狭い門から入りなさい

トップページ聖書のメッセージ集2017年 > このページ


マタイによる福音書7章13節〜29節

(2017.11.12)

参考資料

29節に「律法学者たちのようではなく」とありますが、この当時の律法学者(聖書の学者)たちの教え方は、「○○先生はこう言った。また△△先生によればこうである」というように、昔の学者たちによる伝統的な解釈を繰り返すような教え方でした。これに対してイエスさまは、「〜しなさい」「この箇所の意味は〜だ」というふうに、はっきりと宣言なさいました。

聖書からのメッセージ

イントロ

受験生は間もなく追い込みに入る頃ですね。「狭い門」という言葉は、よく難しい受験先のたとえとして使われます。この場合、みんなが入りたいと思うから、競争が激しくて、なかなか入れないという意味です。しかし、本来イエスさまが用いた「狭い門」は全く逆で、ほとんどの人が入ろうとしない門のことです。このたとえから、イエスさまは、私たちにどんな励ましを語っておられるのでしょうか。

1.狭い門から入りなさい

神の国の門

山上の説教の目的は、当時ユダヤの民衆を教えていた律法学者たちの聖書解釈を否定して、救い主としての正しい聖書解釈を伝えることでした。このまとめの部分では、イエスさまはご自分の教えと律法学者たちの教えを「狭い門と広い門」というたとえで表現なさっています。

この言葉を理解するためには、旧約聖書が約束している救いの計画、特に救い主と神の国に関する約束を知っていなければなりません。
救い主と神の国の約束
アダムが罪を犯して以来、人は罪ある者となり、神さまとの親しい関係が損なわれてしまいました。そして、その結果、人もこの宇宙も呪われてしまい、人は本来与えられていた様々な祝福を味わうことができなくなってしまいました。

ところが、神さまは人を罪の故に滅ぼすことを望まれませんでした。そして、「女の子孫」と呼ばれる人物によって罪の問題を解決すると約束してくださいました(創世記3:15)。

やがてこの「女の子孫」は、ヘブル語でメシヤと呼ばれるようになります。ギリシャ語ではキリストです(いずれも「油を注がれた人」という意味です)。日本語では救い主と訳されます。

神さまは、その後長い時間をかけ、多くの預言者たちによって、この救い主についての情報を明らかにしていかれました。それによると、救い主はダビデ王の子孫として生まれ、イスラエルの王になります。そして、イスラエルの敵を滅ぼして、平和をもたらし、エデンの園のような理想的な王国を地上に作ってくださいます。これが福音書でたびたび言及されている神の国(マタイの福音書では天の御国)です。

ユダヤ人たちは、代々救い主の登場と、神の国の実現を待ち望んできました。特にイエスさまの時代は、ローマ帝国によってイスラエルが占領されていましたから、救い主と神の国待望の思いは最高潮に達していました。

今回のたとえに出てくる門は、この神の国に入るための門のことです。いったい、どういう人たちが神の国に招かれ、そこで神さまが約束なさった祝福をいただくことができるのか、ということですね。
広い門と狭い門
イエスさまは、律法学者たちの教えを広い門にたとえました。律法学者たちの教えによれば、「肉体的にユダヤ人として生まれたら、全員神の国に入ることができる」というくらいの広さです。

しかし、それに対してイエスさまは、門はもっと狭いとおっしゃいました。ユダヤ人として生まれただけでは、神の国に入ることはできないということです。では、狭い門をくぐって神の国に入れるのはどういう人たちでしょう。「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(21節)。

結果が明らかになるとき

そしてイエスさまは、ご自身が教えている狭い門のことを「いのちに至る門」、律法学者たちが教えていた広い門のことを「滅びに至る門」と呼びました。神の国に入れる者はいのちを味わい、入れてもらえなかった者は滅びるということです。

ここには中間の状態はありません。いのちか、滅びかという二者択一です。神の国に入れなかったら、大変なことになります。そして、その違いが明らかになるのは、今ではありません。将来、実際に神の国が実現した時です。

それを表すのに、イエスさまは砂地と岩地に家を建てた人たちのたとえを話されました(24〜27節)。どちらの人もイエスさまの言葉を聞きました。違いは、それを実際に行なうか行なわないかです。聞いて行なう人は、岩地に家を建てた賢い人、聞いても行なわない人は、砂地に家を建てた愚かな人です。

このたとえに出てくる砂地とは、中東やアフリカの乾燥地帯にある涸れ川(ワジ)のことです。普段は水が流れておらず、ただの砂地にしか見えません。平らだし地面が柔らかいので土台工事がしやすく、家を建てたくなります。ところが、上流で豪雨が降った場合には下流ではそれが分からず、突然鉄砲水が押し寄せてきます。そのパワーは、現代の重戦車もひっくり返されるほどです。

このように、狭い門を目指すか、広い門を目指すかというのは、将来大変な違いを生み出します。ですから、イエスさまは訴えます。今まだ安全なこの時に、将来神の国に入ることができるよう、狭い門をくぐりなさい、すなわち、イエスさまの言葉を聞いてそれを実行し、神さまのみこころを行ないなさいと。

聞いて驚いて、それから

山上の説教を聞いた人々は驚きました。「というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(29節)。権威ある者のようにとは、神さまのようにという意味です。モーセの律法は神さまがイスラエルに与えた神のことばですが、イエスさまはまるで律法をご自身が授けたかのように解説し、「こうしなさい」と命じたということです。

イエスさまは、神が人となられたお方、救い主です。ですから、このような権威ある教え方をすることができました。

人々は驚きました。そして、選択を迫られました。この方を約束の救い主、神の国の王になられるお方だと信じ、受け入れるのか。それとも拒否するのか。

もし、イエスさまを救い主だと信じるなら、その言葉を聞いたときに、たとえ失敗しながらであったとしても、一生懸命実践しようと努力するでしょう。しかし、イエスさまを救い主と信じなければ、その言葉を聞いても真剣に実践しようとはしないでしょう。

この後、イエスさまの教えや行ないを見聞きしたユダヤの人々には、いつも2つの選択肢が突きつけられます。イエスさまを救い主として信じ、狭い門を通過して神の国に入り、いのちを味わうか、それとも救い主と信じないで、広い門の方を選び、滅びに至るか。

ところで、新約聖書は、「人が救われるのは、行ないによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰による」と教えています(ガラテヤ2:16など)。しかし、今日の箇所で、イエスさまは行ないを強調しておられます。これは矛盾しないのでしょうか。イエスさまはなぜ、行ないを強調なさったのでしょうか。それを後半で考えてみましょう。

2.行ないが強調されたわけ

行ないによる救いを否定するため

15-23節に「人は実によって見分けられる」ということが言われています。実とは、ここでは行ないのことです。そして、良い実を結ばない木、すなわち良い行ないができない人は焼かれてしまうと。なんだか読むのが恐ろしい感じがしますね。

しかし、もしこの箇所が恐ろしいと感じたなら、きっとあなたは一生懸命に正しいことをしようと努力している方だろうと思います。
モーセの律法の目的
10月1日のメッセージの中で、モーセの律法がユダヤ人に与えられた3つの目的について触れました。その一つは、「キリストによる救いに導く」というものでしたね。モーセの律法を完璧に守ることなど、人間には不可能です。そこで、失敗した人のために、神さまはモーセの律法の中に、血の犠牲の制度を用意なさいました。すなわち、動物を殺して血を祭壇に注ぐことで、その人の罪が赦され、再び神さまに近づくことができるようになるという制度です。

このことは、ユダヤ人に、「人間の行ないの正しさによって神さまに受け入れられるのは不可能であり、ただ神さまの恵み、すなわち一方的な赦しによってのみ救われるのだ」ということを教えます。

そして、やがて救い主が現れ、完全な犠牲としてご自分の血をささげたとき、恵みによらなければ救われないということを知っているユダヤ人は、この方を信じて人生をお任せすることでしょう。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラテヤ3:14)。

聖なる絶望を生むため

現代の私たちは、モーセの律法を行なう義務はありません。代わりに与えられているのがキリストの律法です。具体的には、新約聖書で使徒たちが教えていることと、イエスさまが教会時代のクリスチャンたちに向けて命じておられることです。使徒たちの教えは、イエスさまから聞いたことですから、これもまたイエスさまの命令ということになります。

イエスさまの命令それ自体はすばらしいのです。しかし、実際に実行しようとしてみると、とてもではないけれど、行ないによって神さまに認めてもらおうなどということは、不可能だと思い知らされます。旧約時代のユダヤ人同様、人が行ないによって救われることはあり得ないということを、イエスさまの命令を真剣に行なおうとする人は、心の底から理解します。これを私は「聖なる絶望」と呼んでいます。

聖なる絶望を味わった人は、罪を一方的に赦していただき、一方的なプレゼントとして神の国の市民権を与えられなければ、自分は神の国に入ることなんかできないということを理解します。そして、聖なる絶望の中で、「イエスさま、この私をあわれんでください」と呼び求めます。すると、「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われるのです」(ローマ10:13)という約束が実現します。

今の私たちには、当時のユダヤの人たちがまだ知らなかった情報が与えられています。それは、「イエスさまは、私たちの罪のために、身代わりとして罰を受け、十字架にかかって亡くなったが、3日目に復活なさった。そして、それを信じるだけで、私たちの罪は赦され、私たちは神の子とされ、神の国の市民として永遠の祝福をいただくことができる」ということです。

当時のユダヤ人たちが、イエスさまを神の国の王として受け入れるのか、受け入れないのかという選択肢が突きつけられたように、今の私たちにも選択肢が突きつけられています。イエスさまを、罪からの救い主として信じるか、信じないかということです。

私たちは信じました。その結果、すでに神の国の市民権を獲得しています。日本政府が、外国に住む日本人にも日本人としての福祉を保証しているように、まだ神の国をこの目で見ていない私たちに、神の国の王であるイエスさまは祝福を始めてくださっています。
動機の変化と神の感激
そして、行ないによって救われるわけでなく、イエスさまによる一方的な恵みによる救いを、信仰によって受け入れた人は、イエスさまの命令を行なう動機が変わります。神さまにいいところを見せて、評価してもらうためという動機から、一方的に愛し、祝福してくださっていることに対して感謝を表したいという動機に変わるのです。

そのような動機で行なう行ないをご覧になるイエスさまは、たとえそれが不完全な行ないであっても、何度も失敗したとしても、喜んでくださいます。この話をお読みください

人を成長させるため

このような新しい動機で行なわれる行ないは、私たちを人格的に成長させます。

「畳水練」という言葉があります。これは、畳の上でどんなに泳ぎ方を学んだとしても、実際に水に入らなければ水泳ができるようにはならないということです。実地訓練の大切さを教えた言葉ですね。

イエスさまの命令も、「人を呪うのではなく、赦すことが大切なんだ」とか、「生活の様々なことを心配するよりも、神の国と神の義を求めることが大事なんだ」とか、「問題にぶつかったときには、大騒ぎする前に、助けてくださることを先取り感謝することが大切だ」とかいうことを学ぶことは大切です。そして、それを生活の中で実践することで、私たちは身につけていくことができます。

私たちの性質は行動として表に現れます。人の性格というのは、人の行動のパターンに対するレッテルだとも言えます。

たとえば、嘘つきと言われる人は、別に嘘だけしか言わないわけではありません。しかし、自分に都合が悪い状況に直面すると、ついつい嘘を通という反応をしてしまいます。昔からそういう行動ばかり取っていたために、それが癖になっていて、嘘をつかなくてもいい場面、嘘をついてはいけない場面でも嘘をついてしまうのです。

どうしてそういう行動パターン、行動の癖を身につけてしまったかは、人によって違うでしょう。周りの大人たちに叱られるのが怖かったせいかもしれません。あるいは周りに嘘つきがいて、それをモデルにして身につけたのかもしれません。いずれにしても、不健全な行動は、学習の結果身につけたものです。

癖を修正するにはどうしたらいいでしょう。それは、望ましい行動を繰り返し反復して行なうことですね。だからイエスさまは、私たちが神さまの命令を学び、それを実行することを強調しておられるのです。
神の助け
もちろん、罪の性質を持った私たち人間は、どんなに努力しても罪の方向に引っ張られていきます。ですから、いくら望ましい行動を反復練習したとしても、その効果には限界があります。

しかし、イエスさまを信じたとき、私たちは罪人から神の子に生まれ変わりました。そして、聖霊なる神さまが内に住んでくださり、罪の性質を日々弱め、神の子としての性質を育ててくださることで、私たちの人格的成長を助けてくださいます。

イエスさまの命令を、普段なんでもないときから忠実に実行しましょう。それと併せて、聖霊さまの助けを祈り求めましょう。すると、実行したことが習い性となり、やがてあなたの人格そのものとなります。そして、鉄砲水のような試練や誘惑がやってきても踏みとどまることができる、強い家に成長していくことができるでしょう。

まとめ

イエスさまが私たちに何を望んでいるのかを日々学び、それを全力で実践しましょう。それが私たちの信仰生活を豊かにします。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2017 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.