新しい心

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エゼキエル書36章16節〜27節

(2017.6.4)

参考資料

イスラエルの南王国は、バビロニア帝国(バビロン)の攻撃で滅びました。大規模な攻撃は3回あって、紀元前605年、597年、そして首都エルサレムが陥落した586年です。それぞれ、多くのユダヤ人たちがバビロンの都に捕虜として連れ去られます(バビロン捕囚)。

預言者エゼキエルは第2次攻撃の際に捕囚となり、その後バビロニアでユダヤ人に対して預言活動をします。32章まではエルサレム陥落に関する預言、33章以降はイスラエルの回復に関する預言が主に語られています。

17節の「さわりのある女のように汚れていた」というのは、月経中の女性が出血するように、イスラエルが多くの血を流したということを表しています(18節)。女性を蔑視した言葉ではありません。

26節の「肉の心」とは、柔らかい素直な心という意味で、頑なな「石の心」と対比されています。聖書で象徴的に「肉」という言葉を使う場合、罪の性質を宿した不敬虔で自己中心的な人間性のことを指すことが多いですが、ここでは良い意味で使われています。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回の箇所には、世界に散らされたイスラエルが、やがて約束の地に集められ、さらに霊的にも新しくされて、神さまとの親密な関係を取り戻すということが預言されています。これは直接的にはイスラエルに関する預言ですが、私たちクリスチャンの救いについても、大切な原則を教えています。それは何でしょうか。

まずは、イスラエルに関する預言の内容から見ていきましょう。

1.イスラエルの回復

散らされるイスラエル

16-20節は、イスラエルが約束の地を追い出されてしまった理由が語られています。

イスラエルは特別な民族です。それは、彼らが他の民族に比べて格別道徳的に素晴らしいということではなく、神さまに選ばれたからです。選ばれた理由は、神さまと彼らの関係を見たり、彼らから教わったりすることによって、全世界の民族がまことの神さまを知り、信じて救われるようになることです。

ところが、イスラエルはまことの神さまに従わず、自分勝手に偶像礼拝を行なったり、不道徳な行ないをしたりしました。イスラエルの不従順は、世界の救いにとって大変な問題です。そこで、神さまはたびたび預言者を遣わして、悔い改めるよう促しますが、彼らは間違った行ないをやめませんでした。

その結果、預言者たちが警告したとおり、北王国も南王国も外国の軍隊によって滅ぼされ、多くのユダヤ人が捕囚されてしまいました。
  • 北王国を滅ぼして住民を捕囚したのはアッシリア帝国ですが、アッシリアはバビロニアによって滅ぼされました。そこで、アッシリアに捕囚された北王国のユダヤ人たちは、南王国の捕囚されたユダヤ人同様、バビロニアの支配下に置かれたと考えられます。
その後、バビロニアがペルシャに滅ぼされて、多くのユダヤ人が約束の地に戻ってきます。ところが、イスラエルはイエスさまを救い主だと信じなかったため(信じた個人はいましたが、国としては否定しました)、再びさばきを招きます。紀元70年、ローマ軍の攻撃によってエルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは世界中に散らされてしまいました。こうして、1800年が経過します。

集められるイスラエル

しかし、それで神の民イスラエルが無くなってしまったのではありません。神さまは、やがてイスラエルが約束の地に戻ってくることを約束しておられます。「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(24節)。

ただ、神さまがイスラエルを約束の地に呼び集めたのは、彼らが不従順を悔い改めて、イエスさまを救い主と信じたためではありません。あくまでも神さまご自身の聖なる名のためです(22節)。これは、神さまが一方的にそのようにお決めになり、行動なさったということを意味しています。

ですから、イスラエルが約束の地に戻ってきたとき、イスラエル自身はイエスさまを信じません。それによって神さまの素晴らしさを認識するのは、(イスラエルではなく)外国人たちだと語られています。「わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが【主】であることを知ろう」(23節)。

この約束は、19世紀半ば頃に始まったシオニズム運動(ユダヤ人が約束の地に移住する動き)や、1948年のイスラエル共和国建国によって実現しました。ただ、彼らはまだ、国としてはイエスさまを救い主と認めていません。今回の預言の通りです。

新生するイスラエル

約束の地に戻ってきたときには、まだイスラエルは悔い改めていませんが、やがて内面も変化します。それは神さまが「きよい水」を振りかけることによってです(25節)。これは、聖霊なる神さまのことを指しています。

聖霊なる神さまは、イスラエルに3つのものを与えてくださいます。それは、聖めと信仰と従順です。
きよめ
「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ」(25節)。

イスラエルは、すべての汚れからきよめられます。すなわち、これまでの不従順の罪がすべて、完全に赦されます。たとえ、一時的に神さまの教えに反し、罪を犯してしまうことがあったとしても、そのたびに神さまは赦し、親密な関係を回復してくださいます。
信仰
「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(26節)。

自分たちの罪を頑なに認めようとしなかったイスラエルが、これまでの過ちを素直に認め、悔い改めることができるよう、そして、まことの神さまがくださる祝福の約束に対して、素直に信頼することができるよう、内面を変化させてくださいます。
従順
「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(27節)。

モーセの律法は、何をすべきか、すべきでないかという知識は教えましたが、それを実行する内面的な力は与えませんでした。しかし、聖霊なる神さまは、その力をイスラエルの人々に与えてくださいます。

こうして、イスラエルは神の民としての本来の姿を取り戻し、世界の救いのカギとして働くことができるようになります。この約束は、世の終わりの大患難時代、イエスさまの再臨直前に起こります。

2.聖霊の助けを期待しよう

では、私たちクリスチャンは、イスラエルに関するこの預言から、いったい何を学ぶことができるでしょうか。それは、イエスさまの十字架と復活を信じて救われたときから、聖霊なる神さまが私たちの内に住んでくださっているということです。

そして、聖霊さまは、世の終わりにイスラエルに与える3つのものを、私たちクリスチャンにも与えてくださいます。しかも、世の終わりではなく、今この時に。

きよめ

イスラエルが約束の地に戻ってきたのは、彼ら自身の素晴らしさの故ではなく、神さまの一方的な恵みによってです。

私たちが罪を赦されて永遠の滅びから救い出され、しかも神さまの子どもにしていただいたのも、私たちが道徳的に素晴らしいからでも、すごい奉仕をしたからでもありません。ただただ神さまの一方的な愛と選び、イエスさまの一方的な救いのわざ(十字架と復活)によります。

救いは恵みによるということを、私たちは決して忘れてはなりません。そうでないと、失敗するたびにさばきを恐れて喜びを失ったり、まだ救われていない人たちに対して傲慢な態度を取ってしまったりするでしょう。私たちは、神さまが一方的に愛し、選び、行動してくださったことによって、救われました。ハレルヤ!

そして、私たちはただ赦されて、永遠の滅びを免れただけではありません。私たちは、救われてからも失敗し、罪を犯します。罪は神さまを無視することですから、神さまとの関係がおかしくなってしまいます。神さまが私たちを祝福しようとしても、壁ができてしまってうまく私たちの所に届きません。

聖霊さまはそれを私たちに教えてくださいます。あなたは、聖書を読んだり、礼拝式でメッセージを聞いたりしているとき、あるいは何でもないときに、心の奥底にチクリチクリと刺すような痛みを感じたり、「それは間違っているよ」という思いがわき上がってくることがありませんか?

そんなふうに聖霊さまが罪を示されたときは、言い訳しないで、素直に認めて悔い改めましょう。そして、イエスさまの十字架と復活によって、すべての罪が赦されていることを思い出して、感謝しましょう。聖霊なる神さまは、私たちをあらゆる罪からきよめてくださいます。そして、私たちは、神さまとの親密な関係を回復することができます。

信仰

聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)と教えています。

私たちに求められている信仰の中心は、創造主なる神が存在するというだけでなく、良いお方であって、自分に対して最善以外のことをなさらないということを信じることです。具体的には、その約束の言葉に信頼することです。

聖書を読む際、礼拝式に参加する際は、聖霊なる神さまが自分の心を開き、素直に神さまの約束を信じ、「何があっても大丈夫」という平安を与えてくださるよう祈りましょう。

従順

そして、聖霊なる神さまは、私たちが神さまのみこころを知り、それを実行するための力、すなわち意欲や知恵や勇気を与えてくださいます。

この話をお読みください

自分の決断や努力だけで神さまを信じ、神さまに従うことができるなら、イエスさまの十字架の血潮によって、一方的に赦していただく必要はありませんでした。私たちは、神さまのみこころに関しては無力です。それを正直に認めて、聖霊さまの助けを求めましょう。

それはあまりに虫が良すぎると思いますか? いいえ。私たちの努力で立派になれたとしたら、ほめたたえられるのは私たちです。しかし、聖霊さまの奇跡によって生き方が変えられたとしたら、ほめたたえられるのは神さまです。神さまは、ご自身の聖い名のために行動なさいます(22節)。私たちが聖霊さまの働きを期待することは、神さまにとって喜ばしいことです。

ですから、こう祈りましょう。
  • 神さまに従いたいという熱い思いを与えてください。
  • どのようにすれば神さまのみこころにかなう行ないができるか、知恵を与えてください。
  • 従うのが困難な状況でも、勇気を持って実行できるよう励ましてください。

まとめ

今日はペンテコステです。元は、ユダヤの収穫感謝の祭りでした。約2千年前のペンテコステの日、イエス・キリストが復活して天にお帰りになった10日後、聖書の約束通り、聖霊なる神さまが弟子たちの上に下ってこられ、内側を満たされました。以来、聖霊なる神さまは、イエスさまを信じた人たちの内に住んでくださっています。

あなたがクリスチャンなら、あなたの内側にも聖霊さまがいらっしゃいます。そんなの感じたことがない? 前はいらっしゃった気がしたけれど、今は何も感じない? いいえ。あなたがイエス・キリストを信じたということが、聖霊さまが内に住んでくださっている証拠です。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(第1コリント12:3)と書かれているからです。

聖霊さまは、あなたの内にも住み、あなたをきよめ、心を開き、従う力を与えてくださっています。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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