キリスト・イエスにつくバプテスマ

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ローマ人への手紙6章1節〜8節

(2017.3.19)

参考資料

バプテスマとは、洗礼のこと。元は「沈める」「浸す」という意味のギリシャ語(バプトー。あるいはその強調形であるバプティゾー)から来ています。聖書時代の洗礼は、体を水中に沈める方法(浸礼)で行ないましたが、その後、頭に水をかけたり(灌水礼)、水滴のついた手を頭に押し当てたりする(滴礼)簡易的な方法も使われるようになりました。どの方法を採用するかは、教派によって異なります。中通りコミュニティ・チャーチでは、どれでもOKです。

聖書からのメッセージ

イントロ

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クリスチャン生活も基本が大事。今日もクリスチャン生活の基本を振り返ります。今回のテーマは洗礼。私たちクリスチャンの多くはすでに洗礼を受けていて、その時に意味について学んでいるはずですが、改めて確認することで、新たな気づきや励ましをいただきましょう。

1.ひとつになること

愛である神との一体化

洗礼(バプテスマ)は、司式者(牧師など)が、新しくキリストを信じた人を水の中に沈める儀式です。水に沈める代わりに、頭に水を注いだり、水滴がついた手を押し当てたりする場合もありますが、意味するところは同じです。儀式は形も大事ですが、象徴している意味を知ることの方がもっと大事です。では、洗礼にはどんな意味が込められているのでしょうか。一言で言うと、それは「ひとつになること」です。

洗礼式では、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」ます(マタイ28:19)。ここで「〜によって」と訳されている単語は、「〜の中に」とも訳せます。バプテスマには浸すという意味がありますから、三位一体である聖書の神さまの中に、どっぷりとつかっている状態ですね。

そして、聖書は「神は愛です」と宣言しています(第1ヨハネ4:9)。まるで愛という源泉掛け流しの温泉にゆったりとつかっているようなイメージがわいてきました。クリスチャンとは、神さまのあふれる愛を味わい、神さまとの深い交わりの中で生きている人のことです。洗礼はそれを象徴しています。

あなたは、すぐにキレる怖い神さま、無茶なことばかり言う理不尽な神さま、必要なものをくれないネグレクトの神さま、こちらの苦しみには一切無関心な冷たい神さまをイメージしていませんでしたか? そういう「偶像」は今すぐ捨て去りましょう。

キリストのからだである教会との一体化

「なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」(第一コリント12:13)

ほとんどの教会では、洗礼式はその地域教会の正式メンバーとなるための入会式を兼ねています。私たち中通りコミュニティ・チャーチでは、意味をしっかり理解した上でメンバーになって欲しいという思いから、あえて2つを分けて行なっていますが、本来の姿は一緒に行なうことです。もちろん、メンバーでない方の礼拝出席も大歓迎ですが、まだメンバーではない方は、どうか改めてこの教会の教会員になるということを考えてみてください。

それはともかく、教会はイエスさまのからだです。イエスさまは、天に戻られた後、からだである教会を通してみこころを実現しようとしておられます。

クリスチャンになるということはイエスさまのからだである教会の一員となるということです。洗礼はそれを象徴しています。2月26日に学んだように、私たちはイエスさまの思いを知り、それを実践する努力を積み重ねる必要がありますね。

死んで復活したキリストとの一体化

そして、今日の箇所は、洗礼は私たちがイエスさまの死や復活とひとつになったことを象徴すると教えています(3-5節)。

次に、この点についてもう少し深めましょう。

2.キリストの死と復活との一体化

罪に対して死んだ

洗礼は、私たちが罪に対して死んだことを象徴しています。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」(3-4節)

ですから、私たちは罪に対しても死んでいるんだとパウロは宣言しています。死んでいますから、罪の故にさばきを受けて滅ぼされることはなくなりました。あなたの罪は、過去の罪も、現在の罪も、これから犯す未来の罪も、全部完全に赦されています。例外なく完全に、です。

そして、かつての私たちは罪を犯さないではいられない存在でした。まるで罪の奴隷です。しかし、奴隷が死んでしまったら、もうそれ以上主人に従う必要がなくなります。私たちがイエス・キリストを信じたとき、私たちは罪に対して死にましたから、もう罪の奴隷ではなくなりました。

罪の性質そのものはまだ私たちの中に残っていますし、この世も悪魔も私たちを「神さまを無視する方向」に引っ張っていこうとします。ですから、罪を犯すように誘う誘惑はなくなりません。しかし、もう奴隷ではありませんから、意識すれば、誘惑に抵抗することができるということです。無理じゃありません。「できる」のです。まずそれを信じましょう。

神に対して生きている

それだけではありません。私たちはイエスさまの復活の力が与えられています。罪の奴隷だった古い私たちは死んで、神さまの子どもとしての新しい命が与えられました。新しい私たちは、神さまの素晴らしさに感動し、神さまと共にいることを喜び、神さまに従って生きることを当然だと思います。

洗礼は、私たちに神さまからの命が与えられ、新しく生まれたことを表しています。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」(4-5節)。

誘惑は続きます。私たちはいつも「神なんか関係ない。お前は自分が好きなことを、好きなときに、好きなようにやっていいんだ」という誘惑を受けています。それを自覚したときは、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(11節)。

ですから、
  • 罪に対して死んでいるのだから、神さまが悲しまれると分かっている、こんなことはする必要がない。
  • 神さまに対して生きているのだから、神さまが喜ばれると分かっていることをする。
そんなふうに、自分に対して、そして誘惑してくる罪の性質や悪魔に対して宣言しましょう。

また、新しい命は神さまが与えてくださったものですから、それを育ててくださるよう、そしてますます神さまに忠実に生きることができるよう祈り求めましょう。

神さまの名によって呼ばれる者たち

先々週、礼拝について学んだとき、イザヤ43:7の言葉を引用しました。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」。

私たちクリスチャンは、神さまによって創造されたというだけでなく、先ほど見たように三位一体の神さまの御名によって洗礼を受けました。ですから、二重の意味で神さまの名で呼ばれる者です。自分がここに存在するのは、もはや自分のためではなく、神さまの素晴らしさを表現するような生き方をするためだということを、それだけ強く自覚しなければなりませんね。

儀式は、形よりも意味の方が大事です。しかし、じゃあ洗礼を受けてもいいし受けなくてもいいかというと、そんなことはありません。洗礼式はイエスさまが行なうように直接教会に命じておられる2つの儀式の中の一つです(もう一つは聖餐式)。

洗礼は「自分はイエス・キリストを信じて救われ、これからは神さまを愛し、自分の欲望ではなく神さまのみこころに従って生きていきます」ということを公に宣言する儀式です。それは、イエスさまに従って生きる最初の一歩と言ってもいいでしょう。

ですから、クリスチャンになったけれど、いろいろなことを考えて洗礼を躊躇しておられる方。ぜひ思い切って洗礼をお受けください。

そして、すでに洗礼を受けた私たちも、自分のすべては神さまのものだということを自覚しながら日々の生活を送りましょう。イエスさまは、ご自分のものを全力で守ってくださいます。ですから、私たちも全力でイエスさまに従いましょう。

まとめ

洗礼は、ひとつとなったことを意味しています。何とひとつになったのかということを改めて意識しながら生活してみましょう。

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