本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

復活についての問答

イエス・キリストの生涯シリーズ81

マタイによる福音書22章23節〜33節

(2024年6月2日)

死者の復活を信じないサドカイ人(ユダヤ教のサドカイ派に属する人)たちが、復活を説くイエス・キリストに議論を仕掛けた場面です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

23節の「サドカイ人」は、ユダヤ教のサドカイ派に属する人のこと。パリサイ派の教えが民衆の間に広まっていたのに対し、サドカイ派は祭司階級に広まっていました。彼らは、人が死ぬと霊魂も消滅すると信じており、復活も死後のさばきもないと教えていました。

24節は、申命記25:5-6に書かれていることです。

32節は、出エジプト記3:6-7に書かれていることです。

イントロダクション

出典は不明ですが、以前アメリカの歴史とアメリカ人の道徳性についての話を読みました。著者によると、アメリカでは何度か全国規模のリバイバル(信仰復興)が起こりました。そして、その時は多くのアメリカ人が道徳的な生活を送り、犯罪も減ったそうです。

イエスさまへの信仰に基づく生き方は、自分も周りの人も幸せにします。今日の箇所は、自分や周りの人たちを幸せにするような生き方がどのようなものか教えてくれます。

1.イエスとサドカイ人の問答

サドカイ人の質問

サドカイ人
(23節)その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

サドカイ派の人たちがイエスさまのところに来て質問しました。サドカイ派は、パリサイ派と同様ユダヤ教の一派で、死後の命を認めていません。人が死ぬとその魂も消滅すると考えていました。よって、復活もないと主張していました。一方、パリサイ派は死後のさばきや復活や永遠の祝福も信じていました。

そして、イエスさまはパリサイ人と激しく対立してはいましたが、死者の復活があるという前提で教えておられます。その点ではパリサイ派の教えに似ていたのです。そんなイエスさまに、サドカイ人たちは意地悪な質問を投げかけます。
レビラト婚
(24節)「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。

サドカイ人たちは、モーセの律法の一節を持ち出しました。兄が子どもを残さないまま亡くなった場合、弟がその未亡人をめとって子どもをもうけ、最初に産まれた男子に亡くなった兄の財産を継がせるという命令です。

これはレビラト婚と呼ばれ、世界各地で同様の制度が存在しました。

神さまがこのような命令をなさったのは、未亡人の生活を守るためです。当時は、女性が働く場所は限られていましたから、成人した息子のいない未亡人は生活に困窮しました。そこで、亡くなった夫の兄弟に未亡人を妻として扶養させたのです。

兄弟がいない場合には、近い親戚の者が代わりに未亡人を妻としました。ルツ記に出てくるボアズは、ルツの亡くなった夫の親戚で、ルツを妻として迎えてダビデ王の祖父となるオベデをもうけました。
質問
(25-28節) ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

サドカイ人たちは、7人兄弟が子どもを残さないまま次々と亡くなったという仮定の状況について語りました。そして、もし復活があるとしたら、復活後にこの女性の夫は誰になるのかと質問します。これは、死者はやがて復活すると教えていたイエスさまを困らせるための質問です。

サドカイ派は祭司たちの間に広まっていました。彼らの多くは儀式には熱心でしたが、神さまへの真実の愛を忘れていました。そして、大祭司の一族が神殿で阿漕な商売を行なうなど、現世主義・物質主義の生活を送っていました。そんな彼らの態度を、イエスさまは宮きよめを行なうなど批判しておられます。

また、イエスさまがご自分のことを救い主だと主張しておられることもサドカイ人を警戒させました。当時のイスラエルはローマ帝国の属国でした。ローマ帝国は、占領した国が従順であれば寛容な政策を採っていました。ある程度の自治を認めましたし、宗教的な自由も認めていたのです。

しかし、もしも救い主を自称するイエスさまがローマからの独立を求めて反乱を起こしたら、イスラエルの国はローマ軍によって滅ぼされてしまうでしょう。そうなると、神殿も破壊されてサドカイ人たちは祭司としての地位を失ってしまいます。

これらの理由により、サドカイ人たちはイエスさまを憎んでいたのです。そこで、復活について教えておられたイエスさまが答えられないような質問を投げかけることによって、あのイエスという男はモーセの律法について知識がないということを暴露し、よって救い主などではないということを公衆の面前で示してやろうと狙いました。

では、なぜサドカイ人たちは、この質問がイエスさまを困らせられると考えたのでしょうか。

回答が困難なポイント

死者の復活について教えている旧約聖書の箇所
旧約聖書には、死んだ人が将来復活するということを教えている箇所が3つあります。

(詩篇16:10)あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

(イザヤ26:19)あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。

(ダニエル12:2)ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

このほか、ヨブ19:25-27やエゼキエル37:1-14も復活を暗示しています。
しかし、仮にイエスさまがこれらの箇所を示したとしても、サドカイ人たちは納得しません。どうしてでしょうか。
これらの箇所を使えない理由
パリサイ人たちは、私たちクリスチャンと同様、旧約聖書39巻すべてから教理を導き出すことができると考えていました。しかし、サドカイ人たちは、教理はモーセ五書(旧約聖書の最初の5つの書)からしか導き出せないとしていました。それ以外の34巻は信仰生活の教訓を学ぶためのいわば参考書だというのです。

先ほど挙げた復活について教えている箇所は、どれもモーセ五書以外の書物の内容です。ですから、イエスさまがこれらの箇所を挙げてもサドカイ人たちは納得しません。彼らを納得させるためには、モーセ五書の中から復活の教えを導き出さなければならないのです。そして、イエスさまはまさにそれをなさいました。

イエスの返答

復活の体についての誤解
(29節)イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。

イエスさまは、サドカイ人たちが聖書を知らないと言いました。彼らは聖書を読んではいました。そして、モーセの律法に基づく儀式のやり方については精通していました。しかし、聖書を通して神さまが人間に何を伝えたいと思っておられるかを読み取ろうとしていませんでした。

また、イエスさまは、サドカイ人たちが神さまの力も知らないと言いました。彼らは、人間の常識の範囲内でしか物事を考えようとしていませんでした。

サドカイ人たちは聖書も神さまの力も知らなかったので、復活の際には今の体が再び与えられるという前提で話をしています。だからこそ、あのような質問をしたのだとイエスさまはおっしゃいます。
復活した人の特徴
(30節)復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

復活した人は、今生きている人と違って、もう結婚することはないとイエスさまはおっしゃいました。それは、復活すると今の体とは違う栄光の体が与えられるからです。

第1コリント15章には、復活と復活の体について語られています。そこには次のように書かれています。

(第1コリント15:49-50)私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

そして、いよいよイエスさまはモーセ五書の中から復活についての教えを導き出されます。
生きている者の神
(31-32節)死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

イエスさまは、モーセ五書の一つである出エジプト記の一節を引用なさいました。この言葉は、神さまがイスラエルをエジプトの圧政から解放するため、モーセをイスラエルのリーダーとして召し出された箇所に書かれています。
もしも、サドカイ人たちが信じていたとおり、人が死んだらその魂も消滅してしまうのだとしたら、モーセより何百年も前に死んだアブラハムやイサクやヤコブの魂も消滅しているはずです。

であれば、神さまはモーセに対して「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形で語りかけたはずです。「である」と現在形で語られているということは、少なくともその時点でアブラハムたちの魂が天において存在し続けていることを示しています。

そして、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」という言い回しは、アブラハム契約と関係しています。神さまがアブラハム・イサク・ヤコブと交わした契約の中に、外国で奴隷状態になっているイスラエルを神さまが約束の地に連れ戻すということが約束されているからです。

(創世記15:13-14)主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。

神さまは、この約束に基づいてイスラエルをエジプトから解放しようとなさいました。

しかし、アブラハムたちは契約のすべてを体験したわけではありません。たとえばアブラハムは広大な土地を見せられて、そこがあなたのものになると約束されました。

(創世記13:14-15)ロトがアブラムから別れて行った後、【主】はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。

具体的には、南はエジプト国境の川から北はユーフラテス川までという広大な土地です(創世記15:18)。アブラハムも、そしてアブラハム契約を継承したイサクもヤコブも、ほとんど土地を手に入れないまま死にました。

神さまがアブラハムに「あなたに」と地を与えると約束なさっている以上、子孫だけでなくアブラハム個人にも土地を与えなければならないはずです。ですから、神さまがアブラハムたちとの約束を守るためには、彼らを将来復活させなければなりません。サドカイ人たちが信じていたとおり復活がないとしたら、神さまは約束を果たさなかった嘘つきということになってしまいます。

こうして、イエスさまはモーセ五書を用いて復活を証明なさいました。
驚く人々
(33節)群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。

周りで聞いていた人々は、イエスさまの回答に驚きを隠せませんでした。

同じ出来事を記しているルカの福音書では、何人かの律法学者が「先生、立派なお答えです」と語ったと記されています。律法学者はパリサイ派に属しています。彼らもサドカイ人たちから同様の質問を受けて、困らせられていたからでしょうね。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.死後の復活を前提に今を生きよう

死んだら終わりではない

サドカイ人たちは、死んだら終わりだと信じていました。ですから、彼らの多くは地上での刹那的で物質的な幸福を追い求めていました。神さまを愛して仕えることよりも、お金を儲けて贅沢な暮らしをしたり、政治的な権力を握って他の人を支配したりすることを求めたのです。

そのため、神殿でささげるいけにえの動物を礼拝しに来た人に高値で売りつけたり、献金のためのお金を両替する際に法外な手数料を取ったりするという真似ができました。そのためイエスさまは、祈りの家であるはずの神殿を強盗の巣にしているとおっしゃって、2度に渡って宮きよめを行なわれました。

しかし、聖書は死んで人生が終わるわけではないと教えています。

(ヘブル9:27)人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

この死後のさばきというのは、必ずしも罰を受けるためのものではありません。イエス・キリストの十字架と復活を信じて救われた人は、罰を受けるためのさばきには合いません。罪がすべて赦されているからです。

イエスさまを信じて救われた人にとっての死後のさばきは、生きいている間に行なった良いことに対して与えられる、報酬を決めていただく査定の時です。

死後のさばきによって決められた報酬は、神の国、すなわち千年王国で味わうことができます。イエスさまはその死後の祝福のことを、よく宴会にたとえられました。

今クリスチャンである私やあなたが死んだとしたら、どうなるでしょうか。
  1. 死を迎えると、私たちの魂は肉体から分離して天のパラダイスに引き上げられます。
  2. パラダイスに招き入れられた私たちは、イエスさまの身元で安らぎに満ちた休息の時を過ごすことになります。
  3. それから携挙の時が来ると、私たちは復活して栄光の体を与えられ、またパラダイスに戻ります。
  4. 携挙の前か後かははっきりしませんが、パラダイスでは「キリストの御座のさばき」と呼ばれる査定を受けます。これは千年王国で味わう祝福を決めるための査定です。
  5. イエスさまが再臨なさるとき、私たちは地上に戻ってきます。そして、イエスさまがお造りになる千年王国に入れられて、キリストの御座のさばきで決まった祝福を味わいます。

生前の行ないは無駄にならない

ですから、生きている間に私たちがどのような行動をするかには意味があります。それは決して無駄になりません。

誰からも認められずほめられないとしても、そしてそれがどんなに些細な行動であったとしても、神さまが喜ばれる行動を実行したならば、イエスさまはそれをすべて覚えていてくださって、千年王国で必ず報いてくださいます。

(マタイ10:42)まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」
一方、人にほめられることを目的として行なったことは、神さまからの評価の対象になりません。

(マタイ6:1)人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

天に宝を積もう

地上での幸せばかり求めて、死んだ後の祝福のことを考えない生き方は、長期的には損をしてしまいます。

クリスチャンがそういう刹那的な生き方、欲望を満足させることを優先する生き方、周りの人を傷つけても自分が得をすることを求める生き方をしても、それで救いが取り消しになることはありません。イエスさまの十字架と復活を信じて、あらゆる罪が赦されているからです。

しかし、せいぜい100年程度の地上の生涯を好き勝手生きた結果、その10倍も続く千年王国で本来いただけるはずの祝福をもらえなくなるとしたら、それは損ですね。

幼稚園に通う子どもが、お年玉としておじいちゃんたちから1万円をもらいました。すぐに使いたいというその子に、お父さんが言いました。「小学生になるまで貯金しなさい。もしすぐにお金を使いたいなら、お父さんが千円上げよう。その代わりにその1万円はお父さんがもらう。どうする?」 するとその子は1万円を渡して千円を受け取ったそうです。

ですから、私たちは地上ではなく天に宝を積むような生き方をしましょう。天のパラダイスに招かれたとき、「よくやった、忠実なしもべよ」と声をかけていただくことを目指して、残りの人生も送っていきましょう。

刹那的で物質的な幸せばかり求めて神さまを愛することを忘れていたサドカイ人たち、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」とイエスさまに言われてしまったサドカイ人たちのようではなく、神さまを愛し、人を愛する生き方を目指しましょう。

そして、そのような生き方が、地上でも自分や周りの人たちを幸せに導きます。なぜなら、神さまの命令は、自分自身や他の人を本当に大切にするためのものだからです。

どんな行動が神さまに喜んでいただけるか知らなければ、神さまに認めていただける行動はできません。ですから、聖書をよく読み、神さまがどんな行動をすることを喜ばれるか学びましょう。そして、それを実行しましょう。

今、あなたがするようにと神さまが期待していらっしゃるのは、どんな行動ですか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com