キリストのからだ

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エペソ人への手紙1章20節〜23節

(2017.2.26)

参考資料

21節の「支配、権威、権力、主権」は天使(聖なる天使だけでなく、堕落した天使である悪霊も含む)の階級のこと。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回も教会について学びます。教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。教会がキリストのからだであるというたとえは、エペソ書の他、第1コリント書(6:15、12:27)やコロサイ書(1:24)にも書かれていて、それぞれ筆者の強調したいポイントが微妙に異なります。この箇所は、特に何を強調しているのでしょうか。

1.教会のかしらであるキリスト

教会のかしら

今回の箇所の特徴の一つは、「教会のかしらはキリストである」ということを強調している点です。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを」(22節)。しかも、そのキリストは、今の世でも、後に来る世でも、あらゆるものの上に立つ権威あるお方だということを指摘しています。

ですから、当然のことながら、私たち教会は、そして教会に属する一人一人のクリスチャンは、かしらであるキリストに従わなければなりません。手足が脳の命令に反した動きをしたら、ギクシャクして生きづらくなってしまいます。

天地にあるすべてのものがイエスさまの言うことを聞くのに(神さまの敵である悪霊でさえも!)、神さまの子どもである私たちがイエスさまに逆らうということがあってはなりませんね。

キリストの思いを知る努力

前回、教会は「エクレシア」の訳であり、「呼び集められた人たち」「召し出された人たち」という意味があると学びました。ということは、何らかの目的を持って集められたということです。もちろん、呼ばれた私たちの側の目的ではなく、呼んでくださった神さまの側の目的です。

私たちは召し出された者として、呼び集めてくださったイエスさまの思いを知り、それを実践しなければなりません。

まず、私たちは「イエスさまの思いを知る努力」をしなければなりません。私たちが聖書を学び、祈り、こうして定期的に集まるのは、イエスさまの思いをより深く、広く知るためです。

キリストの思いを実践する努力

そして、「知ったイエスさまの思いを実行に移す努力」をしなければなりません。

現代の思想の特徴の一つは、人間中心主義です。人間をすべての中心に置いて発想するということです。「私がどう考えるか」「私がどう感じるか」「私が何をしたいか、したくないか」「私がいいと思うか、悪いと思うか」が価値判断の基準だということです。

旧約聖書の士師記の時代は、イスラエルが道徳的にも政治的にも特に混乱していた時代でした。そして、神に選ばれた民であるはずのイスラエルを、外国の軍隊が何度も攻撃し、人や物を略奪したり、貢ぎ物を求めたりしました。その原因を、士師記の記者は明確に述べています。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士師記21:25)

クリスチャンでも、気をつけていないと人間中心的な信仰生活に陥ってしまいます。それでは、神さまが私たちのために用意してくださっている祝福を、自ら台無しにしてしまうことになります。

イエスさまのみこころを学び、それを実際に行動に移すことは、時に簡単なことではありません。面倒くさいこともあります。何の得にもならないことだってあります。それどころか、様々な犠牲が伴うこともあります。しかし、それでも私たちはかしらであるイエスさまの願いにかなう生き方を目指しましょう。

なぜなら、私たちはイエスさまに命がけで愛されているからであり、イエスさまのみこころの一つは、私たちの幸せだからです。というわけで、第2の特徴に移りましょう。

2.教会にご自身を与えたキリスト

キリストの思いの一つ

今回の箇所が強調している点のもう一つは、「キリストはご自分を教会にお与えになった」ということです。「キリストを、教会にお与えになりました」(22節)

あらゆるものの上に立つ支配者として、私たちからすべてのものを奪う権利を持っておられる方が、逆にご自分を私たちに下さいました。そう、まるで奴隷になったかのように。

イエスさまは弟子たちにこうおっしゃったことがあります。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイ20:27-28)

そして、それを目に見える形で象徴的に表現してくださいました。弟子たちの足を洗い、あなたたちも互いにそのようにしなさいとお命じになったのです(ヨハネ13章)。当時、足を洗うのは奴隷の仕事でした。

王の王であるイエスさまは、私たちの幸せのためにすべてを捧げてくださいました。そして、何とご自身の命さえも捧げてくださったのです。私たちは、イエスさまの十字架の死によって、罪赦され、神さまの子どもにしていただき、教会の一員に加えられました。

働きを委ねてくださった

さらにイエスさまは、世界を救うという壮大なご計画も、私たち教会に与え、委ねてくださいました。

教会は不完全です。どんなに素晴らしい教会にも問題があります。一人一人のクリスチャンも不完全で欠けがあります。そんな教会やクリスチャンに働きを委ねるのは、大変な危険が伴います。イエスさまのご計画が台無しになってしまうかもしれないという危険です。

マハトマ・ガンジーは、聖書の教えに影響を受けて、非暴力主義によってインドの独立運動を導きました。しかし、彼自身はクリスチャンになろうとしませんでした。それは、実際のクリスチャンたちの生き方を見て幻滅したからだそうです。

それでも、です。そんな危険があることは重々承知の上で、それでもイエスさまは、すべてご自分一人でなさるのではなく、私たちよりずっと忠実で力も知恵もある天使たちに任せるのでもなく、ご自身のからだである教会を通して、私たちと一緒にみわざを行なおうとお決めになりました。

何という信頼でしょうか。「私は、あなたが私の思いを知ってくれると信じている。そして、その実現のために行動してくれると信じている。あなたが私の期待に必ず応えてくれると信じている」。

私たちが失敗しても、裏切っても、罪を犯しても、それでも「私はあなたを信じている。もう一度やってごらん」と言ってくださいます。

自分や他人を信頼しよう

これほどまでにイエスさまが私たちを愛し、大切に思ってくださっているのですから、私たちも自分や他の人のことを愛し、大切にしなければなりませんね。その一つの方法として、自分や他の人を信頼することから始めてみましょう。

もちろん、人は弱く、不完全です。それを聖書は否定しているわけではありません。たとえば、世の中には人をだまして利益を得ようという人たちがいます。「蛇のようにさとくあれ」という教えもありますから(マタイ10:16)、詐欺などに引っかからないよう注意しなくていいという意味ではありません。また、自分や他人が仮に失敗したとき、すぐにカバーできるよう準備しておかなくていいということでもありません。

ただ、「あなたにはできると信じている」というメッセージを、自分や他の人に送り続けることをしてみましょう。そして、すでにできているところに注目して、「だから、さらにできる」と励ましてみましょう。

私たちが自分や人を励ますとき、マイナスからプラスの励まし方をしてしまいがちです。「今はダメだけど、頑張ればできる」というふうに。そうでなくて、プラスから、プラスプラスの励ましができるといいですね。「ほら、ここまでできている。だから、この点を工夫すれば(これを続ければ、ここを修正すれば)、もっとできるよ」というふうに。

この話を読みましょう

まとめ

私たち教会はイエスさまのからだです。イエスさまのみこころを知り、それを懸命に実践しましょう。特に、自分や他の人の内側に可能性を見つけて引き出しましょう。イエスさまが私たちにしてくださっているように。

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