喜びの律法

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マタイによる福音書5章17節〜20節

(2017.10.1)

参考資料

5〜7章は、いわゆる山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれるイエスさまの説教集です。5:1-125:13-16については2015年に解説しましたので、今回は割愛します。

17節の「律法や預言者」は旧約聖書のこと。18節の「律法」は、出エジプト記20章から申命記にかけて書かれている「モーセの律法」のことで、全部で613の命令があると言われています。

20節の「義」とは正しさのことですが、人間が評価する正しさではなく、神さまが評価する正しさ、すなわち神さまに受け入れられるレベルの正しさのことを指します。神さまに義であると認められた人は、救われます。すなわち、神さまとの愛の関係を回復し、神さまからの永遠の祝福をいただく特権が与えられます。

聖書からのメッセージ

イントロ

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今回の18-19節だけを読むと、現代の私たちも、モーセの律法を守らなければならないように思えます。しかし、モーセの律法を「すべて」「書かれてあるとおりに」実行しているクリスチャンはいません。一体なぜなのでしょうか。もしモーセの律法を守らなくていいのなら、私たちの生きる指針は何なのでしょうか。

1.モーセの律法

成就

この箇所で注目すべき言葉は「成就」です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(17節)。

「律法や預言者」というのは、当時のユダヤ人が持っていた聖書、すなわち旧約聖書のことです。イエスさまは、旧約聖書が成就させるために来たとおっしゃっていますが、成就とは「旧約聖書が人間に伝えようとしているメッセージが、すべて実現する」という意味です。たとえば、将来こういうことが起こると預言されたことや神さまの約束、すなわち神さまのご計画が実際に起こるということです。
成就のカギ
そして、イエスさまは、自分は聖書のメッセージを実現するために来た、すなわち成就のカギを握っているのは自分だとおっしゃいました。

旧約聖書に記されている神さまのご計画は、救い主(メシヤ、キリスト)を中心に展開していきます。
  • 救い主は、人類の罪の問題を解決します。
  • 救い主は神の国を建設します。そして、ユダヤ人や異邦人に約束されている様々な約束(たとえばアブラハムが復活して約束の地を所有することなど)を、神の国において実現なさいます。
  • 救い主は、すべての悪を滅ぼし、信者がもはや苦しむことがないようにしてくださいます。
モーセの律法の成就
そして、救い主であるイエスさまは、モーセの律法も成就します。「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(18節)。

これはどういうことかというと、モーセの律法がユダヤ人に与えられたのには神さまの目的があって、それがすべて達成されるという意味です。

律法の目的

では、神さまがモーセの律法をユダヤ人に与えた目的とは何でしょう。3つ挙げましょう。
(1) ユダヤ人をユニークな存在とする
モーセの律法に基づく生活、たとえば様々な食事規定や、裾の四隅に房をつけた服や、剃らないひげや、7日ごとに全国一斉に休息することや、様々な変わった儀式などは、ユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の民族)とが決定的に違う存在なのだということを、視覚的に訴えます。

ユダヤ人には、自分たちだけが神さまに祝福されるのではなく、他の民族にもまことの神さまを紹介し、救いに導き、神さまからの祝福が受けられるようにするという使命が与えられています。

伝道のスタートは違いを示すことですから、異邦人にユダヤ人の変わった生活スタイルを見せることは、ユダヤ人という民族に興味を持ってもらい、さらにはそのユダヤ人が信じている神さまに興味を持ってもらうきっかけとなります。
(2) ユダヤ人を異教徒から遠ざける
この時代の異邦人が、まことの神さまからの祝福を味わいたいと思うなら、、偶像の神から離れてイスラエルの神を信じるだけでなく、割礼を受け、モーセの律法に従うことを誓約して、ユダヤ人のような生活をしなければなりませんでした。すなわち、ユダヤ人にならなければならなかったのです。

その結果、ユダヤ人は異教徒と分離することになり、異教や偶像礼拝の影響を免れます。 異教徒にまことの神さまを伝えるはずのユダヤ人が、異教の影響を受けてしまっては大変ですから。
(3) キリストによる救いに導く
後で見ていきますが、モーセの律法を完璧に守ることなど、人間には不可能です。そこで、失敗した人のために、神さまはモーセの律法の中に、血の犠牲の制度を用意なさいました。すなわち、動物を殺して血を祭壇に注ぐことで、その人の罪が赦され、再び神さまに近づくことができるようになるという制度です。

このことは、ユダヤ人に、「人間の行ないの正しさによって神さまに受け入れられるのは不可能であり、ただ神さまの恵み、すなわち一方的な赦しによってのみ救われるのだ」ということを教えます。

そして、やがて救い主が現れ、完全な犠牲としてご自分の血をささげたとき、恵みによらなければ救われないということを知っているユダヤ人は、この方を信じて人生をお任せすることでしょう。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラテヤ3:14)。

律法の救い主的解釈

さて、ここで、律法とは何かということを考えてみましょう。律法というと、通常はモーセの律法のことを指しますが、聖書の中には他にも様々な律法が記されています。律法とは、神さまを信じて救われた人間がどのように生きるべきかという指針、すなわち神さまが人間に示された命令のことです。

そして、時代によって、神さまは違う律法を与えておられます。時代が変わると、人が守るべき指針が代わるのです。日本での歴史的節目、たとえば明治維新や太平洋戦争敗戦で、国民が守るべき法体系がガラッと変わったようなものです。

たとえば何を食べていいかという教えにだけ注目しても、
  • アダムがエデンの園にいた時代は、善悪の知識の木の実以外は、どの植物の実も食べてかまいませんでした。ただし、死のない世界ですから、肉食は当然禁止です。
  • アダムが罪を犯し、エデンの園を追放されてからノアの洪水が起こるまでの時代も、人間は植物を食べていましたが、特に禁止された植物はありません。ただし、肉食については許可されないままです。
  • ノアの洪水以降は、肉食が許可されました。しかも、どんな動物の肉でも食べてかまいません。ただし、血がついたまま食べるのは禁止です。血を抜いて、煮たり焼いたりするということですね。
  • ユダヤ人に関しては、出エジプト後にモーセの律法によって様々な食物規定が与えられ、獣なら反芻してひづめが割れているもの(牛や羊など)、鳥なら猛禽類などいくつかの種類のもの以外、虫はバッタの仲間だけ、水生生物はうろことえらがあるものだけとなりました。なお、異邦人は、モーセの律法に縛られていませんので、引き続き何を食べてもOKでした。
  • 教会時代(すなわち今の時代)になると、何でも食べてよくなりました。ただし、聖霊の宮である体の健康を害するものは避けなければなりませんし、それを飲み食いすることで他の人の霊的成長を邪魔する恐れがあるなら、控えなければなりません。
イエスさまが今回の話をなさった時点では、まだモーセの律法の目的は完全には果たされていません。まだイエスさまが十字架にかかっていないからです。ですから、山上の説教が語られた時点では、モーセの律法は有効でした。

そこで、イエスさまはおっしゃいました。「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」(19節)。
律法学者やパリサイ人
そして、20節に律法学者とパリサイ人のことが触れられています。律法学者は、モーセの律法を研究し、それを民衆に教えた人たちです。パリサイ人は、ユダヤ教の中のパリサイ派に属する人という意味で、律法学者のほとんどがパリサイ派でした。

彼らは、モーセの律法を大切にしていると言いながら、聖書には書かれていない様々な規則を作り上げていきました。
  • たとえば、モーセの律法には、安息日に働いてはいけないという命令がありますが、律法学者たちは何が禁じられている労働に当たるのかを議論し、最終的に1500もの「してはいけないことリスト」が作られました。
このような規則を、聖書は「言い伝え」と呼んでいます。彼らは、言い伝えを重視するあまり、実質的にはモーセの律法をないがしろにしていました。マルコ7:9-13には、その一つの例が挙げられています。

「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです」。

そこで、イエスさまは人々におっしゃいました。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(20節)。

山上の説教は、イエスさまがモーセの律法に代わる新しい律法を語られたのではなく、パリサイ人たちの律法解釈を否定して、神さまが意図された意味を教えるために語られました。21節以降、「昔の人々に、○○と言われたのをあなた方は聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」という形がたくさん続いていることからも、それが分かります。
内面の重視
これらの解釈の中で、イエスさまは聖書の教えをただ表面的に守っていればいいのではなく、心も問題にされるとおっしゃいました。たとえ人を殺さなくても、心の中で憎しみを持てば殺人と同じ。実際に不倫をしなくても、心の中で情欲を持てば不倫と同じ。さらに、復讐心を捨て、敵のために祝福を祈りなさい。人にほめてもらうために祈ったり施しをしたり断食したりしてはいけない、などなど。

それにしても、こんな基準で裁かれたら、先ほども申し上げたとおり、誰もモーセの律法を守り切ることができる人はいません。真剣にモーセの律法に向き合った人は、自分が神さまから一方的に赦され、愛され、受け入れられているのだというところに、希望を持たざるを得ません。そして、イエスさまを、人間の罪を赦すために来られた救い主として喜んで歓迎することでしょう。それが、今回の箇所でイエスさまが教えたかったことです。

では、現代の私たちは、今回の箇所をどのように生活に適用すればいいのでしょうか。

2.私たちとモーセの律法

時代が変わった

先ほど申し上げたとおり、神さまは時代によって信者が生きる指針、律法を変化させておられます。福音書の時代には、まだモーセの律法が有効でしたが、イエスさまが十字架にかかって血を流されたとき、すなわち完全な血の犠牲がささげられたとき、モーセの律法の目的は完成し、役割を終えました。

モーセの律法が有効な時代には、ユダヤ人ではない異邦人が神さまによって罪を赦されて救われ、神さまを礼拝し、神さまに祈り、神さまから様々な祝福をいただきたいと思うなら、男性は割礼を受け、モーセの律法に従って生きることを誓い、以後はユダヤ人として生きなければなりませんでした。

しかし、イエスさまの十字架によって、モーセの律法は終わりました。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4)。今の時代の私たちは、イエスさまが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したと信じることによって、罪を赦され、神の子どもとされ、神さまとの平和な愛の関係を持つことができます(第1コリント15:1-8)。

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キリストの律法
では、今の時代に救われた私たちは、その後どんな律法に従って生きていけばいいのでしょうか。それは「キリストの律法」と呼ばれています(第1コリント9:21、ガラテヤ6:2)。具体的には、新約聖書に書かれている使徒たちの教えです。あるいは、福音書の中で、イエスさまが(当時の人たちにではなく)教会時代の弟子たちに向けて命じておられることです。

モーセの律法が終わったからといって、私たちクリスチャンは平気で偶像礼拝をしたり、殺したり、姦淫したり、盗んだりしません。それは、キリストの律法でもそれらが禁止されているからです。

当然、モーセの律法とは違った教えもあります。
  • キリストの律法には、収入の十分の一をささげるようにという教えはありません。あるのは喜んでささげなさいという教えです。
  • モーセの律法は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいと教えましたが、キリストの律法ではイエスさまが私たちを愛されたように愛しなさいと教えます。

神は心を見る

イエスさまは、モーセの律法の解説の中で、人間の内面を問題になさいました。どの時代であっても、神さまは私たちの表に現れた行動だけでなく、その行動を生み出す心をご覧になります。その心とは何か。それは神さまへの愛です。

アダムの時代から様々な律法が人間に与えられましたが、それらはすべて救いの条件ではありません。神さまの恵みによって一方的に赦され、受け入れられ、愛された人たちが、神さまへの感謝や感動に満たされ、神さまが悲しまれるような生き方ではなく、喜んでいただけるような生活がしたいと考えます。そして、守ろうとしたのがその時代その時代に与えられた律法です。モーセの律法の場合もそうですし、私たちに与えられているキリストの律法もそうです。

律法を守らなければ神さまに愛されないと思う人にとって、聖書の教え、律法は重荷です。しかし、すでに救われ愛されているということへの感謝、約束されていることの大きさへの感動がある人にとって、律法は喜びです。

聖書を読むとき、私たちが何をしなければならないか、何を捨てなければならないかという視点で読むのはもちろんですが、それ以上に、どれだけ自分が神さまに愛されいるのか、そして救われた自分にどんな素晴らしい約束が与えられているのか、すなわち私たちの父である神さまが、私たちにとってどんな素晴らしいお方なのかという視点で読むことも忘れないようにしましょう。

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まとめ

救い主としてこられたイエスさまは、十字架によってモーセの律法の目的を果たされました。すでに救われ、考えられない祝福の中に生かされていることに感動し、感謝しながら、イエスさまが与えてくださったキリストの律法を学び、それを実践していきましょう。

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