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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

重要な戒め

イエス・キリストの生涯シリーズ82

マタイによるによる福音書22章34節〜46節

(2024年6月9日)

モーセの律法の中でどの戒めが重要か尋ねられたキリストは、2つの命令を挙げました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

34節の「パリサイ人」とは、ユダヤの宗教的なグループの一つ、パリサイ派に属する人。モーセの律法以外にも膨大な数の決まり事を作って、それを守るように民衆に教えていました。一般民衆の多くも、彼らを尊敬していました。

34節の「サドカイ人」は、サドカイ派に属する人。このグループには、祭司たちが多く属していました。モーセ五書からしか教理を導き出せないと主張し、死後のさばきや復活を信じていませんでした。直前の箇所では、サドカイ人たちは復活がないことを証明しようとイエスさまに論争を仕掛け、逆に論破されてしまいました(前回のメッセージで取り上げました)。

37節は申命記6:4-5、39節はレビ記19:18、44節は詩篇110:1からの引用です。

40節の「律法と預言者」とは、聖書全体を指す言葉です。ちなみに、この当時はまだ旧約聖書しかありません。

イントロダクション

私たちにとって、神さまのみこころに従うことが、長い目で見て最も安全で幸せに導いてくれます。では、どのようにして神さまのみこころを知り、実践すればいいでしょうか。今日はそのことを教えていただきましょう。

1.パリサイ人との問答

パリサイ人からの質問

集まってきたパリサイ人
(34節)パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。

前回のメッセージで、ユダヤ教のサドカイ派に属する人たちが、イエスさまと復活に関する議論をしたことを取り上げました。イエスさまは、復活なんかないと主張していたサドカイ人たちを論破します。

ルカ20:39には、そこに居合わせた律法学者たちが「先生、立派なお答えです」と語りかけたことが記されています。律法学者はパリサイ派に属していて、復活に関するサドカイ人からの質問には困らせられていたので、溜飲が下がる思いがしたのでしょう。

イエスさまがサドカイ人たちを論破したという話は、この律法学者たちの口から他のパリサイ人たちに伝わったのだと思われます。多くのパリサイ人たちがイエスさまのもとにやってきました。
イエスを試す質問
(35節)そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。

パリサイ人たちが集まってきたのは、イエスさまのことを見直して、純粋に教えを受けるためではありません。イエスさまに質問をして、何かしらの失言を引き出したり、無知であることを明らかにしたりしたいと考えてのことです。

そのような思惑で、パリサイ人たちの代表者が質問しました。どんな質問でしょうか。
どの戒めが最も重要か
(36節)「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」

ユダヤの律法学者によれば、モーセの律法は613の命令からなるとされています。その中で、どれが最も重要かという質問です。

イエスの回答

第一の戒め
(37-38節)イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。

まずイエスさまは、申命記6:4-5を引用なさいました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし」というのは、「全身全霊で」と言い換えることができるでしょう。感情でも、知性でも、意思的でも神さまを愛するということです。
第二の戒め
(39節)『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

イエスさまはさらにレビ記19:18も引用なさいました。いわゆる隣人愛を教えている箇所です。
結論
(40節)この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

イエスさまが2つの命令を挙げたのは、モーセの律法の中でこの2つが最も大切で、それ以外はそれほど大切ではないということを言うためではありません。いわゆる山上の説教の中で、イエスさまは次のように教えておられます。

(マタイ5:18-19)まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

モーセの律法には様々な命令があります。例えば儀式のやり方、道徳的な戒め、今の刑法や民法に当たるような戒めなどさまざまですが、そのすべてが重要で軽く扱ってはならないものです。そして、そのすべてが神さまへの愛と隣人愛を実現するためのものだとイエスさまはおっしゃいます。つまり、あの2つの命令はモーセの律法全体の要約だということです。
律法学者の反応
マタイの福音書には、イエスさまの答えを聞いたパリサイ人たちの反応は記されていませんが、マルコの福音書には載っています。

(マルコ12:32-34)律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」

最初はイエスさまの無知を明らかにしてやろうというような思いで質問した律法学者でしたが、イエスさまの答えに感動を覚えてしまいました。

その後、この律法学者がイエスさまを信じて救われたかどうかは記されていません。しかし、ニコデモやアリマタヤのヨセフ、あるいはパウロのように、救われていてほしいですね。

キリストは誰の子か

イエスの逆質問
(41-42節前半)パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」

今度はイエスさまの方からパリサイ人たちに質問をなさいました。キリスト、すなわち救い主は誰の子かという質問です。子というのは子孫という意味です。

パリサイ人たちの殆どはイエスさまのことをキリストとは信じていませんでしたが、イエスさまは「私は誰の子か」とは訪ねていません。一般論として、キリストは誰の子孫かとお尋ねになりました。
パリサイ人たちの答え
(42節後半)彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」

一般論ですから、パリサイ人たちも素直に回答します。旧約聖書は救い主がダビデの子孫として登場すると約束していますから(たとえば第2サムエル記7:12-13)、「ダビデの子です」と答えました。
イエスの指摘
(43-45節)イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

するとイエスさまは、詩篇110:1を引用なさいました。最初の「主」は、ヘブル語では神さまのお名前が記されています。そして「私の主」は、この詩篇の中では救い主のことを指しています。

イスラエルでは親や先祖を敬う文化があります。であれば、子孫であるキリストから見ればダビデは目上の存在のはずです。それなのにダビデはキリストのことを主と呼んで、逆に敬っています。単にキリストがダビデの子孫に過ぎないのなら、これはどうしたことかとイエスさまはお尋ねになっています。
沈黙するパリサイ人たち
(46節前半)するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。

イエスさまは、キリストがダビデの子孫だという聖書の教えを否定しているわけではありません。イエスさまの質問は、キリストには2つの性質があるということを理解していなければ答えることができません。すなわち、人間としての性質と神としての性質です。

神が人となって来られる方、神であり人であるお方がキリストです。その真理は、詩篇110篇以外からも知ることができます。たとえばクリスマスの時期によく読まれる次の箇所。

(イザヤ9:6)ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

この中で救い主が4つの称号で呼ばれていますが、最初の3つは神さまに対して用いられる称号です。

ですから、キリストが神と人の両方の性質を同時に持っておられることは、旧約聖書を読めば理解できるはずです。復活したイエスさまに出会った弟子のトマスも、イエスさまに向かって「私の主、私の神」と呼びかけています(ヨハネ20:28)。

ところが、イスラエルの敵を滅ぼして神の国をもたらす王としての救い主のイメージばかりを追い求めていたパリサイ人たちは、救いをもたらす神としての救い主のイメージには注目していませんでした。

これまで、イエスさまの無知を明らかにしようとして様々な議論を吹きかけてきたパリサイ人たちは、イエスさまの質問に答えられないことによって、かえって自分たちの無知をさらけ出すことになってしまいました。
沈黙する反対者たち
(46節後半)その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。

これまで、パリサイ人、律法学者、ヘロデ党員、サドカイ人たちが、代わる代わるイエスさまに議論を吹きかけ、イエスはキリストではないということを証明しようとしてきました。しかし、もはや議論ではイエスさまに対抗できないことが明らかになってしまいました。

そこで、指導者たちはもはや議論ではなく実力行使に出ることにします。なんとかしてイエスさまを逮捕し、命を奪おうと画策するのです。

ちなみに、今回の出来事は受難週の火曜日の出来事です。イエスさまは2日後の木曜日の夜に逮捕され、金曜日の朝に十字架につけられます。いよいよ十字架が目前に迫ってきました。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.聖書によって人生を導かれよう

聖書を判断の基準としよう

時に神さまは、幻や夢、天使などを通して私たちが進むべき方向を示してくださることがあります。あるいは誰かと話をしている時に、ある言葉がドンと心に響いてきたり、心の中に「このように行動しなければならない」という強い思いが湧き上がってきたりすることもあります。

しかし、そのような場合でも、聖書の教えと矛盾しないかどうかチェックしなければなりません。聖書は聖霊なる神さまが、聖書記者たちの内に働いて、神さまのみこころが正しく記録されるように導かれた書物です。

ですから、どんなに幻や天使を通して語られたとしても、どんなに偉い牧師や預言者が語った言葉だとしても、強烈な印象を覚えたとしても、聖書と矛盾する内容ならば神さまからのメッセージでありません。

逆に、強い印象を覚えなくても、聖書に書かれている命令は神さまからの命令だし、聖書が禁じていることは神さまからの禁止です。
聖書に従おう
神さまは、私たちの行動のすべてを、「ここは右」「ここは左」というふうに具体的に命じたりはなさいません。多くの場面で、私たちは自分で判断を下さなければなりません。

その判断材料として、私たちには神さまから聖書が与えられています。聖書の中には、今私たちがどんな行動を取るべきかについて、明確に教えている箇所があります。聖書の言葉と感情が対立することもあります。また、パリサイ人たちがキリストの2つの性質について理解できなかったように、自分の中の常識と聖書の教えが対立するときがあります。その場合には思い切って聖書の命令の方を選びましょう。
羽鳥明先生の提案
2017年に召天なさったラジオ伝道者の羽鳥明先生の話です。
ある時、三重県の小さな教会から、伝道集会での説教を依頼されました。その日の集会では、一人の高校生が救われましたが、その子を集会に誘ったのは、同じ学校の高校生でした。

そこで先生は、その二人にこう提案なさいました。イエスさまは、『あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます』(マタイ18:19)とおっしゃいました。ですから、これから学校の昼休みに、二人で一緒に聖書を読んでお祈りしてみませんか?」

その2年後、羽鳥先生は同じ教会に呼ばれます。すると、何と15人以上の高校生がその教会に集っているではありませんか。2年前、友だちを連れてきた高校生が言いました。「先生のおっしゃった通り、昼休みに友だちと2人で祈り始めました。そうしたらこうなりました」。
(羽鳥明「心に触れる説教とは」いのちのことば社より要約)
私たちも、聖書に書かれていることを実践しましょう。

では、聖書にはっきり書かれていない事柄については、どのように判断すればよいのでしょうか。

2つの愛を目的としよう

長いこと教会のサイトを運営していますので、いろいろな方から相談のメールをいただくことがあります。特にクリスチャンの方で多いなと感じるのが、「これは罪でしょうか?」という質問です。

たとえば、飲酒、喫煙、パンクやヘビーメタルの音楽を聴くこと、学生が異性とおつきあいをすること、カラオケに行くこと、漫画を読むこと、主婦が昼寝をすること……などなどなど。これらは罪なのでしょうか、と。

私がこの手の質問に対していつもお答えするのは、「何が罪か、すなわち何が神さまを悲しませるかを考えて日を過ごすよりも、何が神さまを喜ばせるかを考えて過ごした方がいいと思いますよ」です。
キリストの律法と2つの愛
今回の箇所は、モーセの律法は、すべて神さまへの愛と他の人への愛を目的としているということを教えています。イエスさまが十字架にかかられたとき、モーセの律法は役割を完了して無効になりました(エペソ2:14-15)。代わりに、新約聖書の中で使徒たちが教えていること、またイエスさまが教会時代の私たちに向けて教えておられることを守ります。これを「キリストの律法」と呼びます。

キリストの律法でも神さまへの愛と他の人への愛を教えています。たとえば、

(ローマ8:28)神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

(ガラテヤ5:14)律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。
愛を判断基準とする
ですから、聖書にはっきり書かれていない事柄について考える際は、「どういう行動をすることが、神さまへの愛を現すことになるだろうか。どういう行動をすることが、神さまに喜んでいただけるだろうか」ということを考えましょう。

そしてもう一つ、「どういう行動をすることが、私の周りの人たちへの愛を最も現すことになるだろうか。どういう行動をすれば、あの人に本当の意味での幸せを提供することになるだろうか」という基準で考えてみましょう。
Aさんの息子さんは、いわゆるニートでした。ところが、完全引きこもりというわけではなく、趣味のためであれば出かけていって友だちと遊ぶことはできます。Aさんは、そのための資金を毎回求められるまま提供していました。自分たちもまもなく年金暮らしで、先々のことが心配でしたが、もしも小遣いを与えなければ、息子さんが退屈になってかわいそうだという思いからでした。

しかし、祈りながら考えたことは、これは本当の意味で息子さんの幸せにはつながらないということでした。人は困らなければ現状を変えなければならないとは思えません。息子さんのためだと思って小遣いを与えることは、かえって「私たちが経済的に支えるから、あなたはニートのままでいいよ」と言っているに等しいことだとAさんは気づきました。確かに小遣いを与えなくなれば、息子さんは退屈でたまらなくなるでしょう。そうしてはじめて、お金を自らの手で稼がなければならないという思いになることができます。

教会の友だちに祈りで支えてもらいながら、ついにAさんは息子さんに言いました。「私たちも経済的に厳しいから、もう小遣いは上げられない。むしろ、少しでいいから生活費を入れてもらいたい」。すると、じっと考えていた息子さん、その日のうちに散髪に行き、次の日にはアルバイトを決めてきました。その後、定職に就き、結婚までなさり、「これまで心配をかけたから」とAさんとご主人に海外旅行までプレゼントしてくれたのです。

私たちも、神さまと人への愛を基準に行動を選ぶようにしましょう。

では、私たちが実践すべき本当の愛とはどのようなものか、何をモデルにすればいいでしょうか。

キリストの愛にならおう

律法を実践するとぶつかる壁
「律法」を実践しようとすると、私たち人間が必ずぶつかる壁があります。それは、思い通りに実践できないということです。神さまへの愛、人への愛を実践しようとしても、面倒くさくなったり、自分が払うべき犠牲を考えて惜しくなってしまったり、怖くなったり、恥ずかしくなったりして、それ以外の道を選んでしまうことがあるのです。

そんなときは、がっかりします。あー、またやってしまったと落ち込んだりします。

そんなときは、(第2コリント3:6)「文字は殺し、御霊は生かす」という言葉を思い出しましょう。文字とは、律法に書かれている文字のことです。御霊とは聖霊なる神さまのことです。

律法は、どういうふうに生きればいいかは教えますが、そう生きるための力までは人間に与えませんでした。ですから、これまでの歴史で与えられた律法は、アダムの律法も、ノアの律法も、モーセの律法も、ことごとく人間に破られてきました。このままでは、行き着く先はさばき、そして永遠の滅びです。

しかし神さまは、律法の前で無力な私たちのために2つのことをしてくださいます。それは、
  1. 律法を守れなかった罪を一方的に赦してくださること
  2. 私たちを内側から造り変え、律法を実践するための力を与えてくださること

です。
新しい戒め
十字架にかけられる直前、イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。(ヨハネ13:34)「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

イエスさまは、どのように私たちを愛してくださったでしょうか。本来神さまの敵だった私たちのために、命をささげてくださいましたね? そのために、私たちの罪は赦されました。

そのように隣人を愛しなさいと、「キリストの律法」は求めています。もちろん、その通り実践しようと思っても、やっぱり失敗します。自分で自分を愛するように他の人を愛するのでさえ難しいのに、イエスさまがなさったような愛し方で愛するなんて、とてもとても……。

しかし、それでも私たちは神さまによって赦され、愛されています。

私たちの原動力は神さまからの一方的な、そして偉大な愛です。神さまに愛されていることを知った人は、自分自身を大切にします。なぜなら、この自分は、自分や他の人がどう評価したとしても、イエスさまが命を捨てても救いたいと思ったほどの存在だからです。

もちろん、自分を大切にするとは、自分勝手に生きることではありません。あなたには体、精神、そして魂があります。それぞれが健康を維持し、さらに成長するために、神さまは私たちがどんな生き方をするのを望んでおられるでしょうか。

それを知り、実践しましょう。

そして、神さまの愛を知って自分を大切にできるようになった分だけ、私たちは他に人のことも大切にできます。神さまが自分を大切にされているように、その人のことも命がけで大切にしてくださっているということが分かるからです。

さらに、神さまの愛を知って自分を大切にできるようになった分だけ、こんなに大切にしてくださる神さまへの愛がわき上がります。そして、神さまの喜ばれる生き方をしようという思いがわき上がってくるのです。

私たちは神さまと他の人を愛するため、神さまのことをもっとよく知りましょう。特に、神さまがあなたのことをどう見、評価し、何を約束し、望んでおられるか、そしてこれまで何をしてきてくださったかを知りましょう。

まとめ

今日は、神さまのみこころをどのようにして知り、実践するかを教えていただきました。私たちにとって、神さまのみこころに従うことが、長い目で見て最も安全で幸せに導いてくれます。聖書の教え、特に神さまへの愛と他の人への愛を、イエスさまの愛に励まされながら実践しましょう。

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