大きな喜びをもたらすもの

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ローマ人への手紙5章1節〜5節

(2017.5.28)

参考資料

1節の「義」とは、元々は神さまの正しいご性質のことを指します。神さまが正義の基準であって、神さまが最終的に何が正しくて、何が間違っているのかをお決めになります。
そして、義という言葉は、正義である神さまに受け入れられるために人間が達成しなければならない条件のことも指します。「義と認められる」とは、その条件をクリアし、神さまに受け入れられ、神さまと良好な関係に入ることです。

4節の「練られた品性」は、元々は「テストに合格する」という意味です。貴金属が精錬されることで純度と価値を高めるように、継続的な努力によって形作られた、円熟した人格を指します。

聖書からのメッセージ

イントロ

この箇所で、パウロは大きな喜びを表現しています。私たちもまた、どんな状況の中でも大いに喜ぶことができます。それはなぜでしょうか。

1.神との平和を持っているから

神との和解

1節でパウロは、「私たちは……神との平和を持っています」と書いています。これは、かつて敵対関係にあった神さまと和解し、仲良くなったという意味です。

私たちは創造主である神さまを無視し、自分の好きなことを好きなときに好きなように行なってきました。この自己中心は、神さまをないがしろにし、傷つける罪です。当然、神さまと私たちの関係は最悪でした。直ちに滅ぼされても文句の言えない状態でした。

しかし、神さまは私たちの罪を赦し、敵対関係を解消してくださったと聖書は教えています。私たちは、もはや神さまのさばきを恐れる必要がなくなりました。パウロは、そのことを大いに喜びました。

信仰による義認

パウロは、私たちが「信仰によって義と認められた」(1節)と語っています。「義と認められる」とは、参考資料でも解説している通り、「神さまに受け入れられるための条件をクリアして、神さまと和解し、良い関係になった」という意味です。要するに「救われた」ということですね。

そして、神さまとの和解は、信仰によってもたらされました。何を信じたのでしょう。それは、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(第1コリント15:3-4)です。

人となった神であるイエスさまは、私たちをさばいて滅ぼすためにではなく、罪を赦して救うために地上に来られました。イエスさまは、私たちの身代わりに罪の罰を受け、十字架にかかり、死んでくださいました。そして、3日目に復活し、今は天で私たちに祝福が注がれるよう、父なる神さまにとりなしてくださっています。

恵み

しかも、神さまは、私たちが何かすごい業績を上げたから救ってくださったわけでも、素晴らしい人格者だから救ってくださったわけでもありません。ただただ神さまの一方的な愛によって救ってくださいました。これを「恵み」と言います(2節)。私たちが、ただ信じるだけで救われたのは、神さまの恵みのおかげです。

世界には様々な教会があって、それぞれ特徴があります。私たち中通りコミュニティ・チャーチの特徴は、恵みを強調することです。恵みを受け、恵みに生き、恵みを伝える。これが私たちの教会です。

今、あなたは自分をダメだと思われますか? その理由は何ですか? イエスさまはその理由を聞いてこうおっしゃるでしょう。「なるほど、それは事実かも知れない。しかし、それはあなたがダメな理由にならない。それでも私はあなたを愛し、宝物のように思っているんだ」。

「そのままではダメだから、何とかしなければ」という発想で人生を送るのではなく、
  • そのままで素晴らしい。だから、その素晴らしさをますます味わい、喜び、楽しむために、何ができるだろうか。
  • もっとその素晴らしさに磨きをかけるために、何ができるだろうか。
  • その素晴らしさを無駄にしないために、何を手放せばいいだろうか。
という発想で人生を送りましょう。

2.神の栄光を期待できるから

神の栄光

2節に「私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と書かれています。神の栄光とは、神さまの素晴らしさのことです。聖書によれば、神さまは全知全能です。何でもご存じであり、将来のこともすべてお見通しです。そして、何でもおできになります。通常の物理法則を超えて、奇跡さえ行なうことがおできになります。

もし、神さまと敵対関係にあるなら、神さまが何でもお見通しでであり、何でもできるというのは恐ろしいことです。しかし、第1のポイントで学んだ通り、神さまと私たちは和解しました。それどころか、私たちは神さまに子どもとして愛されています。

であれば、神さまは私たちの幸せのために、その力を使ってくださるはずですし、聖書もそのように教えています。

神さまの素晴らしさについて、聖書を読んで知ったり、他の人の証しを聞いて知ったりすることは良いことです。しかし、私たち自身が、神さまの素晴らしさを生活の中でもっともっと体験したいとは思われませんか?

神の栄光を見るために

そのために、「神さまの栄光を見せてください」と祈り続けていきましょう。

そして、生活の中にすでに現されている小さな神さまの祝福を、見逃さないようにして、神さまをほめたたえたり感謝したりしましょう。イエスさまは、「わずかなものに忠実な人には、より大きなものが与えられる」とおっしゃいました。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』」(マタイ25:21)。

小さく見える祝福に気づき、それをもたらしてくださった神さまの素晴らしさをほめたたえ、感謝する力がついてくれば、神さまはさらに大きな祝福も見せてくださるでしょう。

この話をお読みください

領収書的な祈り

2節の最後に、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」と書かれているように、まだ実際にこの目で見てはいないけれど、必ず神さまがご自身の素晴らしさを教えてくださると信じて、先取りの感謝をささげることも大切です。「こうしてください」「これを与えてください」というような、いわゆる請求書的な祈りだけではなく、領収書的な祈りも捧げてみましょう。

たとえば、風邪で体調を崩しておられるなら、「神さま。風邪でとてもつらいですが、すでにあなたのいやしの力が注がれていることを感謝します。私のうちに、着々と力がみなぎり始めていることを感謝します」と祈ってみましょう。

3.患難が希望につながるから

祈っても苦しみが続く理由

神さまは、私たちに祝福を与えてくださいます。しかし、それはすべてがいつも私たちの願い通りになるという意味ではありません。祈っても祈ってもなかなか状況が変わらなかったり、かえってどんどん状況が悪化したりして、苦しみが続くことがあります。

それは、私たちが神さまに愛されていないからでも、神さまに今の苦しみから解放する力が無いからでもありません。私たちのためにそれが必要だから、私たちが苦しみ続けることを許可しておられるのです。

以前、他の教会の働きをお手伝いしていたことがあります。その教会には何人ものスタッフがいましたが、朝のミーティングでその一人が証しをしてくださいました。

この方が大学生の頃、牧師にこう質問しました。「教会では、自分の本音、自分の本当の姿を認め、これを見据えていると、そういう自分を愛してくださっている神さまのことがよく分かるようになる、と教えられています。しかし、私は自分のことがよく分かりません。どうしたら分かるようになりますか?」 すると、牧師はこう答えました。「何でもいいから、一つのことを心を込めて、とことんやり切ってご覧なさい」。

この方は、後に教会で働くようになりました。すると、「どうして私がこんなつまらない作業をしなければならないのだろう」とか、「面倒くさいから、適当に終わらせてしまいたい」とか、「あの人、こんなに良くしてやっている私に、なんて態度を取るんだ。まったく腹が立つ!」とかいう思いが出てきました。見たくもないような嫌な自分です。

しかし、大学生の頃に聞いた牧師のアドバイスを思い出し、逃げないで踏みとどまり続けました。すると、そういう情けない自分のことをイエスさまは大好きで、そういう自分なのに、神さまの栄光のために用いようとしてくださっているのだということが分かってきました。すると、もったいなくて、うれしくて、たまらなくなってきたのです。そう言いながら、このスタッフが感動の涙を浮かべておられました。

苦しみは、私たちと神さまとの関係をますます近くします。それは、私たちにとって大きな喜びをもたらします。

人格を練り鍛える苦しみ

このスタッフは、ただ「自分はこのままで愛されている」という感動を与えられただけではありません。この方は、本人も気づかないうちに変えられていました。純度の低い玉鋼が、高温で熱せられ、何度も何度もハンマーで叩かれ、そうして強くてしなやかな日本刀に姿を変えていくように。

牧師が、このスタッフの証しの後で、こうコメントしました。「○○さんは、同僚にも教会員の皆さんにも大変慕われ、頼りにされている。それは、自分が苦労したから、苦労している人の気持ちがよく分かり、心憎い配慮ができるからです」と。

苦しみは、私たちの人格を練り鍛え、より円満で望ましいものへと造り変えます。このことについて、3-4節にはこう書かれています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」。

ここで言う忍耐とは、ただ我慢して、嵐が通り過ぎるのを待つということではありません。イエスさまを信じる自分にとって、この苦しみには必ず意味があり、神さまはこの苦しみを通して素晴らしいことをしてくださると信じ、その実現をワクワクしながら期待して待つという、「積極的忍耐」のことです。

苦しみは、私たちを霊的アスリートとして鍛え、神さまの栄光を待ち望む信仰を強めてくれます。そして、どんな状況におかれても、パウロのように喜びに満ちあふれることができるようになります。

まとめ

神さまがくださる喜びを、もっともっと味わいましょう。

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