過去形の救い

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ローマ人への手紙5章1節〜10節

(2017.1.15)

参考資料



聖書からのメッセージ

イントロ

第1ペテロ1:8-9と2:1-2をご覧ください。1:9には「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」と書かれていて、読者の救いはすでに達成されたことになっています。一方、2:2には「それによって成長し、救いを得るためです」と書かれていて、同じ読者の救いをこれからのこととして描いています。どういうことでしょうか。

実は救いには、すでに完了した過去形の救いと、これから完成する未来形の救い、さらに完成に向かう現在進行形の救いの、3つの側面があります。今回は、過去形の救いについて見ていきましょう。

1.罪の罰からの救い

「救い」というと、どんなことをイメージしますか? 経済的に豊かになるとか、健康な長寿が約束されるとか、社会的成功とか、家内安全とか。クリスチャンになって豊かになった人もいるし、病気がいやされた人もいるし、人間関係が改善した人もいます。しかし、信仰的でイエスさまに忠実なクリスチャンの中にも、そうでない人がたくさんいます。

聖書が約束している救いの第一の意味は、「罪から救われる」ことです。罪なんて、あまり喜んで聞きたいテーマではありませんね。しかし、罪が分からないと救いの喜びについても分かりませんから、ほんの少し忍耐してお聞きください。

聖書が教えている「罪」は、私たち日本人の多くが考える罪とは異なります。罪とは、聖書の神さま、すなわち天地を創造なさった唯一の神さまに対する反逆のことです。神さまが私を造り、今も私を守り、支えてくださっているのなら、私には神さまを愛し、信頼し、忠実に従う責任があります。

ところが、もしも私が、「聖書の神が何を願い、何を忌み嫌おうとも、そんなのは関係ない。私は自分がしたいことを、したいときに、したいように行なう」としたら、神さまに対して大変な失礼を働いていることになります。

さばき

独裁者が支配している国で、その指導者を批判したり、「指導者の命令なんか関係ない。自分はやりたいことをやる」と宣言したりしたらどうなるでしょう。きっとステキな未来が待っていることでしょう。

もちろん、聖書の神さまは、どこかの国の独裁者と違って、慈愛に満ちたお方です。しかし、同時にきよく、正しいお方でもあります。神さまの正義は、罪を放置することができません。罪は必ずさばかれなければなりません。

罪のさばきは、神さまとの関係が断絶することです。これを聖書は「死」と呼んでいます。その結果、人は「神からの栄誉を受けることができず」と書かれている通り、神さまがくださるいろいろな祝福を、完全には味わうことができなくなってしまいました。生きる意味や目的が分からなくなってしまったり、人間関係に問題を抱えてしまったり、努力が100%報われなくなってしまったり、自然が時に人間に対して猛威を振るったり、やがて肉体的にも死を迎えたり……。

ただし、今は、神さまが最終的なさばきを待っていてくださっている恵みの時代です。「というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」(25節)と書かれている通りです。そこで、神さまを信じていてもいなくても、従っていてもいなくても、人はいろいろな祝福を味わうことができています。

しかし、神さまに逆らった敵として、いずれ完全に神さまと断絶してしまうことになります。あらゆる祝福からも切り離されて、苦しみしかない世界に送られてしまうということです。

そして、ただ一度でも神さまが喜ばれないことを行なったり、神さまが求めておられることを行なわなかったりすれば、さばきをまねくことになります。しかも、その基準は非常に高く、99%の出来でもアウトです。私たちの目にどんなに些細に見えたとしても、違反は違反、罪は罪。必ずさばかれなければなりません。なんてこと!

さらに、これも私たち日本人はなかなか理解しにくいことですが、これから先どんなに正しい生き方ができたとしても、生まれてから今までに一度でも失敗していたら、もう手遅れです。こんな基準でさばかれたら、さばきを免れることができる人は、この世に一人もいません。まさに「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)と書かれている通りですね。さて、困りました。

赦し

でも、安心してください。私たちは自分で自分の罪を取り除くことはできませんが、罪によるさばきを免れ、神さまに大いに祝福される道が用意されています。それは、罪の赦しです。

ローマ3:23-24にこう書かれています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」

購い(あがない)というのは、代価を払って買い取るという意味、特にいったん失ったものを取り戻すために代価を払うという意味です。罪は神さまとの関係を断絶させます。私たちをこよなく愛しておられる神さまにとって、私たちは失われた存在でした(ルカ15章のたとえ話参照)。イエス・キリストは、失われた私たちを取り戻すために、代価を支払われました。それは、十字架で流された血、ご自身の尊い命です。

神さまは正義ですから、罪をただ「いいよ、それくらい」と赦すわけにはいきません。罪は必ずさばかれなければなりません。そこで、イエスさまが私たちの身代わりに罰を受け、神さまのさばきを受けてくださいました。それにより、神さまはご自身の正義を現し、同時に私たちへの愛を現すことがおできになりました。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです」(25節)

その結果、私たちは「値なしに」、すなわち何もしなくてもそのままで、義と認められます。「義と認められる」というのは、神さまに「お前は正しく、きよい存在だ」と認められるということです。すなわち、罪があるのに、ないものとしていただいたということ、罪が赦されたということです。

しかも、その赦しは完全です。過去の罪も、これから死ぬまでに犯すであろう罪も、すべて赦されています。私たちクリスチャンも失敗します。神さまを悲しませるようなことを考えたり、実際に行なってしまったりします。しかし、それでも私たちは赦されています。それでも神さまに愛されています。神さまにとって、私たちはそれでも愛する子ども、高価な宝物のような存在です。

クリスチャンとは、罪を犯さない立派な人間のことではありません。クリスチャンとは、イエスさまによって罪が赦されたというこの図々しい話を、臆面もなく素直に信じた人のことです。

ですから、私たちは赦されている者として生きていきましょう。

2.赦された者として生きる

神の愛を意識し続ける

ある時、教会サイトの読者からこんなメールをいただきました。「キリスト教は罪の赦しを説くけれど、どんな罪も赦されるなんて甘いことを言っていたら、安心してどんどん罪を犯すようになるんじゃないですか?」

これに対する聖書の教えは明白です。使徒パウロは言いました。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ローマ6:15)

キリスト信仰の本質は、私たちがどれだけ祝福されるかということではありません。神さまとどんな関係を持つかということです。私たちの神さまは、祝福の自動販売機ではなく、ご人格です。感情をお持ちだということです。愛する者の態度によっては、悲しんだり傷ついたりなさいます。

あなたが結婚しているとします。そして、浮気をしてしまいました。配偶者は深く傷つき悲しみました。それを見たあなたも心を痛め、心から謝罪しました。すると、配偶者は浮気の罪を赦してくれました。では、「謝れば赦してくれるのか。じゃあ、いつでも浮気できる」と思って、これからも安心して浮気し放題でいい、ということにはなりませんね? 確かに配偶者は赦してくれたかもしれませんが、浮気は配偶者を深く傷つける行為だからです。

私たちと神さまの関係も同じです。神さまが私たちの罪によってどんなに傷つき、悲しまれるかを知り、神さまが私たちの罪を赦すためにどんな犠牲を払ってくださったかを知り、神さまがどんなに私たちを愛し、どれほど祝福したいと願っておられるかを知ったなら、そして、それに感動し、感謝しているなら、「どうせ何をやっても赦されるんだから、安心して好き勝手な生き方をしよう」というような真似ができるはずがありません。

私たちが罪だと分かっていることを、それでも意識して犯すときというのは、罪の赦しを確信して感謝しているときではなく、神さまの愛から目を離し、感謝を忘れているときです。

クリスチャンがきよい生き方を目指す原動力は何でしょうか。そうしないと神さまに捨てられ、ひどい目に遭う恐れではなく、神さまの愛に対する感謝と感動です。ですから、意識して罪を赦されていることを思い起こし、感謝をささげましょう。それが、神さまに従いたい、神さまに喜んでいただけるような生き方がしたい、神さまの愛やご計画やみこころについて書かれているという意欲を生み出します。

神に愛されているのだからという発想をする

そして、何かをしようとするとき、あるいは恐れや不安や怒りなど、嫌な感情を抱いたときは、「自分はイエスさまが命をかけても惜しくないと思われるほど、大切な存在だ。私は神さまに子どもとして愛されている。だとしたら、何ができるだろうか」と考えてみましょう。

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まとめ

私たちは罪赦され、神さまの子どもにしていただきました。愛されている者、赦されている者として生きていきましょう。

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