訓練としての苦しみ

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ヘブル人への手紙12章1節〜11節

(2017.4.9)

参考資料

1節の「証人たち」は、11章に挙げられている、アベル、エノク、ノア、アブラハムとサラ、イサク、ヤコブ、モーセ、ラハブなど、目に見えないものの実現を信じた、旧約時代の信仰の先輩たちのことです。

10節の「あずかる」とは、「何かに関係すること」あるいは「何かを受け取ること」という意味です。ここを意訳すると、「私たちを神さまに似た聖い存在に成長させようとして」ということです。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回のテーマは苦しみです。問題にぶつかって苦しい思いをしたとき、私たちはそれをどのように捉え、乗り越えていけばいいのでしょうか。

1.懲らしめ

教育的指導としての罰

ここで語られている「懲らしめ」という言葉には、2つの意味があります。一つは、(日本語の懲らしめと同じで)教育的指導としての罰という意味です。

子どもが危険なことや悪いことをしたとします。親は、それは良くないことだということを子どもに理解させ、もう繰り返してはいけないのだということを分からせるために、お尻や手を軽く叩いたり、怖い顔で「それはダメ」と叱ったり、しばらくゲームの使用を禁止したりします。これが教育的指導としての罰です。

懲らしめは、子どもにとっては苦しくて悲しいものです。しかし、親が子どもに罰を与える目的は、子どもを苦しめることそのものではありませんね。自分が間違った方向に進んでいたということに気づかせ、悔い改めて、健全な道に戻ってもらうことです。親は、子どもが嫌いだから罰するのではなく、むしろ愛しているからこそ罰を与えます。

神さまも、同じ理由で人に苦しみを与えることがあります。

私たちはイエス・キリストの十字架と復活を信じたことで、罪が完全に赦されています。以前学んだ通り、過去の罪も、現在の罪も、これから犯す未来の罪もすべてです。赦されていない罪はありません。

しかし、だからといって安心してどんどん罪を犯そうということにはなりません。イエスさまが十字架にかかって死ななければならなかったのは、神さまがそれだけ罪を強く憎んでおられるからです。そして、罪は私たちと神さまの関係をおかしくし、結果的に私たちに用意されている神さまの祝福が十分味わえないようにしてしまいます。罪は人にとっても神さまにとっても良くないものです。

ですから、神さまはあえて私たちを苦しい目に遭わせることがあります。それは、その人が間違った方向に進んでいて、それによって神さまとの関係がおかしくなっていることを知らせ、悔い改めて神さまとの関係を再び強固なものにするよう促すためです。

訓練としての負荷

懲らしめのもう一つの意味は、相手を鍛えるために、負荷をかけるという意味です。

運動部に属しておられた方は体験なさったと思います。何本もダッシュを繰り返してへばっているときに、さらに「もう一本!」とコーチに指示されたり、股割りをしていて「痛い」と言っているのに、先輩に「もうちょっと我慢」と言われてさらに体を折り曲げられたり……。そういうしんどさや痛みは、確かにつらいものですが、自分を鍛え、成長するために必要なものです。

神さまも、私たちの信仰を成長させ、人格を練り鍛えるために、苦しみをお与えになることがあります。
私の貧乏生活
例を挙げた方が分かりやすいですね。私が大学時代、2年間は寮で生活していましたが、あとの2年は教会生活も大事にしたいという思いもあり、下宿生活に変わりました。私立大学だったので仕送りはほとんど学費に消え、クラブ活動もしていましたから十分アルバイトもできず、生活は楽なものではありませんでした。

教会までは電車で通っていたので、原付を買った方が安く上がると計算して、1万円ちょっとで中古のスクーターを手に入れました。ところが、これがよく壊れるのです。修理のためにかえってお金がかかりました。そういうわけで、50円で1週間過ごさないといけないなどという生活が続きました。

どうして原付が壊れるなどという「不幸」が自分の身に起こったのでしょう。その理由は分かりません。しかし、今から振り返ってみると、あの2年間が私をクリスチャンとして育ててくれたと思います。

とにかく、いつもイエスさまのことを意識していました。主の祈りにあるように「日ごとの糧を与えてください」と、毎時間のように祈っていました。そして、もうホントに食べるものがないという状況で、不思議に食事が与えられるという奇跡を何度も体験しました。

ですから、あの2年間のおかげで、私は「イエスさまがついておられるから、人生、何とかなる」と思えるようになったと思います。どんなに苦しくつらくて、泣き叫んだり当たり散らしたりしたくなったとしても、最後には「まあ、何とかなるか」と思えるのは、あの2年間の貧しい下宿生活のおかげです。また、他の人が苦しい思いをしているときに、その痛みは痛みとして、それでも何とかなるはずだと思えるのも、あの2年間のおかげです。
不登校の母
別の方は、子どもが不登校になり、家で暴力を振るうようになりました。

しかし、その体験を通して、人間の価値はどれくらい成績を取ったかとか、どれだけお金を稼いだかとか、どんな成果を上げたかで決まるのはなく、その人がその人だというだけで尊いのだということを学びました。

やがて、他の方がこの方と話をするだけで、なんだか元気をもらえるようになり、お子さんもいつの間にか回復なさいました。

2.苦しいときに大切なこと

嫌われているわけではない

苦しみに遭ったときには、「神さまに嫌われているから、自分はこんな目に遭っているんだ」などと決して考えないことが重要です。

6節には「主はその愛する者を懲らしめる」と書かれています。ですから、むしろ自分は神さまにこよなく愛され、大切にされているんだと考えましょう。

この話をお読みください

何を教えようとしておられるのだろうか

次に、この苦しみを通して、神さまは自分に何を教えようとしておられるのだろうかと考えることが大切です。

もしかしたら、間違った道に進んでいるよと教えておられるのかもしれません。あるいは、ここが信仰の働かせどころだよと教えておられるのかもしれません。

間違った道に気づいて方向転換をしたり、信仰の働かせどころを知って、そこでしっかりと忍耐してみこころにかなう生き方を続けたりすることで、私たちは人として、信仰者として成長することができます。

感謝しよう

3月5日の礼拝メッセージの中で、マーリン・キャロザース牧師の「獄中からの讃美」という本を紹介しました。その本では、私たちにとって苦しみだと思うこと、不幸だと思うこと、問題だと思うことについて、神さまにあえて感謝してみようということが勧められていました。

私たちが体験する苦しみが、教育的指導にせよ、訓練にせよ、どちらにしても私たちのために与えられるものです。神さまの願いは、私たちが神さまとますます深い愛の関係になることであり、私たちに本当の幸せを体験させたいということです。

苦しみに遭ったとき、私たちは試されています。神さまは私に苦しみを与えるひどい方だという考えの方を採用するのか、それとも神さまは私にとって素晴らしいお方であり、私のためにならないことは決してなさらないという考えの方を採用するかです。

苦しみに遭うとき、私たちは「私たちをいじめるひどい神さま」というイメージか、それとも「私たちをこよなく愛してくださる神さま」というイメージか、どちらを選ぶか試されているのです。

神さまが良いお方であるということを表すいい方法は、感謝することです。キャロザース先生が勧めておられるとおり、苦しみが与えられていることを、あえて感謝してみましょう。

まとめ

神さまは、最善以外なさいません。その神さまが苦しみをお与えになるなら、それは私たちにとって最高のプレゼントです。

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