いやし主イエス

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マタイによる福音書8章1節〜13節

(2017.11.26)

参考資料

2節の「ツァラアト」(別訳:重い皮膚病)は、伝染性の皮膚病(昔は「らい病」と訳されてきましたが、ハンセン氏病とは違う病気です)。モーセとその姉ミリヤム、シリアの将軍ナアマンが神さまの奇跡によっていやされた以外、この病気が治ったという記録が旧約聖書にも他のユダヤの文書にもなく、当時は救い主しかいやせない不治の病だと思われていました。家や衣服などに出るものもあり、こちらは悪性のカビだと思われます。詳しくはレビ記13-14章参照。

5節のカペナウムは、ガリラヤ湖北西岸にあった町で、今日のテル・フーム。ローマ軍の駐屯地がありました。使徒ペテロの家もここにありましたから(14節)、彼の兄弟アンデレや漁師仲間だった使徒ヨハネとヤコブもこの町の出身でしょう。

5節の「百人隊長」は、ローマ軍の百人隊(ケントゥリオ)を率いた指揮官。ローマ軍の一つの軍団は6000人の兵士からなります。百人隊長は、その中で定員100人の部隊を束ねました。前線での戦闘指揮の他、訓練、隊の秩序維持など軍団の活動の中核を担い、「ローマ軍団の背骨」と呼ばれました。

6節の「中風」とは、脳血管障害の後遺症などで、体の一部が麻痺する症状。

11-12節は、どんな民族でも、人が救われて神の国に招かれるのは、イエスさまを救い主だと信じる信仰によることを教えています。たとえ御国の子(ユダヤ人)であっても、それだけで救われるわけではありません(ユダヤ人全体が神さまに拒否されたという意味ではありません)。

聖書からのメッセージ

イントロ

イエスさまは、ツァラアト患者と百人隊長の中風のしもべを、奇跡的な力によっていやされました。この後9章まで、イエスさまが病気をいやしたり、悪霊を追い出したりするなど、様々な奇跡を行なったという記事が続きます。

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1.ツァラアト患者のいやし

遠慮がちなお願い

1-4節に登場するツァラアト(重い皮膚病)の患者は、イエスさまの前にひれ伏しました。これは礼拝するという意味です。彼は、イエスさまが人となられた神、救い主だということを信じていました。だから、救い主しか癒やせないと思われていたツァラアトをいやす力があるということも信じていました。そして、「あなたは、私をきよめることがおできになります」と、口に出して告白もしています。

しかし、ここを読むと、なんだか遠慮がちだなあと思われませんか? 「もしも、あなたがそう思われるのでしたら……」だなんて。「もしも、いやだとおっしゃるなら、仕方がありませんが……」というふうにも聞こえる言い方です。

聖書に出てくる他の人たちは、道ばたで「あわれんでください」と叫んだり、断られても断られても、しつこく頼み続けたりしています。元々ユダヤの人たちは、私たち日本人に比べてはるかに率直な民族なのです。だから、この病人も、いやして欲しければ、「いやしてください」「きよめてください」と、もっとストレートにお願いすればいいのに。

この病人は、イエスさまに病気をいやす力があることについては信じていましたが、その力を自分のために個人的に使ってくれるかどうかについては、確信がありませんでした。力は信じていましたが、愛については確信がなかったのです。

この人がイエスさまの愛に確信を持てなかったのは、これまで世間から受けてきた仕打ちに原因があります。
聖いか聖くないかを決めるもの
その話をする前に、モーセの律法(ユダヤ人が守るように神さまから与えられた様々な命令)についてお話ししておきます。モーセの律法では、聖いものと汚れているものとが厳格に区別されていました。これは、聖いか聖くないかをお決めになるのは神さまであり、聖くないものがきよめられる方法も神さまがお決めになるということを教えるためです。決して、人間の感覚や文化や習慣や話し合いによって決められるものではないのです。

たとえば、牛や羊が聖くて食用にでき、ブタやウサギは汚れていて食用にできない理由なんて、私たちには理解できません。神さまがそうおっしゃったから、ユダヤの人々は同じように判断したのです。

今の時代の私たちは、イエス・キリストが私たちの罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえったと信じるだけで、あらゆる罪を赦されて聖められ、神さまの子どもとされ、永遠に祝福を受ける身分とされました。

そんな簡単なことで、本当に罪が赦されるのでしょうか。たとえ感覚的には納得できなくても、神さまがそうお決めになったのですから、確かに赦されます。
ツァラアトに関する規定
さて、モーセの律法によれば、ツァラアトの皮膚病にかかったかどうかを診断するのは、祭司でした。もしツァラアトだということがはっきりすると、その人は祭司によって「汚れている」と宣言されて、町の外に住むよう命じられ、礼拝などの宗教行事への参加や、他人との接触がかなり制限されました。また、着物を引き裂き、髪の毛を乱し、移動するときには口を被って、「自分は汚れた者です」と叫ばなければなりません。

これはおそらく感染拡大を防ぐための措置でもあるしょう。そして、「汚れている」という宣言も、律法でブタやウサギが汚れていると定められているのと同様で、決してその人が人間として他の人よりも劣っているというわけではありません(人はみんな、神さまの前では赦しが必要な罪人です)。

ところが、世の人々は、温かい同情やケアを必要としているツァラアト患者の人たちを、まるで神さまに呪われた極悪人であるかのように扱いました。そして、様々な差別的な扱いをし、石を投げつけて町から追い出しました。家族からさえも見放される人が多かったのです。

そういう苦い経験を、いやと言うほど味わわされてきたこの病人は、イエスさまが自分をあわれんでくださると、100%確信することができなかったのです。全面的に信じて裏切られれば傷つきます。だから彼は、「あなたがそう思われるのでしたら」というような、持って回ったような言い方をしたのでした。

触れていやしたイエス

病人の遠慮がちなお願いを聞いたイエスさまは、わざわざ彼に近づき、手を伸ばしてその体に触って、「これが私の心だよ」と言ってツァラアトをいやされました。

律法によれば、汚れていると宣言された人に触れると、触れた人も汚れてしまい、一定期間社会生活や信仰生活が制限されてしまいます。そこで、特に宗教的指導者たちは、汚れに対して非常に敏感で、ツァラアトの患者に触れることなど、考えられないことでした。

しかも、イエスさまは、本当はいやしをするのに近づいたり、触ったりする必要がありません。次に出てくる、百人隊長のしもべの場合には、何キロも離れているのに、言葉一つでいやしておられます。

それなのに、なぜイエスさまは病人に触れたのでしょうか。それは、「私はあなたを汚いとか、ダメな奴だとは思わない。大切な神の家族だと思っている。私に力があるということだけでなく、私があなたを愛していて、喜んであなたを幸せにしたいと思っているということも信じておくれ」ということです。

イエスさまは、この病人の体の痛みも取り除いてくださいましたが、心の痛みも取り除き、他の人の愛を信じて受け取る力を取り戻させてくださったのです。

2.百人隊長のしもべのいやし

ほめられた百人隊長

百人隊長は、しもべのいやしをイエスさまに願いましたが、わざわざ訪問していただくには及ばない。ただ「いやされよ」という言葉だけで十分だと言いました。

これを聞いたイエスさまはびっくりし、「こんな信仰の立派な人は、イスラエルの中にもいない」と、百人隊長を絶賛なさっています。

ほめられたわけ

百人隊長は、どうして「言葉だけで十分です」とイエスさまに言ったのでしょうか。彼は、自分は軍団長など上官の権威を認め、その命令に忠実に従うし、自分の部下たちは隊長である自分の権威を認め、その命令に忠実に従うと言いました(9節)。権威とは、他の人を、その人がたとえいやだと思っていたとしても動かすことができる力のことです。

この百人隊長はもちろんローマ人ですが、聖書の神さまを信じた改宗者だと思われます。ルカ7:5によると、この人はユダヤ人を愛し、カペナウムに住むユダヤ人のために会堂を建設してくれたと、カペナウムの長老たちに言われています。ですから、この百人隊長は、旧約聖書が登場を約束している救い主についても知っていたのです。

百人隊長は、イエスさまには病気や悪霊たちに言うことを聞かせる権威があるということを認めました。悪霊というのはサタンの手下となった堕落天使のことで、神さまに逆らうことを目的としています。ところが、そんな連中でさえもイエスさまの命じることを聞かざるを得ません。

すなわち、この百人隊長は、イエスさまこそこの世で最も権威ある存在、王の王、主の主、神が人となられたお方、世界の救い主だと信じていたのです。そういうお方だから、奇跡なんて難しくも何ともない、直接触る必要すらなく、遠くから命令するだけで事足りるのだと。

3.奇跡よりも大事なこと

イエスというお方との交わり

この二つのいやしの記事を通して、私たちが学ばなければならない教訓は、私たちが重視すべきなのは、奇跡そのものではなく、奇跡を行なわれるイエスさまという「お方」だということです。

私たちは、問題が起きたときに、解決を求めて祈ります。必要なら、奇跡を見せてください、というふうに。そして、奇跡が起きて、私たちの願い通りに問題が解決すれば喜び、そうでなければがっかりします。

奇跡というのは、びっくりするようなできごとですから、ついつい関心を奪われてしまいます。そして、ともすれば、奇跡を行なわれるイエスさまご自身の印象が薄らいでしまうこともあります。極端な話、奇跡を行ない、自分の願いを聞いてくれるなら、別にイエスさまじゃなくてもいい……。

神の民であるユダヤ人は、イエスさまの奇跡の力、その表面的なすごさに目を奪われていましたが、百人隊長は、もっと本質的なところに注目しました。それは、イエスさまというお方がどういう方かということでした。ただの人ではない、神さまから遣わされた救い主、王の王、主の主、ものすごい権威を持っておられるお方だと。

また、ツァラアトの病人は、イエスさまの力には注目していました。しかし、イエスさまが自分のことを愛し、大切に思ってくださっているという、その心には注目していませんでした。しかし、イエスさまは、この人と愛の交わりがしたいと思われました。だから、ただ単に病気をいやしただけでなく、ご自分がいかに彼のことを大切に思っているかを知らせたのです。

奇跡はすばらしいですが、もっと大切なのは、私たちの幸せを願って行動してくださるイエスさまご自身です。そして、イエスさまは私たちと、人格と人格の交わりをしたいと願っておられます。

人格的な交わりとは

家内がおいしい料理を作ってくれたとします。私はおいしい料理に感激します。しかし、もっと大切なことは、私を大切に思い、私のために時間と労力を使って料理してくれた家内に対して、心からの感謝の思いを伝えることではないでしょうか。

料理そのもの味が最も大切なのであれば、別に作るのは家内じゃなくていいでしょう。隣の奥さんでも、コンビニの弁当でも、レストランのデリバリーサービスでも。

人と人とが人格的に交わり、愛し合い、共に生きていくとは、どういうことでしょう。それは、物のように取り替えることが不可能だということです。あなたが会社を辞めたとしたら、あなたの仕事を別の人が代わりに行なうことはできます。しかし、誰もあなたの代わりにはなれません。あなたでなければならない、そして私でなければならない、そういう関係こそ、人格的な交わりです。

私たちはそういう関係を求めているのではないでしょうか。別に、自分じゃなくてもいい、いつでも別の人に変わってもらってもいい。そういう関係をあなたは求めますか?

イエスさまもまた、ご自分が人格として扱われ、またあなたを人格として扱いたいと思っていらっしゃいます。他の人ではなく、あなたと交わりたいのです。あなたを大切にしたいのです。あなたを幸せにしたいのです。

そして、イエスさまはあなたにも、イエスさまのことを一番にして欲しい、取り替え不可能な、大切な存在として扱って欲しいと願っています。

なぜ聖書は偶像礼拝や先祖崇拝を禁じているのでしょうか。なぜ占いやまじないや魔術を禁じているのでしょうか。それは、それらが奇跡だけを求め、神さまのご人格、決して取り替え不可能な神さまご自身の存在をないがしろにする行為だからです。

問題について祈ってもいいのです。奇跡を求めて祈ってもいいのです。しかし、いつの間にか、私たちの祈りが、問題だけに焦点が合ってしまっていませんでしたか? イエスさまとはどういうお方か、そこににもっともっと私たちの目を向けましょう。

イエスについて知れば知るほど

権威に満ちたイエスさまの命令は、病気でも悪霊でも従います。イエスさまに不可能はありません。イエスさまは、どんなに不可能に見える奇跡でも、簡単に行なうことができます。あなたはそのことを信じていらっしゃいますか?

私たちが祈るとき、イエスさまは大変な権威者だということを頭に置いて祈るべきです。私たちの小さな頭で、イエスさまの権威、イエスさまの力の大きさを値引いてしまってはなりません。

イエスさまこそ、王の王、主の主。最も権威あるお方、最も力あるお方、最も頼りになるお方。いつもそのように告白しましょう。そして、それを心から信じられるよう聖霊にお願いしましょう。

それと同時に、イエスさまは、あなたが幸せになるためだったら、必要なら奇跡を行なってでもあなたを助けてくださると信じていますか? それだけ、あなたのことを愛しておられるのだということを。

自分は、神さまに祝福されていて、地上でも天国でも幸せになることができる……そう宣言しましょう。もしも、「でも、私は他の人と違って、それほど祝福されないかもしれない」という気持ちがあるなら、それをじっくりとイエスさまに聞いていただきましょう。そしてイエスさまの愛を、もっともっと信じられるようにお願いしましょう。

まとめ

今日も、イエスさまについて教えてください。そういう祈りを意識して捧げましょう。イエスさまについて知れば知るほど、ツァラアト患者のように愛されている喜びを知ることができ、百人隊長のように大胆になることができます。

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