責任の整理

預言者シリーズ5

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エゼキエル書3章16節〜21節

(2017.3.12)

参考資料

古代の中東では、敵国を占領した後、反乱防止や有能な人材確保などのために、占領地の住民を本国に強制移住させるということが行なわれていました。これが捕囚です。

バビロン捕囚は、バビロンの王ネブカデネザルによる攻撃で、イスラエルの民がバビロンに捕らえ移された事件です。攻撃と捕囚は複数回にわたって行なわれ、大規模なものは紀元前605年、597年、586年に起こりました。586年の攻撃の時には、エルサレムが陥落し、神殿も破壊されてしまいました。

エゼキエルは、紀元前597年に捕囚され、その5年目(583年)に預言者として召し出されました(1:1)。今回の箇所はその続きです。

16節の「七日目の終わり」とは、エゼキエルが幻を見せられ、預言者として召し出された7日目ということです。

聖書からのメッセージ

イントロ

ある求道者が、クリスチャンにこう尋ねました。「クリスチャンになったら、もう人生に悩みが無くなるのでしょうか?」 するとこういう答えが返ってきました。「悩みは無くなりません。でも、意味のないことに悩まなくなり、その分だけ本当に悩まなければならないこと、悩む価値のあることに時間とエネルギーを費やせるようになります」。

今回の箇所には、神さまがそういう生き方をエゼキエルに教えてくださっています。

1.エゼキエルへの教訓

エゼキエルの召命

ある時、エゼキエルは突然幻を見せられました(1章)。それは神さまと、4つの顔と4対の翼を持つ天使たちの幻でした(1章)。イザヤが見た天使は6対の翼を持つセラフィムでしたが、こちらはケルビムと呼ばれています(10章)。そして、神さまが彼を預言者として召し出されました。

その頃すでに預言者として活動していたエレミヤは、イスラエルに残っている民に向かって語りましたが、エゼキエルはバビロンに捕囚された民に向かって語ることを命ぜられます。しかし、その活動は他の預言者たち同様、困難に満ちたものになりそうです。というのも、神さまご自身が、それをあらかじめ語っておられます。「しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ」(7節)。

しかし、それでもエゼキエルは、神さまのおっしゃることを民に向かって語らなければなりません。「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え」(11節)。

エゼキエルは、見せられた幻の神々しさと、与えられた任務の大きさのためでしょう、7日間呆然とした状態で過ごしました(16節)。

警告の任務

エゼキエルに与えられた任務は、罪を犯し続けているイスラエルに対して、このままでは神さまのさばきを招くと警告することでした。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(17節)。

そして、この命令は、モーセの律法に基づいています。昔、神さまはモーセを通して、イスラエルの民に律法をお与えになりましたが、この律法の命令には約束と警告が伴っていました。「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」(申命記11:26-28)。

ところが、イスラエルの民の多くは、預言者たちを通して語られた神さまからの警告を無視して、偶像礼拝をし、自分勝手な生き方を続けました。そして、その度重なる罪のせいでバビロン捕囚が始まりました。ですから、捕囚された民は、今こそ悔い改めて、神さまに従う決心をしなければなりません。

エゼキエルの責任

さて、今回の箇所で、神さまはエゼキエルに責任があることと、責任がないことを明確になさいました。
  • 彼の責任、すなわちしなければならないことは、捕囚された民に向かって神さまからの警告を伝えることです。もしそれをしないなら、エゼキエルは罰を受けなければなりません。
  • しかし、エゼキエルの語った警告を聞いて、悔い改めるか、今まで通りの罪深い生活を続けるかは、聞いた人たちの責任です。たとえ、悔い改めずにさばきを招いたとしても、それについてエゼキエルが責任を問われて罰を受けることはありません。
もし、相手が預言を受け入れるかどうかまで、エゼキエルが責任を負わされるとしたら、命がいくつあっても足りません。それ以前に、すぐに重圧で押しつぶされそうになることでしょう。しかし、神さまは、「他人の責任まで背負う必要はない。あなたは、あなたがしなければならないことを一生懸命やればいい」とおっしゃいました。

では、エゼキエルの責任に関する神さまの言葉は、私たちにどんなことを教えているでしょうか。それは、「自分の責任と、他の人の責任を分ける」ということです。

2.責任を分離しよう

責任の所在を明らかにしよう

まず「責任」について定義しておきましょう。責任とは、誰が悪いかということではありません。責任とは「自分のことは、自分で考えて、自分で決断して、自分で行動して、行動した結果については、それがいいものでも嫌なものでも自分で引き受けること」です。

もちろん、自分一人でできることは限られます。一人では判断がつかなかったり、行動することができなかったりして、他の人の助けを借りることがありますが、誰にどれだけ助けてもらうかを決めるのは自分ですし、助けてもらった結果、うまくいかないことがあったとしても、その結果を味わうのはやっぱり自分です。

また、そもそも責任能力がないという場合もあります。英語で責任は「responsibility」と言いますが、直訳すると「反応する能力」のことです。すなわち、実行する能力がない人には責任もないということです。たとえば、赤ちゃんは、おなかがすいても自分でどうにかするだけの能力がまだ育っていません。ですから、親が代わりに責任を負い、赤ちゃんの空腹を満たすために何をすべきか考え、実行しなければなりません。

自分のこと、すなわち自分が主体的に取り組まなければならないことを、そうする能力もあるのに、他人に丸投げして解決してもらおうとしたり、結果がうまくいなかったのを他人のせいにしたりすることを甘え、あるいは依存と言います。

また、他人のこと、すなわち他人が主体的に取り組まなければならないことを、その人にはそうする能力もあるのに、代わりに解決しなきゃと悩んだり、その人の許可を取らないであれこれ口や手を出したりするのを、よけいなお世話と言います。

解決しなければならない課題が生じたとき、まず「これは誰の責任において解決しなければならない課題なんだろうか」と考えることが、よけいな悩みを背負わない秘訣です。そして、他の人の課題に勝手に手を出さないことと、自分の課題は自分が主体的に解決しようとすることが大切です。

他人の課題を勝手に解決しない

他人が主体的に取り組まなければならない課題については、基本的にその人に解決を任せます。というのは、相手自身が解決したいと願い、自分で解決しようと取り組まない限り、課題は解決しませんし、したとしても相手から解決の手柄を取り上げることになるからです。

詩人ゲーテはこう言いました。「涙と共にパンを食べたことのない人、寝床の上で泣きながら夜を明かしたことのない人は、天国の力を知ることはない」。人には悩む権利があります。そして、それを自分で主体的に解決する権利があり、それによって達成感を味わう権利があります。たとえうまく解決できなかったとしても、そこから様々なことを学ぶ機会を得る権利があります。悩むことを通して、人は天国の力を知ることさえできます。

よけいなお世話はそれらの権利を奪うことです。また、相手を自分で解決を考えることも、解決することも、結果を引き受けることもできない無能力者扱いすることです。それでは、かえって相手を苦しめることにもなりかねません。
責められた愛情深い母親
華子さんの息子さんはずっと不登校で、その後もニートを続けていました。しかし、華子さんがカウンセリングを受け、またクリスチャンになったことにより、間接的に息子さんに生きる力が注がれ、息子さんは回復して、建設会社でアルバイトするまでになりました。

ある寒い冬の日、息子さんが11時近くになって帰ってきたことがあります。華子さんはすでに布団に入っていましたが、息子さんが手洗いなどをしている間に起き出し、夕食の残りを温めてテーブルに並べました。そこに息子さんが入ってくると、夕食が並んでいるのを見て、露骨に嫌な顔をし、「お袋、俺はこのせいで病んだのだ」と言いました。

華子さんはショックでした。華子さんのご主人は横暴な人で、よくちゃぶ台返しをしていましたし、お姑さんもいつも家族にネチネチと嫌みを言うような人でした。そんな不安な家庭環境のせいで病んだのだというなら分かりますが、これまで息子を頑張って支えてきた自分のせいだとは何事でしょう。しかし、心が強められていた華子さんは、ここで逆ギレしたり泣いたりしないで、「どうして?」と尋ねることができました。

すると息子さんは解説してくれました。「こんな遅くまで、食事もさせずに働かせる会社があるだろうか。実際、俺はもう食べてきて、もうこれ以上欲しくない。なのにこうやって勝手に夕食を用意されたら、俺はこう思うんだ。『せっかく用意してもらったのに、食べないとお袋に悪いから、しょうがないから食べるか』。これって、俺のためじゃなくて、お袋のためになちゃってるよね? こうやってお袋からあれこれよけいな世話を焼かれるたびに、俺はどんどん生きる力を吸い取られてきたんだ」。

さらに息子さんは続けます。「それに、たとえ食事もとれないほど現場が忙しかったとしても、今の世の中、どこででも食料を調達できる。俺もう大人だよ。自分で自分の食べるものの心配くらいできるよ。だけど、こうやって用意されたら、赤ちゃん扱いされているみたいで気分が悪い」。

この話を私があるセミナーで紹介したら、息子さんも悪いという意見が出ました(主に主婦の皆さん方から)。夕食がいらないならそう連絡すればいいというわけです。確かにその通り。しかし、そうやって事前に連絡すべきだということを息子さんが判断できなかったのは、そうすべきだということ自体を教わってこなかったためです。というのは、華子さんが判断をずっと代行してきたから。
愛にも手順がある
息子さんの話を聴いて、華子さんは目からうろこが落ちる思いがしました。そして、心から謝罪しました。さらにこう尋ねました。「でも、お母さんはお前を愛しているから、応援したい気持ちもあるんだよ。そんなときにはどうしたらいい?」 すると息子、こう答えました。「それだよ。そうやって尋ねてくれたら、助けが欲しいときにはお願いすることができるでしょう?」

責任を整理して課題を分けようというのは、「他人のことは自分には関係ないから知らない」と、一切合切突き放すべきだということではありません。困っている人の手助けをしたいと願うことは、人として愛にあふれた素晴らしいことです。ただ、私たちにできるのは手伝いに過ぎないということを覚えておきましょう。

たとえ相手が一人で解決できない悩みを抱えているとしても、誰に助けを求めるか、何をどれだけ助けてもらうかを決める権利はその人にあります。ですから、あくまでもお手伝い役である私たちは、相手に助けて欲しいか、そして助けて欲しいなら何をどれだけ助けたらいいか尋ねて確認する必要があります。
わたしに何をしてほしいのか?
ある時、盲人バルテマイが、イエスさまに向かって叫びました。イエスさまは彼を呼び、「わたしに何をしてほしいのか」とお尋ねになりました(マルコ10:51)。バルテマイはすぐに「目が見えるようになることです」と答えましたが、それくらいの答えは私たちにも十分予想できます。イエスさまは、彼の願いが分からなかったのでしょうか。

神さまは全知全能ですから、たとえ私たちが祈らなくても、私たちが抱える悩みや願いをご存じです。「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと【主】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」(詩篇139:4)。ですが、祈るように求めておられますね。それは、神さまと私たちが親子としての人格的な交わりをするためですが、もう一つ理由を挙げるとすると、私たちの主体性を取り上げないため、私たちを責任ある大人として扱っておられるためです。

イエスさまが、あえてバルテマイが自分で自分の願いを口にするよう導かれたのも、目が見えないために苦労しているという課題を、バルテマイから勝手に取り上げないためです。

私たちも、他の人の手助けをしたいと思った時には、いきなり勝手に手を出さないで、イエスさまに倣って、「私に何かできることない?」「こんなふうにさせてもらいたいんだけど、いい?」と尋ねることにしましょう。

自分の課題に主体的に取り組む

一方、自分の課題は自分の責任で、自分が主体的に取り組まなければなりません。誰かの助けを借りるにしても、誰にどれだけ助けてもらうかは自分が決めなければなりませんし、頼った結果うまくいかなくても、その人のせいにしてはいけません。

しかし、いくら自分の課題だといっても、自分の力ではどうしようもないこともあります。たとえば天候は自分ではどうしようもありませんし、世の中の経済状況も個人ではどうしようもありません。他人の反応もそうです。それを嘆いたとしても、どうすることもできません。それらは、神さまや他の人の責任に属することです。

ただ、私たちは、置かれている環境、状況の中で、起こった出来事について、今のこの何ができるか考えて、それを実践することが求められています。
セミナーと人身事故
以前、川崎で月1回セミナーを開いていた時のことです。前の夜に川崎のホテルに泊まり、翌朝駅そばのバスターミナルからバスで会場まで向かっていました。ホテルからバス停までは駅の構内を通って行くのですが、その日は駅に人だかり。別の駅で人身事故が起こったため、電車が止まっており、運転再開も未定だということでした。改札前ではたくさんの乗客が駅員さんに詰め寄っていました。中には駅員さんに向かって怒鳴っている人もいます。

私は電車は使いませんが、電車を使っていらっしゃる受講生は、セミナーの開始時間に間に合わないことでしょう。ですから、私にとってもあの人身事故は困った事態でした。でも、どんなに私が悩んでも、泣いても、怒っても、駅員さんに詰め寄っても、それで事故がなかったことにはなりませんし、運転再開が早まるとも思えません。ですから、私は自分にできないことに時間とエネルギーを傾けるような、そんな無駄なことはしないことにしました。そして、今自分にできることをしました。

いつもだったら喫茶店でコーヒーを飲んでからバスに乗るのですが、それをしないですぐに会場に向かいました。そして、主催者と話し合い、時間通りに開始して、みんながそろうまでは質疑応答をしたり、これまで学んだことを実践しての体験談を披露し合ったりすることにしました。おかげで、今までとはまた違った良いセミナーの時間を共有することができました。何より、私自身がイライラせずに済んだのは、大きな収穫でした。

エゼキエルは、神さまから責任を区別することを教わりました。彼に与えられた使命は大変でしたが、自分の責任に集中することで、彼はその重荷を負いきることができました。私たちも、神さまの責任に属することや、他の人の責任に属することに手を出して、無駄なエネルギーと時間を費やさないようにしないといけませんね。
ニーバーの祈り
最後に神学者ニーバーが作ったといわれる祈りの一部を紹介します。
「神さま。変えられないものを静かに受け入れるための恵みを与えてください。また、変えなければならないものを変える勇気を与えてください。そして、それらを区別するための知恵を与えてください」。
これが私たちの祈りとなりますように。

まとめ

困ったことが起きた時には、責任を整理し、誰が主体的に取り組まなければならない課題なのかを考えてみましょう。

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