

ところが、イエスさまを信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人が続々と救われるのを見てねたみ、すなわち嫉妬を覚えました。彼らが異邦人の救いを嫌がったのはなぜでしょうか。それは、当時のユダヤ人が間違った選民思想に毒されていたからです。

ユダヤ人たちは、救いはユダヤ人に特権的に与えられるものであって、異邦人が救われるとしたら、割礼を受けてユダヤ教に改宗し、律法を守ることによってのみ可能だと考えていました。

しかし、パウロは「イエスさまの十字架と復活が自分の罪を赦してくださるためだったと信じるだけで救いが与えられる」と説きました。救われるのに、割礼を受ける必要はないし、モーセの律法を守るという誓約をする必要もないのです。

それを聞いた多くのユダヤ人たちは、自分たちだけが特別に救いをいただいて永遠の祝福をいただけると信じていました。それだけに、ユダヤ教に改宗していない異邦人が神さまに受け入れられるという事実に耐えられなかったのです。

そこでユダヤ人たちは、ならず者たちを使ってパウロとシラスを捕えようとしました。ならず者たちは暴動を起こして町を混乱させ、ヤソンというユダヤ人の家を襲撃します。というのは、ヤソンは、パウロたちを家に招いて住まわせたからです。

ユダヤ人は、聖書を教える教師(ラビ)が町に来たときには、家に招いて歓迎することは神さまに対する大切な奉仕だと考え、実践していました。ヤソンもそのような敬虔なユダヤ人でした。

そのようなわなけで、パウロとシラスを捕えようとした人々は、ヤソンの家を襲ったのです。
ヤソン兄弟の逮捕
(6-7節)しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。
17:7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」


パウロとシラスは外出中で、逮捕の手を免れました。しかし、代わりにヤソンとその兄弟たちが捕えられて役人たちの前に引き出されました。彼らを捕えたならず者たちは、そこにいないパウロたちの罪を言い立てました。
  • パウロたちは世界中を騒がせてきた。
  • そんな奴らをヤソンが家に招き入れた。
  • パウロたちはイエスこそ王であると主張している。
  • これはカエサルの詔勅に背く行為である。
カエサルの詔勅の、具体的な内容については分かりません。しかし、ローマ皇帝は死ぬと神になると信じられていましたし、現役の皇帝も神の子としてあがめられていました。しかし、パウロたちは皇帝ではなくイエスこそ世界の王であると教えていると、ならず者たちは訴えています。もちろん、彼らに入れ知恵したのは福音に反対するユダヤ人たちです。
群衆や役人たちの動揺
(8-9節) これを聞いた群衆と町の役人たちは動揺した。役人たちは、ヤソンとほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。

もしも、ならず者たちの訴えが正しければ、皇帝の存在と尊厳をないがしろにする反逆罪です。そこで、群衆も役人たちも心を騒がせました。

しかし、仮にそうだとしても、反逆罪を犯したと思われるのはパウロたちでヤソン兄弟ではありません。そこで、役人たちはヤソンたちを釈放しました。

ベレアでの伝道

ベレアの移動と会堂での伝道
(10節)兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。

このままではパウロたちが危険です。そこで、新しく誕生したテサロニケ教会の人々は、夜になってこっそりパウロとシラスをベレアに送り出しました。ここには書かれていませんが、13節にはテモテの名前も挙げられていますから、このときテモテもパウロたちに同行したでしょう。

ベレアに付いたパウロたちは、いつものようにユダヤ教の会堂に入って伝道しました。イエスというお方こそ救い主であって、神の国が実現する前に、イエスさまは十字架と復活によって私たちの罪を赦してくださるという話をしたのです。
多くの伝道の実
(11-12節) この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。

ベレアに住んでいるユダヤ人は素直でした。すなわち素直に人の話を聴く心がありました。ですから、先入観や偏見なしにパウロの話を熱心に聴きました。

しかも、ただ盲目的にパウロの話を受け入れたのではありません。本当にパウロが語っているとおりなのか、聖書の預言を読みながら確かめました。

その結果、確かにパウロたちが教えるとおりだと確信して、多くのユダヤ人がイエス・キリストを信じて救われました。それから、ギリシア人たちもたくさん救われました。

アテネへ

その後のことも触れておきましょう。

大変祝福されたベレア伝道でしたが、なんとテサロニケのユダヤ人たちがパウロのベレア伝道について聞きつけます。そして、わざわざベレアにまでやってきて、テサロニケでやったように群衆を扇動して騒ぎを起こしました。

そのため、ベレア教会の人たちはパウロをアテネにまで送り届けました。ベレアからは310キロも離れています。

なお、シラスとテモテはベレアにとどまって、引き続き教会を指導することになります。
テサロニケとベレアの違い
テサロニケでもベレアでも、たくさんのギリシア人がイエスさまを信じて救われました。ところが、ユダヤ人に関しては、テサロニケではそれほど多く救われていません。一方で、ベレアでは多くのユダヤ人が信じて救いを手にしました。

それは、ベレアのユダヤ人たちは素直にパウロたちの話に耳を傾け、本当かどうか毎日熱心に聖書を調べたということです。
ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神さまが私たちに与えると約束しておられる祝福を、実際に私たちが体験するのに必要な態度は?

2.みことばを熱心に学ぼう

(1) 先入観なく読む

ベレアのユダヤ人たちは、先入観や偏見なくパウロの話に耳を傾けました。私たちが聖書を読む際も、先入観や偏見を脇に置いて読まなければなりません。
認知バイアス
私たち人間は、「こうあってほしい」という自分の願いや、「こうであるはずだ」という思い込みなどによって、入ってくる情報を無意識に取捨選択したり、ねじ曲げてしまったりする性質があります。これを認知バイアスと言います。

たとえば、
  • 好きな政治家や芸能人が言ったことを信じて、それに反する証拠を示されても無視する。
  • 女性や高卒の人は、高度な知的能力を必要とする仕事には向かないという偏見を持っていると、実際には能力がある人がいても評価しない。
  • 災害や健康被害などの危険が予想される事態でも、「自分だけは大丈夫」と思って警戒しない。
などです。
文脈に照らして読もう
ある考えを支持する聖書の箇所を探そうと思うと、結構な頻度で見つけることができます。

たとえば、誰かに対して復讐したいと思っているとします。そういう思いが正しいと保証してくれそうな聖書の箇所を探すと、たとえば次のような箇所に目がとまります。

(出エジプト21:24-25)目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。

この言葉はよく「やられたらやり返せ」という復讐の正当化に使われがちです。しかし、これは復讐を煽る言葉ではなく、報復の過剰を禁じるための教えです。そして、個人的に復讐するのではなく、公の裁判に任せるよう命じています。

聖書を読む際は自分の願いや先入観、偏見などを取り除いて、文脈、すなわちその箇所の前後関係の流れや、聖書全体の教えと照らし合わせながら読む必要があります。

(2) ある主張が聖書と合っているか吟味する

ベレアのユダヤ人たちは、パウロたちの主張を盲目的に受け入れたのではありません。聖書を調べながら、本当にパウロたちの主張が正しいのかどうか吟味しました。

世の中には、さまざまな間違った教えが飛び交っています。恐ろしいのは、一応聖書的な裏づけがあるかのように語られることです。

以前、とある伝道団体から小冊子が届きましたが、そこには死んだ後も救いのチャンスが与えられると書かれていました。

イエスさまを信じてから死んだ人の魂は天のパラダイスに入れられ、信じないまま死んだ人の魂はハデスに下ります。そのハデスで悔い改め、イエスさまを信じたら救われるというのです。いわゆるセカンドチャンス論と呼ばれる主張です。

そして、その根拠としていくつかの聖書箇所が挙げられていました。しかし、よく前後関係や言葉の意味を調べてみると、それらの箇所は死後の救いのチャンスについて教えているわけではないことが分かりました。

私たちが間違った教えに惑わされて正しい信仰を失ってしまわないように、何かの主張を聞いたときには本当に聖書の教えに合っているのか吟味するようにしましょう。

(3) 旧約聖書を学ぶ

私が若い頃には、「旧約聖書は、物語の部分はいいんだけれど、何だか難しくて」と敬遠しがちでした。しかし、聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66完全体として完成しています。旧約聖書もしっかり読んで学ぶ必要があります。

もちろん、旧約聖書に書かれている命令、特にモーセの律法と呼ばれている命令は、今のクリスチャンが守る必要がなくなりました。しかし、だからといって旧約聖書全体が不要になったわけではありません。

新約聖書は、旧約聖書という土台の上に積み上げられたものです。新約聖書を深く理解しようと思えば、旧約聖書の知識がどうしても必要です。

新改訳聖書の書籍版には、脚注が付いています。そこを見ると、関連する他の聖書箇所が書かれています。それを頼りに旧約聖書に触れるのも良いでしょう。

ただ、やはり旧約聖書全体を通読することをおすすめします。私も、牧師に勧められて最初はいやいやながら旧約聖書の通読を始めましたが、読み終わったときに新約聖書理解が格段に深まりました。

特に、神さまの救いの計画が創世記の時代から着々と進み、発展して行っている様子や、救いの計画におけるユダヤ人の位置、それまでおまけくらいにしか思っていなかった千年王国の救いの計画における重要性などを知って感動を覚えたものです。
Aさんの救い
Aさんは、過去の失敗体験からひどく自分自身を責めていました。こんなに見にくく汚れている自分は生きている価値がないという考えがいつも浮かんできます。そして、自傷行為や拒食症の症状も出ていました。自殺も何度も考えますが、怖くてなかなか決行できません。そんな弱虫な自分のことも、ますます責めていたのです。

そんなとき、友だちに誘われて教会の集会に参加するようになりました。ある日の礼拝で、牧師がエゼキエル書の一節を引用しました。

(エゼキエル33:11)彼らにこう言え。『わたしは生きている──【神】である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

自分を責め、死ぬことばかり考えていたAさんの心に、「なぜ死のうとするのか」という言葉がズドンと響きました。

この聖書の言葉が気になったAさんは、自宅に戻るとその前後の箇所も調べてみました。この箇所は、バビロン捕囚が背景になっています。

ちなみに、バビロン捕囚は紀元前605年から586年の間に何度か起こっていますが、大きなものは3回起こりました。エゼキエルがバビロンに連れ去られたのは、597年のエルサレム攻撃の時です。ただし、このときはまだ南王国ユダは滅ぼされていません。

この箇所はすでに捕囚されていたエゼキエルが、同じようにバビロンに連れてこられたユダヤ人、あるいはまだ約束の地に残されているユダヤ人に向けて語った預言です。しかし、Aさんは、まるで自分に向けて語られているかのように感じてなりませんでした。

そこで、そのことを友だちに話すと、次の箇所を教えてくれました。

(ヨハネ3:16-17)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

Aさんは思いました。神さまは、イスラエルの悪しき者だけでなく、この自分の滅びも望んでおられないのだ、と。

自分は確かに悪しき者だけれど、それでも聖書の神さまは私が死んで滅びることを望んでいらっしゃらない。むしろ、私が救われて永遠に幸せに生きられるよう、御子イエスさまを送ってくださったの!

その日、友だちの導きでイエスさまを信じたAさんは、その後ぐんぐんと回復して行かれました。
聖書を学ぼう
私たちの信仰の土台は、旧新約聖書66巻です。ベレアのユダヤ人たちは熱心に聖書を調べることによって、神さまが約束しておられた救いを実際に手に入れました。私たちも、熱心に聖書を学びましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com