謙遜の表現

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ピリピ人への手紙2章1節〜11節

(2017.4.30)

参考資料

6節は、キリストが神であることを示しています。私たちの信じる神さまは三位一体です。三位一体とは、「神はその本質的存在においてただ一つであるが、この唯一の存在の中に、父と子と聖霊なる三位格が存在する」(新聖書辞典)ということです。

7-8節は、神であるキリストが人となられたことを示しています。人の姿を真似たとか、人のふりをしたとかいうことではなく、本当に人間になられました。ただし、それは神であることをやめたという意味ではなく、人間としての限界を持つようになったということです。たとえば肉体的な苦しみや疲労を味わったり、食事や水を必要としたり、同時に一つの場所でしか活動できなかったり。

聖書からのメッセージ

イントロ

前回に引き続き、今回も豊かな人間関係の秘訣を学びます。前回は、イエスさまによって恐れを取り除いていただくことがカギでした。今回のカギは?

1.謙遜を学ぼう

トラブルの元

ピリピ教会の人々は、信仰深く、愛に満ちた教会でした。彼らはコリントなどの教会の人々に比べて貧しく、しかも大変な迫害と戦っていました。しかし、喜びに満たされ、パウロや迫害に苦しむエルサレム教会のクリスチャンたちを支えるために、自発的に物や義援金を送りました。

ところが、教会といえども罪人の集まりです。やっぱり問題はありました。特にパウロが心を痛めたのが、教会の中に分派分裂があった、あるいは起こりそうだったということです(4:2参照)。

どんなに強力な国も、内部で争っていては立ちゆきません(マルコ3:24)。そこでパウロは、教会が一致することの大切さを訴えました。「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(2節)

そして、今回の箇所でこのように勧めます。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく」(3節)。ということは、人間関係のトラブルの原因は、自己中心と虚栄だということです。

自己中心と虚栄

自己中心とは、何が自分にとって得だろうかということばかり考え、他人を自分の幸せのための道具や踏み台として扱う態度です。私たちは、他の人からそんな扱いをされるのは嫌ですし、当然他の人だって嫌です。ですから、互いに自己中心的な生き方をしていると、人間関係がおかしくなってしまいます。

そして、虚栄とは、自分が偉くて立派な存在だということをアピールすることばかり考える態度です。自分の価値をしっかり信じること、健全な自尊心を保っていることは大切なことです。問題なのは、人との比較の中で自分の価値を確認することです。自分より劣っているところがある人を見れば偉そうな態度を取ったり、相手をさらにおとしめようとしたくなったりします。逆に、自分より優れたところがある人を見れば、落ち込んだり、何か非難できるところを探して叩きたくなったりします。他の人に対してそんな扱いをすれば、当然人間関係はおかしくなってしまいます。

ですから聖書は勧めます。「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」(3-4節)。一言で言えば、謙遜を学び、実践しなさいということです。

キリストに学ぼう

しかし、この謙遜というのが難しい。「自分も最近、謙遜になってきたなあ」と思ったとしたら、もうすでに傲慢だということですからね。実際問題として、ついつい相手を利用しようとしてしたり、見下したりしてしまいます。自分の力で謙遜を身につけるのは、本当に難しいです。

そこでパウロは、イエス・キリストに私たちの目を向けます。そして、まずイエスさまは神であるという事実に目を留めさせています。「キリストは神の御姿である方なのに」(6節)

どんなに私たちが傲慢になり、自分を偉いものであるかのように考えたとしても、神さま以上のお方はいらっしゃいません。しかも、イエスさまはあらゆるものの主人であり、ご自分のために人を自由に動かす権利をお持ちです。

しかし、そのイエスさまが、「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(6-8節)

イエスさまは、神さまとしての栄光を捨てて、人となられました。そして、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃっただけでなく(マタイ20:28)、多くの人たちを助け、慰め、励ます人生を送られました。

さらに、イエスさまは、私たちの罪を赦し救うために、身代わりに罪の罰を受け、十字架にかかって死んでくださいました。イエスさまが救われたのはどんな人ですか? 立派で神さまに忠実な人ですか? いいえ。私やあなたのように、神さまのことを知らず、神さまのみこころを無視して、自分勝手に生きてきた、いわば神さまの敵です。

何という謙遜でしょうか。何という愛でしょうか。

人に対してイライラしたり、カチンと来たりしたり、責めたくなったりしたときには、自分自身がイエスさまにどのように扱われてきたのか、それを思い起こしましょう。 この話をお読みください

その上で、「自己中心や虚栄からしない行動」を実践していきましょう。次のポイントでは、その点について考えてみましょう。

2.謙遜の表現

お願いする

自分よりも目上だと思っている人、尊敬している人に、どうしても何かをしてもらいたい、あるいは何かをやめてもらいたい場合、どんな伝え方をしますか? 命令しますか? 嫌みを言いますか? 脅しますか? そうではなく、相手が理解できるように丁寧に事情を説明した上で、お願いの形を取りますね。

では、相手が家族でも、友だちでも、部下でも、後輩でも、お店の人でも、丁寧にお願いをしましょう。それが虚栄を避ける具体的な方法です。

また、お願いするということは、相手は自分の意思でこちらの願いを聞くか聞かないかを決められるということです。逆に、相手を無理矢理動かそうとするのは、相手を奴隷のように利用することです。お願いするやり方は、自己中心を避ける方法でもあります。

イエスさまも、神である方なのに、私たちにお願いをしておられるのですから。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(第2コリント5:20)
※最後の文は、懇願ですから「受け入れてください」と訳した方がいいですね。

感謝する

自己中心的で傲慢な人は、人がしてくれる親切を「やって当たり前」「そんなのはして当然だ」と思っています。ですから、人の親切がうれしくもないし、感謝もしません。

そして、この「当たり前思考」は、自分ではなかなか意識できません。なにしろ当然のことだからです。しかし、言われてみれば意識することができますから、私自身が陥りがちな当たり前思考の例をいくつか挙げてみましょう。あなたにも当てはまるものがありませんか?
  • 人はどんなことがあっても、絶対に私のことを良く評価するはずだ。当然、人から非難されたり無視されたりなんかされるはずがない。
  • 人は、どんな状況においても、私を公平に、正当に、親切に、思慮深く扱うべきだ。
  • 人は、私の依頼に対して、すぐに、喜んで対応するのが当然である。
  • 人は、たとえ私がはっきりと願いを口にしなくても、それを察知し、率先して親切にするのが当たり前である。
  • 私の人生では、当然のことながら、私の望むものが、私が望む時に与えられるはずだ。
  • 状況は、常に私に有利に働くはずだ。
  • 努力は、当然、100%願い通りに報いられるはずである。
  • 私が祈れば、常に私の祈った通りのことがすぐに起こるはずだ。
当たり前思考は、感謝や感動の代わりに、不平不満や虚しさの種を育てます。しかし、私たちに私たちの願う通りのことが起こるのは、当たり前ではありません。たくさんの人たちの配慮や努力のたまものです。そして、天地を造り支配しておられる神さまの、緻密なご計画と導きのおかげです。

今起こっているすべてのことは、当たり前ではないということに気づくなら、私たちの周りには、いくらでも喜びの種、感動の種が転がっていることでしょう。

では、どのようにしたら当たり前思考から解放されるでしょうか。人は、心にある思いが言葉となって外に出てきます。と同時に、口にした言葉も、心に強く働きかけて影響を与えます。人や神さまの配慮に対する感動や感謝が「ありがとう」を生み出すように、「ありがとう」を口癖にすることで感謝の心が育ちます。「言わなくても伝わるよ」と思わず、口に出して感謝を伝えましょう。

しかも、すでにうれしいことは自然と感謝できます。ですから、これはしてもらって当然だと思うようなことについて、あえて感謝の言葉を述べましょう。神さまに、そして人に対して。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(第1テサロニケ5:16-18)

まとめ

イエスさまをに謙遜な心を育てていただきましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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