赦しは自由を与える

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マタイによる福音書5章38節〜48節

(2017.5.7)

参考資料

38節の「目には目で、歯には歯で」というのは、一般に誤解されているような復讐を奨励する教えではなく、自分で復讐しないで法の裁きに委ねなさいという意味です。

39節の「手向かう」というのは、必死で抵抗するというニュアンスではなく、たとえば殴られたら殴り返すというように、復讐するというニュアンスの言葉です。

40節に「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」とありますが、そもそも着物を借金のかたとして取り上げるのは、モーセの律法では禁じられた行為です(出エジプト22:26-27)。

41節の「ミリオン」は、約1480メートル。当時のイスラエルはローマ帝国の属国になっていました。ですから、ローマ兵に命ぜられて無理矢理荷物運びをさせられるというのは、よくあることでした。

聖書からのメッセージ

イントロ

世の中には、嫌なことをしたり言ったりする人がいます。頭にきて何かやり返したくなることがありますが、そんなときにどうすべきかイエスさまが教えてくださっています。

1.復讐しなくていい

一言で言うと

38-39節を一言で言えば、「復讐してはいけない」ということです。「目には目で、歯には歯で」という有名な言葉も、一般には間違って理解されていますが、元々は自分で勝手に復讐しないようにという教えですし、「手向かうな」というイエスさまの言葉も復讐するなという意味です。

不正を認めているわけではない

もちろん、イエスさまは不正に目をつぶれとおっしゃっているわけではありません。ひどいことをされても泣き寝入りしなさいとおっしゃっているわけでもありません。

後にイエスさまが逮捕され、大祭司の舅アンナスに尋問されたとき、イエスさまの返答が失礼だと言って、ユダヤの役人がイエスさまの顔を平手で張りました。その時、イエスさまはその役人にこうおっしゃいました。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか」(ヨハネ18:23)。

イエスさまは、正当な主張を暴力で封じようとする間違いは放置せず、毅然と行動を改めるよう求めました。しかし、イエスさまは、復讐はなさいませんでした。殴り返したわけではありませんし、天から火を下して役人を焼き尽くしたわけでもありません。

使徒パウロも、ピリピで伝道していたところ、無実の罪で逮捕され、裁判なしにむち打たれ、一晩牢屋に留め置かれました。パウロは、町を治める長官に対し、自分たちはローマ市民の資格を持っているが、ローマ市民をこのような目に遭わせていいのかと抗議し、謝罪を要求しました(使徒16章)。しかし、自分がされたような暴力を使って復讐したわけではありません。

自分が手を下さなくてもいい

これまで何度かお話ししたことがありますが、聖書が「〜するな」と禁止している命令には、「〜しなくていい」というニュアンスがあります。聖書が「自分で復讐するな」と命じているということは、「自分で復讐しなくてもいいよ」という意味だということです。なぜでしょう。

ローマ12:19にこう書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。これは、申命記32:35からの引用です。

また、「目には目を、歯には歯を」という命令も、自分で復讐するなという趣旨だと申し上げましたが、それは法律が犯人を裁いてくれるからです。

私たちが自分で復讐しなくて済むのは、不正を行なう人に対して、神さまだったり法律だったりが必要に応じて罰を与えるからです。

神に委ねることの危険

ただ、「さばきを神さまに委ねる」のには危険も伴います。なぜなら、神さまはその人にひどい罰を下さないかもしれないからです。

ご自分のことを考えればよく分かります。私たちだって、誰かを傷つけたり、損害を与えたりすることがありますね。その相手がクリスチャンの場合もあります。しかし、だからといってそのたびごとに私たちはひどい目に遭ってきたでしょうか。神さまは、私たちが自分で間違いに気づき、悔い改めるのを待ってくださったり、私たちが成長して行動が変わるのを待ってくださったりしています。

ですから、他の人が私たちにひどいことを言ったりしたりしたとしても、そのたびごとに神さまがその人をひどい目に遭わせるとは限りません。じゃあ、なぜ「復讐は私に任せて、あなたはその人を赦し、愛しなさい」などとおっしゃるのでしょうか。

実は、神さまが私たちに復讐を禁じておられるのは、私たち自身の幸せのためです。次にそのポイントを見ていきましょう。

2.自由を与えたい神の思い

ストレスからの解放

復讐心の背後にあるのは怒りです。怒りを抱えると、交感神経が異常に興奮した状態になります。その結果血圧や脈拍は上昇し、筋肉は戦闘態勢を整えるために常に緊張を強いられます。これは大変なストレスですから、自分自身の心身を激しく疲労させ、これが続けば脳卒中やうつ病など、心身の健康を損ねてしまいます。

あるいは、怒りのあまり不機嫌でいることによって、関係の無い第三者との関係をおかしくしてしまうこともあります。

怒りは、相手だけでなく、諸刃の剣のように自分自身をも傷つけてしまうのです。ですから、神さまは私たちが復讐心、すなわち怒りから解放されて欲しいと願っておられるのです。それが、自分で復讐するなという聖書の中の一連の命令や勧めです。

執着からの自由

そして、神さまは私たちが様々なものにとらわれず、自由を得ることで、どんなときでも喜びを体験して欲しいと願っておられます。

私たちが他人に怒りを感じるのは、自分が被害を受けたと感じるときです。すなわち、自分のものだと思っているものを取り上げられたり、自分の権利だと思っているものをないがしろにされたりしたときです。

たとえば、右の頬を打たれて頭にくるのは、被害を受けたと思うからです。強いられて1ミリオン歩かされて不平不満を感じるのは、本当はそんなことをするいわれはないのに、無理にさせられたと思うからです。

しかし、左もどうぞと差し出して打たれるのはその人の自由意思に基づきます。もう1ミリオン歩くのもその人の自由意思に基づきます。そこには不平不満はありません。

同様に、自分が物に執着していると、それを取り上げられると復讐したくなります。自分が名誉に執着していると、批判されると復讐したくなります。しかし、それらのものから解放されたとしたら、いちいち他人の言動に振り回されなくなりますね。

この話をお読みください

私たちが執着しているものから解放され、自由な心を手に入れることができれば、私たちは様々なストレスから解放されることになります。私たちを愛しておられる神さまはそれを望んでおられます。

私たちが執着から解放され、自由を得るために、聖書は敵を赦し、愛しなさいと勧めています。赦しは私たちを自由にします。その結果、心身を健康にさせ、人間関係をよくします。

一人では無理

そうはいっても、復讐してやりたいという思いは、私たちの内側からふつふつとわき上がってきます。それを手放すのは大変です。また、様々なものへの執着心も、捨て去るのはとても難しい。

私たちが様々なものに執着してしまい、それをなかなか手放せないのは、どこかに恐れがあるからです。それがなければ不幸になってしまうと、意識・無意識に恐れているからです。高いところからロープ一本にしがみついてぶら下がっているとします。とてもとても握っているロープを手放すことなんかできませんね。

そこで、マザー・テレサはこんな祈りを捧げました。
イエスよ、わたしを解放してください。
愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、
好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。
イエスよ、わたしを解放してください。
イエスさまは、全知全能の神です。しかも、私たちに無関心な方ではなく、文字通り命をかけて私たちを愛してくださっています。そのイエスさまがついていてくださるという事実が、私たちに握りしめているロープを手放す勇気を与えます。

そして、不可能を可能にするイエスさまは、私たちを内側から造り変え、自由を与えてくださいます。

まとめ

私たちも祈りましょう。復讐心や執着心から自由になって、人を赦し、愛することできるようになり、どんなときにも感謝し喜ぶことができるような自分にしてくださいますようにと。

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