幸いな人たち

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マタイの福音書5章1〜12節

(2015.5.10)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

有名な山上の説教の冒頭部分です。このところ「神の国」について学んでいますが、この箇所は、神の国について何を教えているのでしょうか。

1.8つの幸い

天の御国

3節(1つ目)と10節(8つ目)の約束は、「天の御国はその人たちのもの」で、同じです。実は、他の6つも、神の国において与えられる祝福のことです。

また、ここでは「神の国」ではなく、「天の御国」と呼ばれています。神さまが完全に支配し、神さまがくださる祝福に満ちあふれた場所は、今は天にあります。ですから、天の御国です。しかし、やがて世の終わりにイエス・キリストが再臨なさると、神の国は地上にも実現します。

誰が対象か

1-2節を見ると、弟子たちが教えの対象だということが分かります。弟子たちは、イエスさまのことを約束の救い主、すなわち神の国の王だと信じた人たちです。イエスさまは、イエスさまを信じる人たち、すなわち皆さんには8つの幸いが約束されていることを教えています。

8つの祝福

(1) 心の貧しい者
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(3節)

心が貧しいとは、品性が低いとか、了見が狭いとか、偏屈だとかいう意味ではありません。「自分は正しいから、当然神さまに受け入れられ、祝福される資格がある」とは考えないということです。そして、だから、自分は様々な神さまや他の人の助けを必要としていることを自覚し、謙遜に助けてくださいと願うことができ、些細な助けにも心いっぱいの感謝ができるということです。

神さまは、そういう人の願いに応え、一方的に赦し、神の国に受け入れてくださいます。イエスさまは、そのために十字架にかかり、私たちの罪の罰を取り除いてくださいました。
(2) 悲しむ者
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(4節)。

ここで言われている悲しみは、自分自身やこの世が、本来の姿にないことを嘆くことです。

アダム以来、人は神さまに罪を犯し続けています。そして、神さまを傷つけ、自分や他人を粗末にし、自然を破壊しています。それは本来の人間の姿ではありません。それを当たり前だと思わず、嘆くことがなければ、人は救いを求めることも、神さまの助けを求めることもありません。

しかし、正しい悲しみを持つ人を、神さまは救いに導き、神の国において慰めてくださいます。すなわち、神の国においては、人や世界は、本来の正しさや輝きや豊かさを取り戻すのです。
(3) 柔和な者
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(5節)。

柔和であるとは、弱いということではありません。真の強さを持った人だけが、他の人と争ったり押しのけたりせず、優しく接したり寛容さを示したりすることができます。

神さまの守りを信じるとき、人は本当の強さを身につけていきます。そういう人は、神さまとの関係が良好ですから、やがて神の国において割り当て地を与えられ、祝福のうちに生活することができます。
(4) 義に飢え渇く者
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(6節)。

義とは、正義である神さまとの正しい関係、悪を憎み退ける神さまに受け入れられ愛の交わりを持っているということです。神さまと正しい関係にある人は、自分が何をしたいかではなく、神さまが何を喜ばれるかを第一に考えます。そのような生き方もまた「義」です。

ただ、義をひたすら追い求めても、人は完全に神さまを満足させるような生き方をすることはできません。しかし、神さまは一方的に私たちを受け入れ、赦し、神の国の市民権を与えてくださいます。その結果、私たちは自分のきよさではなく、神さまの愛と恵みによって、神さまとの親密な関係を取り戻すことができます。

さらに、やがて神の国に入れられる時、私たちには栄光の体が与えられ、罪の性質そのものからも解放されます。
(5) あわれみ深い者
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」(7節)。

自分があわれみを受け、一方的に赦される経験をした人は、それだけ他の人の失敗に対して寛容でいることができます。聖書の神さまは、あわれみ深いお方です。この方との関係が深まれば深まるほど、私たちは他の人に優しくできるでしょう。そして、その分だけますます、神さまとの関係が深まり、神さまのあわれみを深く体験することができます。好循環ですね。
(6) 心のきよい者
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(8節)。

行ないは心の中から生まれてきます。ですから、きよい行ないをしたい人は、自分の心がきよいかどうかをいつも見張っている必要があります。もちろん、私たちは、神の国に入れられて栄光の体を与えられるまでは不完全であり、罪深い考えを持ってしまうことがあります。しかし、そのたびごとに悔い改めていくならば、それだけ神さまが身近になります。まだ肉眼で神さまを見ることはできなくても、いつも神さまの臨在を感じながら生活することができていくようになるでしょう。
(7) 平和をつくる者
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(9節)。

神の国の市民であり、神の子どもと呼ばれる人は、平和を作り出す人です。単に他の人と争わないという消極的な平和ではなく、争いや対立のあるところに和解もたらし、さらに良好な関係を作り上げていくような、積極的な平和です。

神さまは、人をこよなく愛し、人が皆幸せに生きることを願っておられます。神の子どもとされた人たちも、父である神さまの願いを自分の願いとし、言葉や行ないによって平和をもたらそうとします。その時、人は私たちが神さまの子どもとされたことを知るでしょう。
(8) 義のために迫害されている者
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(10節)。

迫害とは、他の人から攻撃されたり、馬鹿にされたりすることです。しかも、自分の過ちとか不注意によって他の人を怒らせるのではなく、神さまに忠実に生きたために、神さまを信じない人たちから怒りを買うことです。イエスさまは、神さまに忠実な生き方は、たとえ損をするような生き方に見えても、天の御国に入ったときには、神さまに豊かに報いていただくことができるのだから、結局は得な生き方なのだと励ましてくださっています。

2.迫害の中でも

8つめの幸い

8つめの祝福、すなわち迫害についての約束は、さらに11節と12節でも語られています。イエスさまは、8つの幸いのメッセージの中で、特に迫害を強調なさったということでしょう。実は1番目から7番目の条件(心が貧しい、悲しむ、柔和、など)についても、特に迫害されている場面で本領が発揮されます。

迫害されているとき

迫害されているとき、私たちは攻撃してくる人を見下し、代わりに自分の方が正しいのだということを確認することで、精神的に優位に立ちたい誘惑に駆られます。そんなときでも、心を貧しくして、謙遜でい続けられるでしょうか。

迫害されているとき、私たちは相手に対して怒りで対応するのではなく、これは人の内側の罪の性質がなせるわざなのだと受け止め、悲しむことができるでしょうか。

迫害されているとき、相手に対して柔和に接することができるでしょうか。

迫害されているとき、恐れのあまり神さまに従うことをやめたりせず、あくまでも神さまに喜ばれる生き方を求め続けることができるでしょうか。

迫害されているとき、憎しみやいらだちなど、私たちの心を罪の方向に引っ張っていこうとする苦い根が生じていないか、いつも自分自身の心を見張っていることができるでしょうか。

迫害されているとき、少なくとも自分自身は、迫害してくる人の幸せのために配慮し続けることができるでしょうか。

難しいけれど

意地悪されたり、悪口を言われたり、様々な攻撃を加えられたりしたとき、それでも8つの幸いな生き方を続けるのは、非常に難しいです。しかし、8つの幸いが教えていることは、「まず神さまが私たちに良くしてくださった。だから私たちにもできる」ということです。

8つの幸いは、私たちへの約束であると共に、神さまが私たちをどう扱ってくださっているかというリストでもあります。イエスさまは、8つの生き方を完璧に実践なさいました。一方的に私たちの幸せを願い、罪を赦し、関係を回復し、神の子どもとしてくださり、神の国の市民権を与えてくださり、神の国の祝福を約束してくださいました。

だから、私たちも柔和であわれみ深く、あるいは平和的な対応をし、神さまの喜ばれる生き方を求め続けることができます。

まとめ

状況が苦しければ苦しいほど、幸いをもたらす8つの生き方を心に留めましょう。

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