未来形・現在進行形の救い

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コリント人への第一の手紙15章51節〜58節

(2017.1.22)

参考資料

「奥義」(51節)とは、旧約聖書の時代には啓示されていなかったが、新約時代になって明らかにされた真理のことです。

56節の意味は、「死は罪の結果もたらされた。そして、律法(すべし、すべからずという戒律)によって罪が明確になり、私たちを追い詰めた」ということです。

聖書からのメッセージ

イントロ

前回、救いに3つの側面があると申し上げました。前回は、過去形(完了形)の救いについて学びましたが、今回は未来形と現在進行形の救いについて学びます。

1.完成と成長

罪の力

前回の学びを簡単に振り返りましょう。
  • 聖書が教える救いとは、罪からの救いのことです。
  • 罪とは、天地をお造りになった神さまへの反逆です。
  • 神さまの要求水準は非常に高くて厳しいので、すべての人が有罪を免れません。
  • 本当なら、正義である神さまは罪人である私たちをさばき、永遠の滅び、すなわちあらゆる祝福から切り離された状態にするはずです。
  • しかし、私たち人間をこよなく愛しておられる神さまは、私たちを赦すことで、罪の罰を下さずにすむようになさいました。
  • もちろん、正義である神さまはさばきをしないわけにはいません。そこで、御子イエス・キリストが私たちの身代わりに十字架にかかり、罪の呪いを一身に受けてくださいました。
  • そして、イエスさまの身代わりの死と復活を信じた私たちは、ただで赦され、罪の罰を受けることは決してなくなりました。
罪の罰からの救い。これが過去形の救いです。神学者たちは「義認」と呼んでいます。
赦されただけなら
しかし、これでは単に罰せられないというだけで、罪の性質は相変わらず私たちの中にあります。ですから、どんなにこれからはイエスさまのみこころに従って生きていこうと決意し、奮闘努力しても、やっぱり悪いことを考えたり、実際に行なったりしてしまいます。

罪の赦しがすでに完了したことは素晴らしいことです。一度イエス・キリストを信じて救われた私たちクリスチャンは、もう罪のさばきを恐れる必要がありません。そこで、私たちは、自分が罪を犯したことに気づいたら、それを素直に認め、神さまに謝って、赦されていることを確認し、再び神さまに従う生活を始めます。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)

それにしても、私たちは罪を犯し、悔い改めて赦しを確認し、また罪を犯し、悔い改めて罪を確認し……これを永遠に繰り返すだけなのでしょうか。パウロは、そんな自分の姿を情けなく思いました。そして、こう叫んでいます。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)

からだの贖い

もちろん、パウロはその答えを知っていました。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(ローマ8:23)

罪の性質を宿し、私たちを神さまに逆らわせようとするこの体から、いつか解放される日が来る。聖書はそう約束しています。

これが起こるのが、今日の聖書箇所に書かれている、世の終わりの時です。終わりのラッパが鳴ると、その時生きているクリスチャンは一瞬のうちに栄光の体に変えられ、空中に引き上げられます。また、すでに死んでいるクリスチャンも栄光の体に復活して、空中に引き上げられます。そして、迎えに来られたイエスさまと共に天国に入れられます(第1テサロニケ4:16-17参照)。この出来事は「携挙」と呼ばれています。

この栄光の体は罪の性質そのものから完全に解放されています。私たちはもはや罪を犯すことがありません。もう分かっているのにやめられない、分かっているのにできないというもどかしさを感じることはありません。「またやってしまった」と後悔することもありません。素晴らしい希望ですね。この未来形の救いを、神学者たちは「栄化」と呼びます。

日々のきよめ

では、携挙が起こるまで、私たちは罪に負け続ける生活なのでしょうか。そうではありません。罪を全く犯さなくなる完成は、携挙まで待たなければなりませんが、私たちは赤ん坊が成長するように、だんだんときよめられていくと聖書は約束しています。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(第2コリント3:18)

人として地上を歩まれたイエスさまがどんなお方だったか、皆さんはご存じでしょう。そのイエスさまのご性質に近づいていくというのです。しかも、その奇跡は、私たちの奮闘努力の賜物ではなく、聖霊なる神さまのお働きです。

ですから、私たちがきよめられ、成長するために、私たちに必要な態度が2つあります。
  1. 「きよめられたい」「成長したい」と願うことです。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(マタイ5:6)
  2. 聖霊さまが自分をきよめ、成長させてくださると信じてお願いすることです。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11:9)
私たちは、やがて罪から完全に解放されて、イエスさまのご性質に似た者に変えられます。そして、今この瞬間も、聖霊なる神さまによって、造り変えられています。この現在進行形の救いは、「聖化」と呼ばれています。
もれなくついてくる救い
まとめると、
  • 過去形の救いは、罪の罰からの救い(義認)
  • 未来形の救いは、罪そのものからの救い(栄化)
  • 現在進行形の救いは、罪の力からの救い(聖化)
です。

イエスさまを信じてクリスチャンとなり、過去形の救いを受け取ったなら、まるでパック商品のように、もれなく未来形の救いと現在進行形の救いも与えられます。例外なしです。「こいつはいい加減な生活をしているから、将来の完成や現在のきよめはなし」などと神さまに見捨てられることは決してありません。この話をお読みください

クリスチャンである私たちは、単に赦されただけでなく、やがて完成し、今このときも完成に向かって少しずつ変えられています。必ず。ですから……

2.発展途上人として愛し合おう

赦し合おう

私たちは成長途上にあります。失敗もするし、人を傷つけたり迷惑をかけたりしてしまうこともあります。しかし、イエスさまは私たちを赦してくださっています。ですから、私たち神の子であるクリスチャンも、互いの弱さを認めて、赦し合いましょう。

一方で聖書は、罪を犯している人がいたら戒めるように命じています。しかし、その場合でも、軽蔑や怒りにまかせて責めるのではなく、相手が自分の過ちに気づき、自分や他の人を粗末にするような生き方をやめて、本当の幸せにつながる生き方に戻って欲しいという愛の動機でしなければなりません。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(ガラテヤ6:1)

励まし合おう

そして、相手には成長の可能性があることを示して、互いに励まし合いましょう。また、できていない所を指摘してだめ出しするよりも、すでにできている望ましい部分に注目して、それを指摘してみましょう。

Nさんは、親から虐待を受けて育ちました。そのため、様々な生きづらさを抱えて苦しみましたが、独立して実家を離れ、クリスチャンとなったことで、少しずつ新しい生き方を身につけることができるようになってきました。

ところが、次第に親に対する大変な恨み、怒りを感じるようになりました。聖書は、敵を赦し、愛するように命じているのに、どうしても親を愛せないどころか、赦すことができないのです。そのために、自分で自分を責めて苦しんでいました。この教会にNさんがいらっしゃったら、どんなふうに対応しますか?

だめ出しするとしたら、親を赦せないことを指摘して責めるでしょう。では、Nさんがすでにできている部分、良い方向に変化成長した部分は何でしょうか。

まず、Nさんは、神さまが親を愛し、赦して欲しいと願っておられるということを知っており、さらにその命令に従いたいと思っています。だからこそ、そうできない自分の姿に苦しんでいるのです。悪魔は神さまに従いたいとは毛ほども思っていませんから、全く罪責感を感じていません。罪責感に苦しむことができるというのは、その人に素晴らしい可能性があることを示しています。

また、自分のことを、暴力や暴言を受けても当然のくずだと思っていれば、悲しみも怒りも感じません。虐待した親に怒りを感じたということは、自分を大切にする気持ちが育っていることの裏返しです。

さらに、以前の生き方と比較してみましょう。虐待された結果身につけた変な行動の癖が、少しずつ修正されてきています。その結果、以前ほどには生きづらさを感じなくてすむようになってきています。完璧からはほど遠いかもしれませんが、それでも確かにNさんは変わりました。ですから、これからも良い方向に変化成長できるはずだということが分かります。

今のNさんが親と面と向き合うと、昔の恐怖心とか自信のなさとかが引き出されてしまう恐れがあります。ですから、怒りが親と距離を取り、自分を守ってくれています。これもまた素晴らしいことです。

そして、確かに成長する力を持っているNさんは、今よりもっと強くなり、親と会っても振り回されなくなるでしょう。さらに強くなれば、暴力や暴言によって弱い者を支配することでしか自信を保てなかった親の弱さを知り、さらにはそれを哀れんで「かわいそうだから、もう赦してあげよう」と思えるでしょう。もっともっと成長が進めば、この弱い親を勇気づけ、励ましてあげようという気持ちにすらなるはずです。

まとめ

私たちは日々成長し、そして世の終わりに完成されてイエスさまのような性質になれます。

そして、私たちの教会は、すでに完成された立派できよい人たちの集まりではなく、発展途上人の共同体です。互いに赦し合い、励まし合えるような教会でありたいですね。

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