とりなす者

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イザヤ書59章13節〜16節

(2017.5.14)

参考資料

16節の「人がいない」とは、次の「とりなす者がいない」と同じ意味です。ユダヤの詩の特徴は対句法で、同じ意味のことを2回繰り返したり、正反対のものを対比させたりします。

16節の「ご自分の御腕」とは、イザヤ書では特に救い主を指す言葉として用いられています(53:1)。

聖書からのメッセージ

イントロ

私たちクリスチャンは、社会の矛盾に対してどのような態度で臨めば良いのでしょうか。今回の箇所で、神さまが驚いていらっしゃるところから見ていきましょう。

1.とりなす者がいない

イスラエルの罪とさばき

この箇所の背景は、神の民であるイスラエルが神さまに逆らい続け、悔い改めなかったため、神さまは教育的指導としてイスラエルが様々な苦しみに遭うようになさったということです。

「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(1-2節)。

しかし、やがてイスラエルは国家的に悔い改めます。そして、神さまが遣わしてくださる救い主を信じて罪を取り除かれ、神さまの祝福の中に入れられます。

「『しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る』。──【主】の御告げ──」(20節)。

今回の箇所は、まだイスラエルが悔い改める前の状況です。

そして、ここで描かれているイスラエルの姿は、私たち全人類の姿でもあります。私たちは皆、神さまのみこころから離れ、自分勝手に生きてきました。

神の驚きの原因

そういうわけで、神さまは、私たち人類が個人としても集団としても自己中心的な生き方を続け、社会が混乱したり矛盾に満ちたりしている現状に心を痛めておられます(15節)。

と同時に驚いてもいらっしゃいます(16節)。それはなぜでしょうか。とりなす者が誰もいないからです。とりなしとは、仲裁や仲介のことです。たとえば、敵対関係にある人たちの間に立ち、関係回復のために尽力すること。あるいは、相手に直接何かをお願いできない人がいる場合、その人の代わりに相手にお願いをすることです。

神さまは、イスラエルにとりなす者が誰もいないことに驚いていらっしゃいます。すなわち、罪を犯さないようにと人々を戒める者、神さまを信じてその教えに従うようにと勧める者、そして堕落した国民のために神さまに赦しを願う者がいなかったということです。

ですから、代わりに神さまは救い主イエスさまを地上に送ってくださいました。イエスさまは、とりなす者として地上に来られました。
  • 十字架にかかって血を流し、死ぬことで、私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けてくださいました。それによって、私たちの罪は赦され、神さまとの関係が回復しました。
  • 復活して天に戻り、今は私たちの祝福を願って父なる神さまにとりなしをしてくださっています。
  • やがて地上に戻ってこられて、すべての悪を一掃し、平和で祝福に満ちた王国(神の国)を打ち立ててくださり、私たちをその幸せな国民としてくださいます。

キリストのからだとして

ところで、私たち教会は、イエスさまのからだであると聖書は言います(第1コリント12:27)。ですから、私たちは頭であるイエスさまがしたいと願っておられることをこの地上で行ないます。

この箇所での救い主イエスさまは、とりなす者として描かれています。ですから、私たちはこの地上で社会の矛盾を前にしたとき、とりなす者として活動しなければなりませんね。

私たちは社会の問題や政治に無関心であってはなりません。日本で、世界で何が起こっているか、これからどのような方向に進もうとしているか、関心を持って見続けなければなりません。そして、ただ嘆くだけではなく、私たちならではのアクションを起こさなければなりません。

では、具体的にどのようにしていけばいいのでしょうか。

2.とりなす者として活動しよう

祈り

私たちには祈りがあります。何をするにも祈りが第一です。

第1テモテ2:1にこのように書かれています。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」。

パウロが弟子のテモテにこの手紙を書いた時代、ローマ帝国でもっとも高い地位にあったのは皇帝です。当時、皇帝は神の子としてあがめられていました。そのような環境で「イエスこそ神の子だ」と主張するのはかなり勇気がいりますね。実際、パウロもペテロも皇帝ネロの迫害で命を落とします。

それでも、ローマ皇帝を呪うようパウロはテモテに勧めていません。むしろ、彼らのために祈り、とりなせと勧めています。それどころか、こう勧めてさえいます。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12:14)。

現在、安倍政権に対して危惧を抱いているクリスチャンがたくさんいます。一方で、自民党を支持しているクリスチャンもたくさんいるでしょう。政治的にどんな立場をとるにせよ、安倍さんや蓮舫さんや志位さんたちを呪うのではなく、祝福されることを願い、彼らが神さまのみこころにかなう政治をするよう、私たちクリスチャンは祈るべきです。

天皇制に反対する教会もたくさんありますが、それはそれとして、私たちは天皇家のために祈るべきです。同様に、トランプさんのために、習さんのために、金さんや文さんやプーチンさんのために、ISの指導者たちのために、好き嫌いや主義主張は別として、とりなしの祈りをささげるべきです。

あなたは、家族や友人、教会の兄弟姉妹、牧師やキリスト教界のリーダーたちのために祈っておられるでしょう。ますます熱心に続けてください。それだけでなく、さまざまな社会問題に苦しんでいる人たち、日本や世界の政治家たち、経済界のリーダーたちのためにも祈ろうではありませんか。

行動

ヤコブ1:27にこう書かれています。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」。

私たちの模範であるイエスさまは、祈りの人であると共に、行動の人でもありました。イエスさまは多くの人たちとふれあい、彼らの悩みを聴き、その苦しみの解決のために尽力なさいました。私たちも、私たちにできる場所で、私たちにできる方法によって、社会の矛盾を少しでも解決できるよう努力していきましょう。

大きな事ができなくてもかまいません。ノーベル平和賞を受けたマザー・テレサも、最初から大きな慈善活動を行なおうとしていたわけではありません。目の前の一人の死にゆく人に、温かい介抱の手を差し伸べただけです。

社会のいやしのために、あなたにできることは何ですか?

言葉

そして、自らの祈りと行ないに裏打ちされて、私たちは言葉を用いて、「神さまが望まれる生き方をしよう」と、社会に向かって訴えかけていきます。

社会問題や政治の問題に触れたとき、当事者を呪うのではなく、とりなしの祈りをすべきだということはすでに学びましたが、だからといって何も主張してはいけないということではありません。旧約時代の預言者たちは、間違った行動をとっている王や民衆に対して、その行動を改めるよう、恐れることなく主張しましたし、イエスさまも弟子たちもそうでした。

いかに社会の矛盾を取り除くためとはいえ、暴力的な方法は、私たちクリスチャンは取るべきではありません。イエスさまはおっしゃいました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)。

暴力は何も生み出しません。私たちが使う武器は剣や銃ではなく、言葉です。ですから、インド独立の父ガンジーや、アメリカ黒人差別問題で尽力したキング牧師ら、聖書に影響された運動家たちは、人々を抑圧から解放するために、非暴力を貫きました。

私たちは社会の傷をいやすために行動しなければなりませんが、暴力を伴う方法、その他聖書の教えに明らかに反する方法は、動機が何であれ避けなければなりません。

もちろん、私たち人間は、決して自分たちの力で理想郷を作り出すことができません。イエスさまの再臨によって、罪の問題が完全に解決されない限り、この世から様々な矛盾や悲しみは無くなりません。ですから、私たちが矛盾を抱えた社会に対して伝えるべき最も大切な言葉は、福音の言葉です。私たちはいつでも福音の言葉を伝えて、イエスさまによる罪の赦しを提供し続けていかなければなりません。

しかし、逆の極端、「伝道だけが教会の使命で、教会が政治や社会の問題に関わり合いにあってはならない」という考えも間違いです。要するに、バランスが大切なのです。

まとめ

私たちイエスさまの体に属するクリスチャンは、この世の傷を見つけていやすため、祈りや行ないや言葉を用いて、自分にできる「とりなす者の働き」を実践しましょう。

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