神さまと一緒に素晴らしいことをしたい

預言者シリーズ3

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イザヤ書6章1節〜13節

(2017.7.23)

参考資料

イザヤは、南王国ユダの預言者で、王であるウジヤ(別名アザルヤ)、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活躍し、伝説によると、ヒゼキヤの後継者マナセ王によってノコギリびきにされて殉教したと言われています。

今回の記事は、ウジヤ王が亡くなった年(紀元前740年頃)の出来事です。ウジヤは、最初のうちは神さまに従って善政を敷き、特に農政や軍事で成果を上げました。しかし、晩年は傲慢になり、神殿で祭司しかささげてはならない香をたこうとして、神さまのさばきを受け、ツァラアト(重い皮膚病)にかかってしまいました。隔離されたウジヤに代わって政治を行ない、その後王となるヨタムも善王でしたが、ウジヤの時代から多くの民が偶像礼拝にふけり、また高官たちも賄賂を取るなど堕落していました。

2節のセラフィム(セラフの複数形)は、高位の天使。

11節以降は、135年後(前605年)に始まるバビロン捕囚を預言しています。バビロン(バビロニア帝国)による攻撃で国は荒廃し、多くのユダヤ人がバビロンに連れ去られました。前586年にはエルサレムが陥落して国が滅びてしまいます。しかし、前539年にバビロンがペルシャに滅ぼされたことで、ユダヤ人は国に帰ることができるようになります。

13節の「聖なるすえ」である「切り株」とは、いわゆる「イスラエルの残りの者」(イザヤ10:20-22、ミカ5:7-8など)のことです。多くのユダヤ人が神さまへのまことの信仰を失う中、信仰を保ち続ける人々を指します。

聖書からのメッセージ

イントロ

最近、自分が何のために生きているのか分からない、何をしたらいいのか分からないという、むなしさを抱えている人が増えているように思います。しかし、聖書の神さまは、私たちを子どもにしてくださいました。そして、私たちと一緒に、この地上で意味のある、価値のある、素晴らしいことをしようと思っておられます。この話をお読みください

エリヤやエリシャがそうでしたね。またペテロやパウロもそうでした。あるいはアブラハムやモーセやダビデやギデオンもそれを体験しました。彼らのように、私やあなたが神さまと共に何かをする喜びを味わうために、何が必要なのでしょうか。神さまに遣わされたイザヤを通して学びましょう。

1.イザヤの再召命

神と天使の幻とイザヤの嘆き

イザヤは、神さまの幻を見ました。また、神殿の上に天使であるセラフィムたちがいて、神さまを賛美していました。その声のために、神殿が揺れ動き、神さまの栄光を現す煙がそこを満たしました。

思わず、イザヤは「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから」(5節)とつぶやきました。というのは、ユダヤ人は、罪ある人間が神さまを見ると死ぬと考えていたからです。

ここで新改訳が「ああ」と訳している言葉は、元々「災いだ」という言葉です(口語訳や新共同訳はそう訳しています)。ひとつ前の5章では、イザヤは南王国の人々の罪を指摘して、5回も「ああ」(災いだ)と語りかけています。イザヤは、南王国のひどい霊的現状に義憤を感じ、その反面、自分は神さまに忠実であり、正しい行ないをしていると思っていたことでしょう。

しかし、あまりにも聖い神さまの姿を目にし、またセラフィムたちを見たとき、イザヤは自分もまた罪深く、災い(すなわち神さまのさばき)を招くような存在なのだと思い知らされました。
くちびるの汚れ
くちびるが汚れているというのは、心が罪に染まっているため、くちびるを使って表に出てくる言葉も正しくないという意味です。あるときイエスさまはおっしゃいました。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:34-36)。

イザヤは、自分はとても神さまの前で申し開きできるような聖い人間ではないと悟りました。ましてや、自分はくちびるを使って神さまに奉仕をする預言者なのに、そのくちびるが汚れているというのは最悪だと彼は思いました。だから神さまは天使を伴って自分の前に現れ、滅ぼそうとしておられるのだ。彼はそう考えて、絶望したのです。

くちびるの聖め

すると、セラフィムが祭壇から燃える炭火を取り、イザヤのくちびるにそれを当てました。通常なら大やけどを負うところですが、イザヤは無事でした。それどころか、イザヤの罪は赦されたとセラフィムは宣言しました。

祭壇の上で燃えていたのは、犠牲としてささげられた動物の脂肪です。神さまは、罪ある人間が聖い神さまに近づき、交わるために、動物犠牲のシステムを与えてくださいました。本来なら、神さまの前に立った人間は、その罪の故にさばかれて、死ななければなりません。しかし、人の代わりに犠牲の動物が殺されて、その血が祭壇に注がれ、祭壇の上で脂肪が焼かれたとき、神さまはその人が死んだと見なして、罪に対するさばきは終わったと宣言してくださいます。すなわち、その人はそのままの姿で神さまの前に出て行き、親しく交わり、祈り、祝福をいただくことができるようになるのです。

イザヤは、自分の罪深さに絶望しましたが、神さまは犠牲を受け入れ、イザヤを赦してくださったのです。

与えられた預言

「誰を遣わそうか」という神さまの声を聞いたとき、イザヤは「私を遣わしてください」と言いました。罪の赦しを受け取る前だったら、とてもこんな自分が神さまのメッセージを語ることはできないと躊躇したことでしょう。しかし、イザヤは自分のくちびるが聖められたことを知りました。自分は弱く、語る言葉も不完全だけれど、神さまがそんな自分を赦し、受け入れてくださっているのだから、自分にできる精一杯の知恵と力を使って、神さまのご用を務めよう。そんな気持ちになっていました。

ところが、人々に向かって語れと言われたメッセージは、とても理解に苦しむものでした。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように」(9-10節)。

「自分たちの罪を認めて、悔い改めなさい。偶像やお金や快楽ではなく、まことの神さまに仕えなさい。神さまのみこころを学んで、それを実践しなさい。そうすれば、神さまのさばきを回避することができる」。そういうメッセージなら分かります。それなら、どんなに厳しく罪を指摘するような預言でも、語る意味があります。しかし、これでは、神さまはもう南王国の人々の悔い改めを期待せず、さばきを下すおつもりだということになるではありませんか。
いつまでですか?
ですから、思わずイザヤは「いつまでですか」と尋ねます。いつまでこんな意味のない預言を語り続けなければならないのですか、ということです。すると、神さまの答えは、バビロン捕囚が起こるまでというものでした。バビロン捕囚が始まるのは、この時から135年も後のことですから、当然イザヤはこの世にいません。すなわち、ずっと語り続けなさいということです。

やる意味が分からないことを延々と続けるのは辛いものです。しかし、神さまが語れとおっしゃった預言は、神さまにとっては意味のないものではありませんでした。13節の最後に「切り株」とか「聖なるすえ」とか言われている人々が登場します。彼らは、いわゆる「イスラエルの残りの者」(イザヤ10:20-22、ミカ5:7-8など)のことです。多くのユダヤ人が神さまへのまことの信仰を失う中、信仰を保ち続ける人々を指します。

昔から神の民であるユダヤ人の多くは、まことの信仰を失いました。しかし、どんな時代にも「残りの者」がいて、まことの信仰を守り続け、神さまに仕え続けてきました。たとえば、
  • 出エジプトの時代、多くの大人世代が神さまを信頼せず、約束の地には入れませんでしたが、ヨシュアとカレブは信頼し続けたため、約束の地を踏むことができました。
  • エリヤの時代、多くのユダヤ人が偶像礼拝を行なっていて、彼は自分一人だけが残されたと嘆きましたが、神さまは7000人が残されているとおっしゃいました。
今も、そしてこれから先、イエスさまが再臨なさる未来の時代まで、残りの者は決していなくなることがありません。
聖なるすえ
イザヤがどんなに神さまへのまことの信仰を語っても、ほとんどの人々は悔い改めようとしません。まさに9-10節のような状態です。これでは、南王国は神さまのさばきを招いてしまうでしょう。実際、イザヤがこの預言を受けた201年後の紀元前539年、バビロンの攻撃で国が滅びてしまうことになります。

しかし、それで終わりませんでした。イザヤへの預言通り、神さまへの信仰を失わない「聖なるすえ」の人々が残されます。彼らは、国が滅びたのは、自分たちが神さまを無視して、自分勝手な生き方をしたせいだと悟ります。そして、バビロンがペルシャに滅ぼされ、国に帰ることができるようになったとき、彼らは「これからは偶像礼拝をせず、モーセの律法を忠実に実行しよう」と訴え、それが民全体を巻き込む律法回帰運動に発展しました。

それこそ、イザヤが祖国に願っていた姿ではありませんか。だから、意味がないなどと思わず、使命感を持って語り続けなさい。神さまはそんなふうにイザヤを励ましたのです。

では、神さまと共に素晴らしいことをする喜びを体験するために、私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

2.意味のある人生を送るために必要なこと

大いに落ち込み、大いに恵みを味わおう

イザヤは、神さまの前で、自分の弱さ、情けなさ、不誠実さ、罪深さを思い知らされて、愕然としました。そして、激しく落ち込み、こんな自分はもうダメだとつぶやきました。

しかし、神さまの前で落ち込むことは良いことです。なぜなら、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)と書かれている通り、神さまの恵み深さを知り、震えるほどの感動を味わうチャンスだからです。

イザヤは、祭壇にささげられた動物犠牲の炭火によって、罪を赦され、聖められました。しかし、動物による犠牲は不完全ですから、罪を自覚するたびにささげられました。そして、イエス・キリストは、完全な犠牲として十字架にかかり、血を流してくださいました。そのおかげで、私やあなたの罪は、完全に赦されています。

また、聖霊なる神さまが私たちの内に住んでくださり、私たちが神さまのみこころを実践できるよう、日々造り変えてくださっています。

もしも私たちが、自分の決心や努力だけで聖い生活を送ることができるのなら、イエスさまの犠牲も、聖霊さまの助けも、そして父なる神さまの赦しも必要ないことになります。自分の弱さ、不完全さ、醜さを知って落ち込むことは、神さまの恵み深さ、愛情深さを知るためのチャンスです。

イザヤがますます神さまと共に働きたいという願いが膨らませたのは、そうしないとひどい目に遭うからではありません。神さまの恵み深さに触れたからです。私たちも、神さまの前で大いに落ち込み、そして大いに恵みを味わい、感動しましょう。

手を挙げよう

一度、徹底的に謙遜にさせられ、そして神さまの恵みを知らされたイザヤは、「誰を遣わそうか」という神さまの問いかけに、ぱっと手を挙げて、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言いました。

神さまと共に働きたいと自己推薦すること。これが神さまに素晴らしい人生を歩ませていただくための2つ目の秘訣です。主の兄弟ヤコブは言いました。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4:2-3)。

昔の聖歌の中に、こんな歌があります(聖歌578番)。
用いたまえ 我が主よ
用いたまえ 我をも
御恵みを取り次ぐに
通り良き管として
これを、私たちを祈りとしたいですね。そして、大胆に「私を用いてください」と願いましょう。

神さまにとっての意味を信じよう

神さまが私たちにして欲しいと願っておられることは、確かに意味があるとすぐに分かるものもあれば、何でこんなことをしなきゃならないのか分からないというものもあります。あるいは、強制的に何か辛い境遇に落とされてしまって、どうして自分がこんな目に遭わなきゃいけないのか意味が分からず、よけいに苦しむことがありますね。

意味が分からないときには、祈りの中で「教えてください」と率直に尋ねてみましょう。また、他のクリスチャンに尋ねてみてもいいでしょう。

それでも分からないときには、分かるまで何もしないのではなく、とにかくみこころだと分かっていること、今しなければならないことを実践してみましょう。神さまは決してへまをなさらない方ですから、本当に意味のないことや、本当の意味で私たちのためにならないことはなさいません。

イエスさまもこうおっしゃっています。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)。それを信じて、みこころを学び、実践しましょう。この話をお読みください

まとめ

神さまは、あなたを深く愛しておられます。そして、あなたと一緒に価値あること、意味のあること、素晴らしいことをしようとしておられます。ですから、どんどんそれを味わいたいですね。

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