(2024年5月19日)
イエス・キリストの権威に関する、イエスとパリサイ人との論争について解説しています。ここからやる気の引き出し方を解説します。
礼拝メッセージ音声
参考資料
23節の「祭司長」は、祭司の中でも特に指導的立場にある人たちのことです。新約聖書では大祭司とは区別されています。当時1万数千人いたと言われる祭司は24の組に分けられていて、もしかしたら祭司長は各組の長かもしれません。
23節の長老たちは、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)のメンバーのうち、祭司以外の人たちです。パリサイ人や律法学者がこれに当たります。
25節の「ヨハネ」は、バプテスマのヨハネのこと。この時は、ヘロデ王に殺された後です。
31節の「神の国」は、救い主が現れたときに地上に実現させると預言されている理想的な王国のこと。マタイの福音書では、「天の御国」と呼ばれることもあります。また、黙示録で千年間続くと預言されているため、「千年王国」とも呼ばれています。
32節の「取税人」は、ユダヤ人の中から選ばれ、ローマ帝国から委託されて税金を取り立てた人。多くの取税人が、決められた額より多くの税金を徴収して私腹を肥やしていたため、他のユダヤ人たちからは盗人と同じ罪人として嫌われていました。
イントロダクション
やる気がどうしても湧いてこず、やらなければならないと分かっていることが始められないときがあります。あるいは、始めたはいいけれど途中でやる気が無くなってきて、やめてしまいたくなるときもあります。
今日の箇所を通して、やる気の引き出し方をイエスさまに教えていただきましょう。
1.権威論争と3つのたとえ話
指導者たちとの問答
祭司長たちの問い
(23節)それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」
イエスさまが十字架にかかられる3日前、火曜日の出来事です。祭司長は、祭司たちの中で指導的な立場に会った人たちで、長老たちはパリサイ人のうち、サンヘドリンというユダヤの最高議会のメンバーです。
その人たちがイエスさまのところに来て、「何の権威によってこれらのことをしているのか」と詰め寄りました。「これらのこと」とは、今回の箇所の前に書かれていることです。すなわち、宮きよめ(12-13節)、神殿内でいやしを行なったこと(14節)、そしてこの23節に書かれているように神殿内で教えていることです。
指導者たちからすれば、イエスさまは自分たちに対してたびたび批判的な言動をしてきた奴です。好き勝手させるわけにはいきません。そこで、「何の権威によってそんなことをしているのか」と尋ねることで、イエスさまを牽制しようとしてます。
もしもイエスさまが「神の権威によって」と答えれば、勝手に神の名を騙るなと責めることができます。また「人の権威によって」と答えればどうでしょうか。イエスさまは、正式なラビ(律法の教師)としての教育を受けていませんから、モグリの教師だと責めることができます。
イエスの反問
(24節-25節前半)イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。
ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」
質問に対して質問で返すのは、ユダヤの教師がよく行なっていた教育の手法でもありました。イエスさまもよく用いました。
イエスさまの質問は、バプテスマのヨハネは何の権威によって人々に洗礼を授けたのかということでした。これに答えたら、自分も指導者たちの質問に答えよう、と。
指導者たちの議論
(25節後半-26節)すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」
逆質問を受けた指導者たちは、どう答えるべきか話し合いました。しかし、困ってしまいます。ヨハネが神さまによって授けられた権威によって洗礼を授けたと言えば、ヨハネのことを信じないで批判したことをイエスさまに責められるでしょう。
一方、人から授けられた権威だと言えば、ヨハネのことを神が遣わした預言者だと信じている群衆に責められることになるでしょう。
イエスさまのことを罠にはめようとした指導者たちは、逆にどう答えても困ったことになる罠に追い込まれてしまいました。
両者の返答拒否
(27節)そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。
指導者たちは、返答を拒否して「分かりません」と言いました。そこでイエスさまも彼らの質問に答えることを拒否します。
ぶどう園の兄弟のたとえ
たとえ話
(28-30節)ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
イエスさまは指導者たちに向かって、3つのたとえ話を語られます。28-30節は1つめのたとえ話です。
ぶどう園を持つ農夫が、2人の息子にそれぞれぶどう園で働くよう依頼します。兄は最初「行きたくない」と答えますが、後で思い直して働きに行きました。弟はその逆で、最初は「行く」と言っておきながら結局行きませんでした。
イエスの問い
(31節前半)二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」
イエスさまは指導者たちに問いかけます。兄と弟のうち、どちらが父の願い通りに行動したかという質問です。指導者たちは兄の方だと答えますが、その通りですね。
たとえ話の適用
(31節後半-32節)イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。
イエスさまはたとえ話の適用を語られます。このたとえ話で、兄は取税人や遊女たちを指し、弟は指導者たちのことを指しています。
指導者たちは取税人や遊女たちのことを罪人と呼び、神さまに逆らう不信仰者としてさげすんでいました。しかし、取税人や遊女たちは、救い主が地上に実現する神の国に指導者たちより先に入ることができるとイエスさまはおっしゃいます。
その理由は、取税人や遊女たちはたとえ話の兄のように最初は神さまに逆らっていましたが、バプテスマのヨハネのメッセージを聞いてその内容を信じたからです。一方で、指導者たちはヨハネのメッセージを聞いても、彼が語ることを信じようとしませんでした。
ヨハネが語ったのは、3つのことです。それは、
- 救い主が間もなく現れるから、神の国の実現が近づいた。
- だから救い主が現れたとき、すぐに従うことができるよう、今までの生き方を振り返って悔い改め、正しい生き方をしなさい。
- その救い主とはイエスさまのことである。
指導者たちが罪人と呼んでさげすんだ取税人や遊女たちはこれを信じました。しかし、指導者たちは信じませんでした。実際、ヨハネが救い主だと認めたイエスさまのことを、指導者たちは「救い主ではなく悪霊の力を借りて奇跡を行なう魔術師」呼ばわりしています。
ですから神さまは取税人や遊女たちの信仰を認めて救いを与え、救い主が実現する神の国に招き入れてくださいます。指導者たちは彼らの後に神の国に入ることになるでしょう。
ただしそれは、この後指導者たちが個人的に悔い改めてイエスさまのことを救い主として信じればの話です。続く2つのたとえ話では、イエスさまは指導者たちをさらに辛辣に批判します。
2つのたとえ話
2つのたとえ話については、概略を紹介して解説します。
ひどい農夫たちのたとえ
イエスさまが語った2つめのたとえ話は、ぶどう園のオーナーが、小作の農夫たちに畑を貸し与えたという話です(33-42節)。
オーナーは小作人たちのところにしもべたちを遣わして、貸したぶどう園の小作料を払うよう言います。ところが、小作人たちは支払いを嫌がり、オーナーのしもべに暴行を加えたり殺したりしました。そこでオーナーは息子を遣わしますが、小作人たちは息子のことも殺してしまいました。
そうしたら、このオーナーは小作人たちをどんな目にあわせるだろうかとイエスさまは指導者たちに問いかけます。指導者たちは答えました。「息子やしもべたちの地の報いとして、そのひどい小作人たちを殺して復讐するでしょう。そして、ぶどう園は誠実な農夫たちに貸すことになるでしょう」と。
すると、イエスさまは次のように言い放ちます。
(43-44節)ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
2つめのたとえ話の意味
指導者たちは、イエスさまがたとえ話で語っていることに気づきました。
- たとえに出てくる畑のオーナーは神さまを指している。
- ぶどう園はイスラエルの国を指している。
- ひどい農夫たちは、自分たちのことを指している。
- そして石はがイエスさまを指している。 旧約聖書では,しばしば石が救い主の象徴として用いられていますから、イエスさまは自分のことを救い主だと宣言したのと同じです。
このことに気づいた指導者たちは、激しく怒ります。彼らは自分たちのことを神さまに忠実で信仰深い存在だと思っていましたから、神さまに拒否されて神の国に入れないなどと言われては我慢がなりません。
しかし、イエスさまのことを少なくとも預言者として尊敬している群衆の手前、手を出すことができませんでした。
神の国の実を結ぶ民とは
ところで、43節の「神の国の実を結ぶ民」とは誰のことでしょうか。ある人たちは教会のことだと言います。つまり、イスラエルは神さまに見捨てられて、教会が新しい神の民になったというわけです。しかし、この解釈は間違っています。
ひどい農夫は、福音書時代の指導者たちです。彼らはイスラエルを正しく導くことを神さまに期待されていたのに失敗し、かえってイスラエルをイエスさまに対する不信仰に陥らせました。
であれば、新しく小作人に選ばれる農夫たち、すなわち「神の国の実を結ぶ民」もイスラエルの指導者を指しています。この新しい指導者は、未来の時代、具体的にはイエスさまが再臨なさる直前の時代の指導者です。
その時代のユダヤ人たちは7年間続く大患難時代にこれまでにない迫害を経験し、最後は反キリストによって根絶やしにされそうになります。しかし、その直前、指導者たちはイエスさまこそ救い主だということに気づき、その時生き残っていたユダヤ人を国家的な悔い改めに導きます。
これが今回の箇所の後に語られる2つめのたとえ話です。
結婚披露宴を催した王のたとえ
3つめのたとえ話は、息子の結婚披露宴を催した王の話です(22:1-14)。ところが、招待客たちは誰も出席しようとしません。そこでしもべたちを使わして出席を促しますが、招待客たちはしもべたちを殺してしまいました。そこでこの王は、軍隊を送って彼らを滅ぼしてしまいました。
招待客がいなくなったため、王はしもべたちに通りに出て行って人を集めてくるよう命じました。その際、
「(しもべたちは)良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めた」と語られています。そこで、披露宴会場は人でいっぱいになりました。
このたとえ話も、滅ぼされた最初の招待客がユダヤの指導者たち、後から招かれた人たちが取税人や遊女たちを指しています。
追加のエピソード
そして、この3つめのたとえ話には、興味深いエピソードが付け加わっています。後から招かれた客の中に礼服を着ていない人がいたというのです。
急に呼ばれたのだから当たり前じゃないかと思いますが、実は当時の結婚式では、招待客の礼服は新郎側が用意することになっていました。ですから、この人は支給された礼服をあえて着ないで宴に参加したということです。
王はこの客に、どうして礼服を着ていないのかと尋ねますが、この人は何も答えません。そこで王は、この無礼な客の手足を縛り、外に放り出すようしもべたちに命じました。
招待客に支給される礼服は、神さまが一方的に与えてくださる救いを象徴しています。私たちは、「自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活した」ということを信じるだけで、本当に罪を赦され、それどころか神さまの子どもとなり、将来神の国に招かれて祝福されるという資格を手に入れました。
しかし、救いを手に入れていない人は罪が残っています。聖い神さまは罪とは相容れませんから、赦しを受け取っていない人を神の国に受け入れるわけにはいきません。3つめのたとえ話に追加されているエピソードはそのことを表しています。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.謙遜さを求めよう
恵みが必要だということを自覚する
今回の箇所で、指導者たちはイエスさまから何度もこき下ろされています。それは、彼らが頑なにイエスさまを救い主だと信じようとしなかったからです。彼らは指導者として、率先してイエスさまを信じ、そのことを民衆に伝える責任がありました。しかし、彼らは信じようとしません。
それは、彼らは自分たちが救われなければならない存在だということを信じていなかったからです。彼らは、ユダヤ人として生まれただけでその人は救われていて、神の国に入る資格を持っていると教えていました。そればかりか自分たちはきよくて正しく、宗教的な生活を送っているから、真っ先に神の国に入ると考えていました。
一方、取税人や遊女たちは、自分たちのきよさを誇ることができませんでした。彼らは、自分たちが神さまの前では罪人であり、このままでは滅びを招くと自覚していました。しかも、自分の正しさを示すことで神の国に入る資格を得ることができるとは考えていません。ですから、神さまの恵みにすがるしかありませんでした。すなわち、神さまによって一方的に罪を赦していただくしか希望がなかったのです。
だからこそ、取税人や遊女たちは、バプテスマのヨハネやイエスさまの教えを聞いたとき、すぐに信じました。
自分には神さまの恵みが必要だということを認める謙遜さを、聖霊なる神さまに求めましょう。
恵みに感謝する
以前も申し上げましたが、日本語の「ありがとう」は「有り難し」、すなわちあり得ないようなことをしていただいたという感動の言葉です。ですから、ありがとうの反対語は「当たり前」です。
しかし、当たり前だと思っていることはすべて当たり前ではありません。
私たちには、神さまのあふれる恵みが注がれています。私たちがこの地上に生を受けたのも恵み、こうして今も生かされているのも恵み、目が見えたり音が聞こえたり歩けたりすることも恵み、そして救われて将来永遠に祝福される身分が与えられたのも恵みです。
普段当たり前だと思っていること、いやそう思うことすらしないほどに当前になっていることを数え上げて、一つ一つ感謝しましょう。
あなたにとって、これまで意識していなかったけれど今気づかされた神さまの恵みは何ですか?
恵みに応答する
この話をお読みください。
「いつやるの? 今でしょ!」で有名な予備校講師、林修先生が、テレビ番組(TBSテレビ「林先生が驚く初耳学!」)の中で「教え子のやる気を引き出すために、どんなことをしているか」と質問されて、こんなことをおっしゃっていました。
「やる気がないならやめなさい、と言います。
勉強するということは贅沢なことなんだから。親が生活の面倒を見てくれて、学校に行かせてくれて、高い授業料も払ってもらえる恵まれた環境にいる。それなのにやる気が出ない。自分がいかに恵まれているかということが分からないような人間なら、勉強したって意味がない」。
もちろん、林先生は、義務教育ではない予備校の講師だからこそ「嫌ならやめろ」と言えますが、公立小中学校の先生や保護者が同じことを言うことはできません。
私が注目したポイントはそこではなく、自分は恵まれているのだと気づいていることが、いわゆるやる気スイッチなのだと、林先生は考えておられるということです。
自分が恵まれた環境にいることに気づいたら、当然、その恵みを与えてくださっている存在(親だったり、教師だったり、地域の人たちだったり、行政の人たちだったり、神だったり)に対しての感謝が生まれます。
そして、感謝は「自分が恵みを受けるのにふさわしい人間になりたい」「その人たちの期待に応えたい」という決意を生み、それがやる気を生み出します。
自分に注がれている神さまの恵みを意識し、感謝すること。それが私たちに良い行動を引き出すやる気を与えます。困難があってもなすべきことを続けていける根気を与えます。そして、良い行動によるすばらしい結果を生み出します。