本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

カエサルへの税金問題

イエス・キリストの生涯シリーズ80

マタイによる福音書22章15節〜22節

(2024年5月26日)

イエス・キリストは税金について「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」と言いました。その意味を解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

15節の「パリサイ人」は、ユダヤ教の一派であるパリサイ派に属する人。

16節の「ヘロデ党」は、かつてローマ帝国からイスラエル全土の統治を任されていたヘロデ大王の一家を支持する人たち。彼らは、ヘロデ家が再びイスラエル全土を統治できるようになることを目指していました。

17節の「カエサル」は、ローマ皇帝の称号。この時の皇帝は第2代のティベリウス。

19節の「デナリ銀貨」(デナリウス)は、ローマ帝国の通貨。1デナリは労働者1日分の給料に相当しました。

20節の「肖像」は、コインに描かれている皇帝の姿。ティベリウス期のデナリ銀貨には、表にティベリウスの横顔、裏には母リウィアの座像が刻まれていました。

20節の「銘」は、コインの発行者の名。ティベリウス期のデナリ銀貨の表には、「TI CAESAR DIVI AVG F AVGVSTVS」と刻まれていました。これはラテン語で、「神格化されたアウグストゥスの息子である皇帝ティベリウス」という意味です。裏には「PONTIF MAXIM」と刻まれ、こちらは「最高司祭」という意味で、ローマ皇帝の称号の一つです。
※表の銘は、単語の一部が省略表記されています。たとえば、TIはTIBERIUSの略。

(画像引用:Wikipedhia

イントロダクション

私たちクリスチャンは、救われて神の国の市民権を手に入れました。しかし、同時に地上の国の市民でもあり、地上で生活しています。クリスチャンとして、すなわち神の国の一員として生きることと、社会の一員として生きることのバランスをどのように考え、実践していけばいいのでしょうか。

今日はそれを教えていただいてすっきりしましょう。

1.税金論争

イエスを陥れようとする企み

パリサイ人たちの相談
(15節)そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。

前回、祭司長、律法学者、パリサイ人たちがイエスさまに難癖を付けたという話を取り上げました。いったい誰の権威で、教えたりいやしたりしているのかと問いかけたのです。しかし、イエスさまを陥れることができず、逆に自分たちの方がたとえ話で批判されてしまいます。

怒った指導者たちはイエスさまを捕らえようとしますが、この時は群衆の目を恐れてすごすごと立ち去るしかありませんでした。

そこで、パリサイ人たちはイエスさまを「ことばの罠」に掛けようとします。この「ことばの罠」は、平行記事のマルコの福音書やルカの福音書では「ことばじりをとらえる」と表現されています。

彼らの狙いについては後で詳しく解説します。
パリサイ派とヘロデ党の共闘
(16節前半)彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、

パリサイ人たちはヘロデ党の人たちと協力してイエスさまを罠に掛けようとしました。というのは、ヘロデ党の人たちもイエスさまのことを危険視していたからです。

ヘロデ党は、参考資料にも書いたとおり、ヘロデ家にイスラエル全土の統治権を取り戻す運動をしているグループです。

イエスさまが誕生した頃のイスラエルは、ヘロデ大王がローマ帝国から委託されて治めていました。ヘロデ大王が死ぬと、長男アルケラオが王に任命されて領地を引き継ぐはずでしたが、ユダヤ人の指導者たちやアルケラオの兄弟たちが皇帝に反対を表明します。アルケラオがあまりにも身勝手で残忍な性格だったからです。そこで、イスラエルはアルケラオと2人の兄弟、そして1人の姉妹の4人が分割統治することになりました。

こうしてユダヤの国主となったアルケラオは、自分が王になることを嫌ったユダヤ人の指導者たちを殺すなど非常に残酷な行動を取ったため、即位2年後に皇帝によって国主の座を追われて流刑になってしまいました。こうして、ユダヤはローマから遣わされるローマ人の総督が治めることになります。
両者の相違点
ヘロデ党の人たちは、総督によるユダヤ統治を終わらせて、イスラエル全土をヘロデ家の人物が王として治めるようになることを願っています。そのためには、皇帝の機嫌を損ねるわけにはいきません。ローマ帝国とは常に良い関係を保っていなければならないのです。

一方、パリサイ人たちはイスラエルがローマの属国になっていることそのものを嫌っていました。表立っては反抗しませんが、ローマ帝国に対しては常に苦々しい思いを抱いていたのです。そして、早く救い主が現れてローマを滅ぼしてくれればいいのにと願っていました。

ですから、本来ならパリサイ派とヘロデ党は水と油、犬と猿なのですが、イエスさまを亡き者にしたいという思いにおいては利害が一致していました。
両者の利害の一致
もしイエスさまが「自分は救い主、世界の王である」と公に宣言し、民衆を巻き込んで独立戦争を始めたらどうなるでしょうか。

ローマからの独立はパリサイ人の願うところですが、彼らはイエスさまを本当の救い主だとは信じていません。イエスの反乱は間違いなく失敗すると彼らは考えています。失敗するだけならいいのですが、ローマ軍はイスラエルの国そのものを滅ぼしてしまいかねません。パリサイ人たちはローマを憎んではいますが、国を滅ぼしたくもありません。

一方のヘロデ党も、イエスさまの反乱で皇帝の機嫌を損ねるのは、彼らの目的の達成を遠ざけてしまうためよろしくないと考えています。

こうして本来水と油だったパリサイ派とヘロデ党は、イエスさまを排除する点において一致協力することになったのです。

ことばの罠

イエスへのへつらい
(16節後半)こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。

これは本当にイエスさまのことを尊敬して語られた言葉ではなく、へつらいの言葉です。イエスさまのことを持ち上げておいて、これからする質問から逃げられないようにしているのです。
罠の問いかけ
(17節)ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」

この問いかけには罠が仕掛けられています。どちらに答えてもイエスさまにとって不都合なことになるのです。

「律法にかなっている」と答えれば、パリサイ人の弟子たちが騒ぎ始めます。そして、民衆にそのことを触れ回ります。民衆はローマ帝国が大嫌いなので、ローマ帝国を支持するような発言をしたイエスさまの人気はだだ下がりです。そうなると、ユダヤの指導者たちは民衆の目を気にせずイエスさまを捕らえることができます。

では「律法にかなっていない」と答えればどうでしょうか。その場合にはヘロデ党の人たちが騒ぎ始めます。そして、ローマ総督に対して「あのイエスという男は、ユダヤ人はローマに税金を納めてはならないなどと言っている」と訴えます。これはローマ帝国に対する反逆行為と見なされる重罪ですから、総督はイエスさまを逮捕するでしょう。

今回の問いかけには、このような罠が仕掛けられていました。

イエスの回答

悪意を見抜くイエス
(18節)イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。

イエスさまは、パリサイ派とヘロデ党の人々の企みに気づかられました。そして、彼らのことを偽善者と呼んで非難します。表面的には信仰的な内容について質問しながら、その動機が他人を陥れようという悪意に満ちたものだったからです。

イエスさまは罪人を罪人だからという理由で非難はなさいませんでしたが、偽善に関しては非常に嫌われ、また激しく非難なさいました。
デナリ銀貨を持ってこさせる
(19節)税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。

イエスさまは税として納めるお金、すなわちデナリ銀貨を持ってこさせました。
誰の肖像と銘か
(20節-21節前半) イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」彼らは「カエサルのです」と言った。

イエスさまは、税として収めるデナリ銀貨には皇帝ティベリウスの肖像と銘が刻まれているのを確認させました。

ユダヤ人がローマ帝国の通貨を使って日常生活を送っているというのは、自分たちの国がローマの属国であり、自分たちがローマ皇帝の権威の元にあることを嫌でも意識させられます。ユダヤ人にとってはしゃくの種ですが、これは否定しようがない事実でした。
イエスの命令
(21節後半)そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

Aと答えてもBと答えても罠にかかってしまう問いかけに対して、イエスさまは第3の答えをなさいました。

この答えの意味はこうです。「カエサルがこの地を治めているわけだから、国民の義務として納税しなさい。しかし、それは自分の信仰を売り渡すことではないから安心しなさい。神さまへの信仰は、『神のものを神に返す』という方法で表すことができるのだから」。

ユダヤ人にとって、ローマ帝国の支配を受けているというのは我慢のならないことでした。しかし、その一方で、ローマ帝国による恩恵も味わっていました。たとえば……
  • 通貨。ローマ帝国内なら、どこででも使えるお金があるというのはとても便利です。
  • 幹線道路。ローマ帝国は、ローマ本国と支配地域を結ぶ幹線道路を整備しました。これは軍隊を素早く移動させるためでしたが、同時に商人や旅人たちの移動も楽にしました。
  • 平和。ローマ軍が各地に駐屯しているおかげで治安が守られ、属国の人たちは平和に暮らすことができていました。
皇帝から恩恵を受けているのだから、国民として義務を果たしなさいとイエスさまはおっしゃいます。納税は国民として果たすべき義務の一つです。
立ち去る仕掛け人たち
(22節)彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

自分たちの企みが失敗したことを知った人々は、すごすごとその場を後にしました。今回もイエスさまの完全勝利です。

それではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.社会的責任と宗教的責任の両方を果たそう

カエサルのものをカエサルに返すとは

これは自分が所属しているグループの中の義務を果たすということです。

聖書は、クリスチャンの社会的責任について次のように教えています。
地上の権威に従う
(ローマ13:1)人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

権威に従うというのは、その命令を守るということです。民主的なグループの場合には、そのグループの決まり事を守るということですね。権威者やグループの他のメンバーがクリスチャンでないとしても、私たちは決まり事を守るべきです。

従う理由は、地上の権威が神さまによって定められたものだからです。無政府状態の国や地域に住む人々は、いつ傷つけられたり殺されたりするか、いつ持ち物を奪われるか分からず安心して暮らすことができません。神さまは人間が安心して暮らせるよう、地上の権威をお認めになっています。
優先順位
ただし、地上の権威と神さまの権威がぶつかった場合には、私たちは神さまの方を選ばなければなりません。

イエスさまが天にお帰りになり、聖霊さまに満たされた使徒たちは、大胆に伝道をし始めました。それを苦々しく思ったユダヤの指導者たちは、「イエスが救い主だなどということを、今後いっさい語ったり教えたりしてはならない」と脅しました。

これは権威者の命令ですから、本当なら守らなければならないはずです。しかし、福音を宣べ伝えよというのは神さまの命令であり、地上の権威者たちの命令よりも優先されなければなりません。

ですから、使徒たちは言い返しました。(使徒行伝5:29)神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。

結果的に、使徒たちのほとんどは殉教の死を遂げることになります。唯一長生きしたヨハネも、島流しに遭うなど迫害に苦しみました。それでも彼らは命がけで神さまの命令を守り続けました。

ただしその場合でも、殺人や放火や盗みなど、法律に反するやり方は選びませんでした。そのような行動は神さまのみこころに反しているからです。
究極の選択時以外は
神か人かという究極の選択の場合には、迷わず神さまの命令の方を選ぶ勇気が私たちにも与えられますように。

しかし、究極の選択の時以外では、私たちは良き社会人、それどころか最高の社会人として生活しなければなりません。
この話をお読みください。
2世紀末か3世紀初めに書かれたと見られる手紙が発見されました。「ディオグネトスへの手紙」と呼ばれるこの手紙は、ローマ帝国の中でクリスチャンへの迫害や誤解が広まっている現状に対して、クリスチャンの立場からその信仰と実践を紹介するために書かれたものです。

そして、この手紙の中に、クリスチャンの社会生活について次のような文章が載せられています。

キリスト者は、国籍、言語、習慣などが、他の人と違うわけではない。自分たちだけの町に住むわけではないし、奇妙な言語を用いるわけでもないし、特殊な生活様式を持つわけでもない。(中略)

彼らは、機会があればギリシアや外国の諸都市に住んだ。衣服、食べ物、その他の生活面でその土地の習慣に従った。しかし、同時に彼らは、彼らの素晴らしい、また独特の国籍をも我々に示している。

自分の生まれた国に住む場合でも、異国人のように生活した。国民としてすべてのことを他人と分かち合ったが、異国人としてすべてを忍んだ。外国も彼らにとっては生まれ故郷であり、生まれ故郷はまた外国だった。

他の人々と同様に結婚し、子どもを産んだが、いらない子を殺すようなことはしなかった。食卓は他人と共にしたが、寝床までも共にしようとはしなかった。この世では「肉に」あったが、「肉に従って」生きようとはしなかった。この世では旅人であり、国籍は天にあった。法律には従ったが、それぞれの生活は法律を超越したものだった」。


内村鑑三は、「私は二つのJを愛する」と言いました。それはJesus(イエス)とJapan(日本)です。クリスチャンは二重国籍を持っています。よき天国市民であると同時に、よき日本国民でありたいものです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

神のものとは

では神のものとは、何でしょうか。それは、あなた自身のことです。

私たちは、神さまによって、造られました。そして、私やあなたが持っているもので、神さまによって造られなかったものは何もありません。だから、あなたのいのちも、あなたの持っているものも、すべて「神のもの」なのです。
肖像
カエサルが統治するローマ帝国のコインには、カエサルの肖像(イメージ)が刻み込まれていて、これがカエサルのものであることを主張しています。

それと同じように、私たちは、ただ神さまによって造られただけでなく、神さまのかたち(イメージ)に造られています。(創世記1:27)神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

神さまは決して間違いを犯しません。ですから、あなたはすばらしい神さまの作品です。まして、あなたは神さまに似せて造られています。だから、他の人やあなた自身がどう評価しようとも、あなたはすばらしい存在なのです。あなたが神のものだというのはそういうことです。
また、ローマ帝国のコインには、カエサルの名が刻まれていて、これがカエサルのものであることを主張しています。

それと同様に、私たちには神さまの名が刻まれています。(黙示録22:3-4)もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。

そして、クリスチャンという呼び名の中にも、キリストの名が含まれています。元々クリスチャンという呼び名は、「キリストにつく者」「キリスト主義者」という意味のあだ名でした。ですから、私たちは神さまのものです。
あがない
さらに聖書は、私たちがイエス・キリストによって救われたと教えています。そして、その救いのことを「あがない」と表現しています。あがないとは「買い戻す」という意味です。

私たちは神さまによって造られたものですが、神さまの元を離れてしまいました。私たちは心のどこかで、「神なんかいらない。私は自分の好き勝手に考え、感じ、行動したい」と思っています。この自己中心を聖書は罪と呼びます。

罪の結果、私たち人間は神さまから切り離されてしまいました。そしてその結果、神さまが元々人間に与えようとなさっていたさまざまな祝福から遠ざかってしまいました。神さまから見れば、私たちは失われた宝物、家からいなくなってしまった子どものようなものです。
しかし神さまは、私たちを愛しておられるので、私たちが失われたままであることに耐えられず、私たちを買い戻してくださいました。私たちを買い戻すために、神さまはイエス・キリストの尊い命を代価として支払ってくださいました。

そして、私たちが「私のこの罪を赦すためにイエスさまは十字架にかけられた。そして死んで葬られ、3日目に復活なさった」と信じるだけで、私たちの罪は本当に赦され、それどころか神さまの子どもとされ、神さまが用意してくださるあらゆる祝福を永遠にいただくことができるようになります。

あなたは神さまに買い戻されました。だからあなたは神さまのものです。そして、神さまは、あなたに、イエスさまのいのちを支払っても惜しくないほどの価値があると考えておられるということです。あなたは神のものであって、神さまが最高の価値を見出した宝物です。あなたが神のものだというのは、そういう意味です。

神に返すとは

神のために生きる
私が大学4年生の時、教会に来た宣教師がメッセージでこう語りました。「あなたが医者になるとしても、政治家になるとしても、教師になるとしても、牧師になるとしても、宣教師になるとしても、会社員になるとしても、専業主婦になるとしても、神さまのためにその仕事に就き、生きるのでなければ、何の価値もありません」。

当時、教師になることが決まっていた私は、改めて自分の人生の目的を見つめ直しました。その結果、私は牧師になることを決意しました。

しかし、イエスさまがおっしゃる「神のものは神に返せ」というのは、必ずしもフルタイムの伝道者になれという意味ではありません。神のものとはあなた自身ことです。あなたのいのち、能力、時間、知恵、体力、お金、仕事……あなたの持っているすべてのものです。それを神さまに返しなさいというのは、神さまのためにあなたの持っているすべてのものを使いなさいという意味です。

では、神のために生きるとはどういうことでしょうか。
神の栄光を現す
(第1コリント10:31)「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と、聖書は教えています。神のために生きるとは、神の栄光を現すということです。

神の栄光を現すとは、「神さまのすばらしさが、自分にも他の人にも、もっともっと分かるようにすること」です。

あなたが何かをする、本を読むとか、ご飯を食べるとか、話をするとか、何かを買うとか、何でもいいですが、何かをしたときに、自分自身や周りの人が「神さまってすごいなあ」「神さまってすばらしいなあ」「神さまって、愛にあふれたお方だなあ」「もっと神さまのことを知りたいなあ」と思うようになるということですね。そういう行動を選びなさいと、聖書は教えています。

では、神さまの栄光を現わすとは具体的にどういう行動をすることでしょうか。
自分や他人を大切にする
先ほど、私たちは神さまのすばらしい作品であり、イエスさまのいのちと引き替えにあがなわれたすばらしい価値のある存在だということを学びました。

私たちを造ってくださり、あがなってくださる神さまのすばらしさを、自分や他の人に明らかにするにはどうしたらいいでしょうか。それは、自分が神さまに造られ、愛されていることを認め、喜び、神さまが自分を大切にしてくださっているように、自分自身を大切にすることです。

また、他の人も神さまの作品であり、神さまが代価を払って買い戻された大切な宝物なんだということを認めて、それをその人に伝え、その人のことを宝物のように扱うことです。

神さまが自分や他の人を大切にしてくださっているのだということを自分や相手に伝え、また自分も自分自身や他の人を大切にする。それをあなたの持っているもの、あなたにできることで実行すること。それが、神のものを神に返す、神の栄光のために生きるということです。

他の人と比較する必要はありません。あなたにできることから始めましょう。
あるおばあさんは、以前は不平不満が多く、いつも愚痴や他の人の悪口を言っていました。しかし、クリスチャンになって数年たつうちに、すっかり人が変わったようになり、口を開くと、神さまや人に対して「ありがとさん」というふうに感謝の言葉が出てくるようになりました。

ご家族も茶飲み友だちも、このおばあさんと一緒にいることが楽しく、またあこがれるようになりました。そして、おばあさんを変えた教会というところに行ってみようということで、一人また一人と礼拝式に参加するようになりました。

あなたには何ができるでしょうか。それを探して実行しましょう。そして、あなたもあなたの周りの人たちも、もっともっと神さまに感動し、感謝し、喜びや希望に満たされましょう。あなたはそのために造られ、生かされています。
ハドソン・テーラー
この話をお読みください。
19世紀に中国伝道を行なった宣教師、ハドソン・テーラーの話です。1866年5月2日、テーラー宣教師は、母国イギリスで宣教報告会を開きました。テーラー師の報告の後、恒例によって司会者が「先生の働きのために献金しましょう」と会衆に促そうとしました。

しかし、テーラー師はそれを押しとどめて言いました。「私の願いは、皆さんが神さまの働きに責任を負ってくださることです。お金を援助しようという皆さんのお気持ちは、とてもうれしく思います。けれども、私の望んでいるのは、皆さんがそれぞれの家にお帰りになった後、神さまが皆さんに何をさせようとしているか、神さまに尋ねていただくことです」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
皆さんも神さまに尋ねてみましょう。「神さま。私に今、何をお望みですか?」 そんなふうに毎日、いや一瞬一瞬尋ねながら生活しましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com