フルタイムのクリスチャン

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マタイの福音書5章13〜16節

(2015.1.4)

参考資料

15節の「枡」は家庭で粉や穀物などの量を量るのに使ったかごです。一般的には8.75リットルほどの大きさです。ともしびにかぶせて火を消すのにも用いられました。

聖書からのメッセージ

イントロ

イエスさまは、弟子たちを「あなた方は地の塩、世の光です」とおっしゃいました。

1.塩と光のたとえ

たとえの目的

地の塩のたとえも世の光のたとえも、同じことを表しています。イエスさまが私たちを地の塩、世の光にたとえたその目的は、16節です。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」

この世の人たちは、教会やクリスチャンが語る言葉にはなかなか耳を傾けません。しかし、私たちがどういう行動をしているかについては、興味を持って眺めています。世の中には、こうすれば幸せになれますよというメッセージが満ちあふれています。だから、単なる言葉には食傷気味なのです。人々が求めているのはメニューではなく、実体です。

私たちもかつてはこの世の人と同じ存在でした。その私たちが、この世の人とはちょっと違う生き方をするなら、しかもそれがすばらしい生き方であるとこの世の人たちに感じてもらえたなら、まだイエスさまを信じていないこの世の中の人たちは、私たちを造り変えたイエスさまを信じるようになり、聖書の神さまを礼拝するようになります。

イエスさまは、そのことを表すために、地の塩、世の光に私たちをたとえました。

地の塩

塩の役割のひとつは、食べ物に振りかけられて、腐敗を防止することです。イエスさまは、私たちは地の塩であるとおっしゃいました。この地上に振りまかれて、地上の腐敗を防止する役割があるということです。

まことの神さまを信じないこの世は、基本的に神さまのみこころに逆らう方向に傾いています。その結果、道徳的に腐敗していきます。
  • 拝金主義の横行
  • 人の命や尊厳の軽視
  • 差別
  • 性的な退廃
  • 自己中心的な言動
  • 他者の傷みへの無関心
  • 刹那的な快楽主義
私たちクリスチャンは、この世から離れて暮らしているわけではありません。人は触れた者に似ますから、気をつけていないと、だんだんとこの世の価値観に染まっていき、行動や考え方が同じになってしまいかねません。

しかし、私たちはそのことを警戒し、聖書が教える生き方へといつも軌道修正をし続けなければなりません。私たちはこの世の中に住んでいますが、この世と全く同じであってはいけないのです。この世と違うというのは、行動や考え方が違うということです。

そして、この世が神さまのみこころにかなっていないのを嘆いたり、恐れたりしてただ傍観するのではなく、ほんの小さな変化であったとしても、神さまのみこころにかなうものになるよう働きかけるよう、イエスさまは願っておられます。

事実、人種や性別や身分による差別の撤廃、普通教育の普及、公害問題、経済格差の是正など、社会の問題の解決に、クリスチャンたちは尽力してきました。

私たちが、神さまのみこころにかなう行動の仕方、考え方をし、この世がほんの少しでも神さまのみこころにかなう方向に進むよう働きかけるなら、かえって私たちに触れた周りの人たちの行動や考え方が変えられていく。イエスさまは、地の塩のたとえでそのことをおっしゃっています。

世の光

先ほど、気をつけていないと私たちはこの世の価値観、行動の仕方や考え方の影響を受けてしまうと申し上げました。だからといって、この世から完全に引きこもり、自分たちだけのコミュニティを作って生きるというのは神さまのみこころではありません。

イエスさまは「山の上にある町は隠れる事ができません」とおっしゃいました。夜になると町の明かりが遠くからでも見ることができるからです。また、ともしびを枡の下に隠して光が漏れないようにするのは馬鹿げています。ともしびは高く掲げて、周りを照らすためにあります。

それと同じように、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」なさいとイエスさまはおっしゃいました。光とは、この場合「良い行ない」のことです。

ともしびは高く掲げられなければなりません。塩も塩だけでテーブルに置かれていても、その使命を果たしたことにはなりません。塩は料理の中に振りまかれ、料理に塩気を付けて初めて役に立つのです。

私たちも、積極的にこの世の中で、神さまのみこころにかなう良い行ないを実践しましょう。それにより、この世の腐敗が防止され、また人々がイエスさまを信じて神さまを礼拝するようになります。

教会の中ではクリスチャンっぽく過ごすけれど、教会の外、すなわち家庭や学校や職場では、他の人と全く変わらない行動や考え方をしているというのは、イエスさまが望まれるクリスチャン生活ではありません。日曜の数時間だけのサンデー・クリスチャンではなく、1日24時間、1週7日間、1年365日間、私たちはフルタイム・クリスチャンとして生きていかねばなりません。

2.地の塩、世の光として生きよう

行動を整える

聖書は、私たちが教会の中だけでなく、家庭や学校や職場や地域の中で、どのような行動をしたらいいかを教えてくれます。

盗むな、夫婦以外の性的関係を持つな、自分を守るために嘘をつくなというような禁止命令の他、貧しい人たちや困っている人たちを助けるため、具体的な行動を起こすよう命じています。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(ヤコブ1:27)

あなたの行動を振り返ってみましょう。これはやめるべきだ、あるいはこれはぜひ行なうべきだと示される行動がありませんか?

考え方を整える

感情や行動は、私たちの考え方から出てくることが多いです。考え方とは、様々に起こる出来事をどう解釈するかということです。たとえば、子どもに「うるせえ!」と言われたとします。「馬鹿にされた」と解釈すれば腹が立ち、怒鳴りつけるかも知れません。「嫌われた」と解釈すれば、悲しくなって、めそめそ涙を流すかも知れません。

神さまはあなたの幸せを願っておられます。神さまは、すべてを働かせて益としてくださいます。あなたの考えは、その「事実」から外れてはいなかったでしょうか。

また、考え方とは、何を大切にし、何を幸せと思うかということです。「お金があれば幸せ」と思っていれば、お金があるかないかが幸せを決定します。そして、もっぱらお金を得るための行動をすることになるでしょう。場合によっては、手段を選ばないということになるかも知れません。

あなたは何を幸せだと思い、何が大切だと思い、物事の優先順位をどのように立てているでしょうか。

みこころにかなう悲しみ

しかし、私たちが、聖書に基づいた価値観、考え方、行動の仕方にしようと努力すればするほど、私たちは自分の存在が神さまの願いとはかけ離れているなあと思い知らされます。
  • 本当は言わなければならない言葉があるのに、気恥ずかしい思いがするためについ何も言わずに済ませたり
  • 本当はしなければならないことがあるのに、周りの人と違うことをして責められるのが恐ろしくてしなかったり
  • 本当はしてはいけないと知っているのに、欲望や習慣に負けてついしてしまったり
そして、落ち込みます。私たちの行動も考え方も価値観も、なんと罪深いことでしょうか。神さまに従おうなんて思いさえしなければ、そんな罪責感や落ち込みなど経験しなくて済みますが、神さまに従おうとすればするほど、理想と現実の違いにがっかりさせられます。

しかし、その時、私たちはイエスさまの十字架の意味、聖霊さまが内に住んで助けてくださることの意味が本当に理解できます。私たちは完全に神さまからの一方的な恵みによって罪を赦され、そしてこれまた神さまの一方的な恵みによって今も愛され続け、守られ続け、導かれ続けています。そのことが心の底から理解でき、ありがたく思え、感動します。

今回の箇所の直前で、イエスさまはこうおっしゃいました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(マタイ5:1,2,4)

どうしたらこの一年、神さまの愛をたくさんたくさん実感できるでしょうか。どうしたら神さまの導きや助けを具体的に体験できるでしょうか。どうしたら、公の礼拝や個人の礼拝が、単なるルーチンワーク、単なるおつとめ、時に面倒くさい義務ではなく、感動に満ちたすばらしい時間になるのでしょうか。

それは、神さまのみこころを、家庭や職場、すなわち日々の生活の中で具体的に実践することです。

まとめ

生活の現場で、神さまのみこころにかなう考え方や行動の仕方を実践しましょう。そして、それによって感動に満ちた一年を過ごしましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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