誓ってはいけない

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マタイによる福音書5章33節〜37節

(2017.10.8)

参考資料

33節の言葉は、「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ19:12)や、「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない」(民数記30:2)などが背景になっています。

聖書からのメッセージ

イントロ

前回申し上げたように、山上の説教(山上の垂訓)は、当時のユダヤ人に与えられていたモーセの律法の意味を、救い主であるイエスさまが解説なさっているところです。モーセの律法はすでに完了しましたから、その命令を今の私たちクリスチャンが文字通り守る必要はなくなりましたが、イエスさまの解説から、現代にも通じる原則を学ぶことができます。

今回のテーマは、誓いについてです。ここから、私たちが他の人と信頼関係を作り上げていくための原則を学びましょう。

1.大切なのは信用

誓うなという命令

私は結婚式場でチャプレンをしていますが、教会式の結婚式の中心は、新郎新婦による誓約です。他にも、就職の時には誓約書を提出しますし、裁判やスポーツ大会などでは宣誓をします。「来月かならず返すから、3万円貸して」とか「もう絶対にしないから、赦して」とかいうのも、一種の誓いですね。こうして、私たちは様々な場面で誓いをします。ところが、イエスさまは誓ってはいけないとおっしゃいます。これはどういうことでしょう。

これは、文字通りまったく誓約や宣誓をしてはいけないということではありません。もしそうなら、29-30節も文字通り守らないといけなくなります。イエスさまは、情欲を持って女性を見ただけで姦淫を犯したのだとおっしゃった後で、こうおっしゃいました。

「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです」。

これは、本当に体の一部を傷つけることを勧めているのではなく、それくらい神さまは「義」「きよさ」ということを大切に考えておられるということを教えているのです。

では、イエスさまが誓うなとおっしゃったのはどういうわけでしょうか。それを考えるために、どうして私たちが誓うのかということから考えてみましょう。

どうして誓うのか

私たちはなぜ誓うのでしょうか。それは、相手に自分を信用してもらいたいからです。

この世は、信用、信頼関係で成り立っています。たとえば、
  • 商売では、「この店は、決して客に不利益になるような商品を売りつけたりしない」と信じてもらっているからこそ、お客さんに来てもらうことができます。
  • 親子でも夫婦でも友人でも、「この人は自分の幸せを願い、自分の幸せのために一肌脱いでくれる人だ」と信じているからこそ、つきあうことができます。
  • 皆さんが、この教会にいらっしゃったのも、ここの牧師はマインドコントロールを施して、法外な献金をぼったくったりしないと信じてくださったからでしょう?

信用があれば誓う必要がない

ところが、イエスさまは誓うなと言いました。それは、こういうことです。この人は信用できないなと思っている人に、いくら「イエスさまにかけて誓う」なんて約束されても、それを信じる気にはなれませんね。また、この人は絶対に約束を守ってくれる人だと信じていれば、その人が長々と誓いの言葉を並べ立てなくても、「やりますよ」の一言で信じられるでしょう。

だから、イエスさまは、「はい、やります」「いいえ、やりません」というふうに答えるだけでいいとおっしゃいました(37節)。元々信用のある人は、それで事足ります。

自己宣言としての誓い、すなわち自分自身の気持ちを引き締めるための誓いなら意味がありますが、相手に信じてもらうための誓いは、実は意味がないのです。誓ったからといって、信用度が上がるわけでも、誓わなかったからといって信用度が下がるわけでもありません。信用度は、すでに決まっているのです。

もしも、信じてもらえないとすれば、誓うというやり方ではなく、新たに信用を獲得するために、より効果的な方法をとらなければなりません。それは何でしょうか。

2.信用を生む行動をしよう

なぜ人を信用できるか

私たちは、人の行動を見て、その人を信用するかどうかを決めます。

なぜオオカミ少年は、オオカミが来たと叫んでも、誰にも信じてもらえず、オオカミに襲われる羽目に陥ったのでしょうか。それは、彼が嘘ばかりついていたので、今度もどうせ嘘だと思われたからです。

信用される人は、普段から信用されるだけの行動をしています。他人をだまして利益を得ようとしたり、裏切ったりしないで、誠実に行動します。自己中心的な言動をせず、周りの人たちの幸せにつながる行動をします。だから、信用されるのです。

信用は、普段の行動が生み出します。わざわざ神さまのお名前を持ち出して誓う必要はありません。普段は人の信用を失うような言動を繰り返しておいて、ここぞという時に信用されるために神さまのお名前を出すのは、自分のために神さまを道具として利用することです。モーセの律法は「みだりに主の御名を唱えてはいけない」と戒めていますが、それも、今回のイエスさまの命令と同じ趣旨です。

私たちの普段の行動を再点検してみましょう。ここぞというときに人に信用され、信頼されるような行動をしていたでしょうか。

人間不信の人に対しても

ただ、信用されないのは、必ずしもこちらの責任ばかりではありません。あなたは別にその人のことを裏切ったことがなくても、もしかしたら、その人は過去に大切な人から裏切られた経験があるかもしれません。親子関係が悲しいものだったとか、親友や恋人にひどい仕打ちをされたとか。

そうすると、その人は、人間というものに対して懐疑的になるかもしれません。その結果、、あなたはその人を裏切ったことがなくても、その人はあなたのことも信じてくれないかもしれません。

そんなときでも、その人の信用を獲得するのは行動です。相手の素晴らしさ、相手の可能性を信じ、相手の幸せを願い、相手の幸せのために一貫して行動するのです。

あるタクシー会社に、気むずかしい整備士がいました。態度がぶっきらぼうで、いつも陰気な顔つきなので、友だちもおらず、彼がいることで職場全体が嫌な雰囲気になってしまっていました。そこで、人事課長が社長室にやってきて、あの整備士をクビにすべきだと進言しました。

すると、クリスチャンである社長はこう言いました。「私はあの人をクビにはしたくないな。気むずかしいかもしれないが、整備士としての腕はぴかいちだ。これまで、彼が整備して問題が起きた車は一台もないよ」。

翌日、人事課長はその整備士を呼んで、社長の言葉をそのまま伝えました。すると、整備士の目に涙があふれてきました。以来、この整備士はすっかり変わりました。態度も良くなり、楽しそうに口笛を吹きながら仕事をするようになりました。当然、同僚たちも次第に彼と打ち解けるようになり、会社の人気者になっていったのです。

信用回復も行動から

もちろん、私たちは神さまではありませんから、不完全です。ついつい約束を果たせなかったり、人を傷つけるようなことを言ってしまったり、周りに迷惑をかけるような行動をとったりすることもあるでしょう。

そんなとき、言い訳を並べ立てたり、ごまかそうとしたりすると、かえって相手の怒りに油を注ぐことにもなりかねません。素直に自分の過ちを認め、謝罪し、できる限り償いをしたり、改めて望ましい行動をとろうとしたりしましょう。そうすれば、また信用してもらえるようになるでしょう。

誓うなとイエスさまはおっしゃいました。それは、「言葉じゃないよ、行動だよ」という厳しい戒めです。と同時に、イエスさまの優しさでもあります。私たちは、神さまにかけて誓っても、その誓いを守りきることができないことがあります。私たちはそんな不完全で弱い存在ですが、それをイエスさまは責めることなく受け入れてくださっています。

イエスさまは、不完全で弱く、罪深い私たちの身代わりに、十字架で死んで罰を受けてくださいました。そして、復活し、今は、父なる神さまが私たちを赦し、祝福し、幸せにしてくださるように、取りなしてくださっています。

十字架は、失敗した私たちに、再チャレンジの機会を与えます。何度失敗しても、「もう一度やってごらん」と。

私もあなたも、人の信用を損ねるようなことをしてしまうかもしれません。しかし、イエスさまはそんな私たちをダメな奴だと見捨てたりなさいません。信用回復のために、最初からやってごらんと励ましてくださいます。また、聖霊さまの助けによって、私たちを内側から造り変え、誠実な生き方ができるようにしてくださいます。

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まとめ

ここぞというときに信じてもらえるように、普段から誠実な生き方を心がけましょう。失敗しても、再び誠実な生き方を始めましょう。何度でも、何度でも。

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