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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

洗足

イエス・キリストの生涯シリーズ87

ヨハネによる福音書13章1節〜20節

(2024年7月14日)

最後の晩餐でイエス・キリストが弟子たちの足を洗った、洗足のエピソードです。これを通して、クリスチャンの人間関係の持ち方が教えられています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「過越の祭り」は、イスラエルで毎年行なわれるようモーセの律法に定められている例祭の1つです。出エジプトの出来事を記念して行なわれます。

18節は、詩篇41:9の引用です。
私が信頼した親しい友が私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。

19節の「わたしはある」は、モーセが燃える柴の前で神さまと対話したとき、神さまがご自分の自己紹介として語った言葉です(出エジプト3:14)。

イントロダクション

教会がますますぬくもりに満ちた、居心地の良い交わりであるために、私たちが心がけなければならないことは何でしょうか。

今回はイエスさまが弟子たちの足を洗ったエピソードを取り上げます。イエスさまは弟子たちに、イエスさまが弟子になさったように、弟子たちも互いに実行するようおっしゃいました。

互いに足を洗い合うというのは、いったい何を意味しているのでしょうか。

1.弟子の足を洗うイエス

プロローグ

イエスの愛
(1節)さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

イスラエルの過越の祭りがやってきました。イエスさまと弟子たちは、ある家の2階にある大広間で過越の食事をすることになりました(マルコ14:15)。いわゆる「最後の晩餐」です。伝統的にこの家は、マルコによる福音書を書いたマルコの家だと言われています。

過越の祭りは出エジプトの出来事を記念して毎年祝われました。木曜日の午後に、人々は神殿に羊を連れて行きます。すると祭司がその羊をほふり、血を祭壇に注ぎかけます。また脂肪は祭壇で焼いて煙にし、肉は切り分けられて羊を連れてきた人が持ち帰りました。

そして、その肉はその日の夕食の時間に行なわれる過越の食事で食べられました。モーセの律法で定められているのは、子羊の肉と苦菜と種なしパンを食べるというものですが、福音書の時代になると儀式化が進み、食べるものも増え、手順も複雑になっていました。

今回の出来事が起こったのは、紀元30年の4月6日木曜日。古代のイスラエルでは日没で日付が変わりましたから、すでに金曜日に入っています。イエスさまが十字架につけられるのが金曜日の朝9時ですから、あと半日ちょっとしか時間が残されていません。

そこでイエスさまは、ご自分が弟子たちのことをいかに愛しておられるかを示そうとなさいました。
ユダの裏切り
(2節)夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

過越の祭りが始まる前、ユダは密かに祭司長たちのところに向かいました。そして、民衆が見ていないところでイエスさまを逮捕できるよう手引きをする約束をしました。

民衆は少なくともイエスさまのことを預言者だと考えていましたから、指導者たちはおおっぴらに逮捕するして騒ぎになることを恐れていたのです。

その見返りとして、祭司長たちはユダに銀貨30枚を渡しました。
イエスの覚悟
(3節)イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。

イエスさまは、いよいよ十字架にかかるとき、そして復活してその後天にお帰りになるときが目の前に来たことを知り、覚悟を決めておられます。

洗足

弟子の足を洗うイエス
(4-5節)イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

過越の食事がスタートしました。儀式化された過越の食事では、合計4回ぶどう酒が飲まれます。第1の杯が終わると、きよめの儀式が始まります。これは、参加者が手を洗いきよめる儀式です。

おそらくそのタイミングで、イエスさまは上着を脱ぎ、弟子たちの手ではなく足を洗い始めました。当時の宴会では、寝転がって食事をとりました。足は後ろに投げ出されている状態で、その足を洗い手ぬぐいで拭ったのです。
ペテロとの問答1
(6-7節)こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

乾燥した道を歩くと、足が埃まみれになります。ですから、足を洗うのは大切なおもてなしでした。しかし、足を洗うのは、通常なら奴隷が行なう仕事です。ペテロは戸惑いました。するとイエスさまは、その意味は後で分かるとおっしゃいました。

実際、12節以降でイエスさまは洗足の意味を解説しておられます。そして、その意味が本当に腑に落ちるのは、イエスさまが十字架にかかり、復活して召天し、聖霊さまが降ってこられてからです。
ペテロとの問答2
(8節)ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」

偉大な先生、そして救い主に奴隷のような真似をさせるわけにはいかないとペテロは考えました。そして、そんなことはやめるようイエスさまにお願いしました。
するとイエスさまは、「もしもやめたら、あなたと私は無関係」とおっしゃいます。師匠と弟子の関係、救い主とそのしもべという関係が無くなってしまうということです。

もしも、ペテロが100%イエスさまに従順であるなら、イエスさまがしておられることの意味が分からなくても、少なくともやっておられることを止めようとはしなかったはずです。しかし、ペテロは、まるで自分の方がイエスさまよりもものをよく知っているかのようにイエスさまを指導しようとしています。

イエスさまはペテロに、ご自分に対して従順に従う心を持って欲しいと願われて、「あなたはわたしと関係ないことになる」とおっしゃったのです。
ペテロとの問答3
(9-11節)シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。

ペテロはイエスさまが意図したことをつかめませんでした。破門されては大変とペテロは思ったのでしょう。足だけでなく全身洗ってくれとお願いします。極端ですね。

するとイエスさまは、「水浴したものは、全身きよいから足以外は洗う必要がない」とおっしゃいました。きよめの儀式として水浴をしたら、全身がきよくなります。外を歩き回ると足は汚れてしまいますから、帰宅したら足は洗います。ただし、それはきよめの儀式をやり直すということではありません。単に汚れたからきれいにするだけです。

きよめとして足を洗うわけではないから、手や頭も洗う必要はないよとイエスさまはペテロにおっしゃいました。

ただし、弟子たちの全員がきよいわけではないとイエスさまはおっしゃいます。これは、ご自分を裏切ろうとして金を受け取ったユダはきよくないという意味です。

洗足の意味

意味の解説
(12節)イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。

イエスさまは、弟子たちに洗足の意味を説き明かし始めます。
互いに洗い合えという命令
(13-15節)あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

救い主であり先生であるイエスさまが足を洗ったことで、ペテロは遠慮してしまいました。しかし、イエスさまがおっしゃりたかったことは、救い主であり先生である自分がそれをしたのだから、しもべであり弟子であるあなた方も同じことをすべきだよねということです。

そして、お互いに足を洗い合いなさいとお命じになりました。
しもべは主人にまさらない
(16-17節)まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。

「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません」とはどういう意味でしょうか。これは、主であるイエスさまに対して従順に従いなさいということです。

イエスさまがお命じになったことに逆らうということは、自分をイエスさまより上に置くことです。そんなことをしないで従順に従うなら、神さまはその人を大いに祝福してくださいます。
裏切りの示唆
(18節)わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。

祝福されない弟子が一人います。それはイスカリオテ・ユダです。イエスさまは、他の11人と同じようにユダのことを信頼しましたが、ユダはイエスさまの信頼を裏切りました。
わたしはある
(19節)事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。

「事が起こる前に」の「事」とは、十字架と復活のことです。それを目撃した11人の弟子たちは、イエスさまこそ「わたしはある」であるという確信を深めるでしょう。

「私はある」とは、聖書の神さまがモーセに対して自己紹介したときの言葉です。すなわちイエスさまはここでご自分のことを神であると宣言しておられます。そして、弟子たちもその確信を深めるであろうと預言なさっています。
受け入れる者
(20節)まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

父なる神さまが子なるイエスさまを地上に遣わしました。そして、救い主イエスさまが伝道のために弟子たちを遣わします。その弟子たちを受け入れ、彼らが語る教えを受け入れた人は、イエスさまを受け入れたのと同じです。そしてイエスさまを受け入れたその人は、天の父なる神さまのことも受け入れています。その結果、父なる神さまからの大いなる祝福をいただくのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.互いに赦し受け入れ合おう

全身きよいことを確認しよう

イエスさまは「水浴した者は全身きよい」とおっしゃいました。それと同じように、一度恵みの福音を信じたなら、その罪はすべて赦されきよめられています。私たちの一部ではなく、全体がきよいのです。

恵みの福音とは、「この私の罪を赦すために、イエス・キリストが十字架にかけられた。イエスさまは死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。これが真理だと認めるなら、その人の罪は本当に赦され、それどころか神さまの子どもとして永遠に祝福されます。

ですから、いったん信じて救われたなら、その後その救いが取り消しになることはありません。救いは信仰によって与えられるのであって、私たちの行ないによるものではないからです。

ですから、最近自分はイエスさまに従ってなかった、罪深い生活を送ってきた、だから洗礼を受け直そうか……などということをしてはいけません。恵みの福音を信じたなら、その後どんな生き方をしたとしても、あなたは救われています。そして、永遠に救われ続けています。

その神さまの豊かな愛を改めて信じて感謝しましょう。

罪を告白して赦しを確認しよう

「水浴したら全身きよいが、足は洗う」とイエスさまはおっしゃいます。

私たちも日々の生活の中で、神さまのみこころを無視して自分勝手なことを考えたり実行したりしてしまいます。先ほど申し上げたように、だからといって救いが取り消しになることはありません。

それでも、罪は神さまとの関係をおかしくしてしまいます。神さまの側では常に愛の御手を差し伸べてくださっているのに、私たちが神さまの方を向いていなければその祝福をいただくことができません。

ですから、自分は罪を犯してしまったと自覚したら、すぐに罪を認めて神さまに告白しましょう。そうすれば、ただちに神さまはその罪を赦してくださいます。そして、罪のせいでおかしくなっていた関係を回復してくださいます。

(第1ヨハネ1:9)もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

もちろん、悔い改めたら神さまに従う人生に戻りましょう。聖霊さまに、従う力を与えてくださるよう求めながら、神さまのみこころだと分かっていることを実践しましょう。
ペテロとユダ
ペテロは、イエスさまが逮捕された後、「あなたはイエスの弟子だろう」と尋ねられて「イエスなんて奴は知らない」と3度言ってしまうという失敗を犯しました。しかし、ペテロはイエスさまのところに戻ってきて、赦しを受け取りました。

一方、イエスさまが逮捕された後、イスカリオテ・ユダは自分がしてしまったことを後悔して、首をつって死んでしまいます。ユダは、最後まで赦しを受け取ろうとしませんでした。
私たちは、どんなに図々しいと思ったとしても、罪を悔い改めてイエスさまに従う人生を取り戻し続けましょう。

他の人を赦そう

「足を洗う」という行為は、罪を告白して赦しを受け取ることを象徴しています。であれば、イエスさまが「互いに足を洗い会いなさい」とおっしゃったことは、「互いに罪を赦し合いなさい」という意味だということが分かります。

私たちはみんな不完全です。強い部分もあれば、弱い部分もあります。みんな神さまに赦される必要があり、実際赦していただいています。ですから、赦された者同士、お互いの弱さを受け入れ合い、赦し合いなさいとイエスさまはおっしゃいます。

もちろん、教会のメンバーの誰かが明らかに罪を犯して悔い改めようとしていないなら、他の教会のメンバーはその人が悔い改めて神さまとの関係を回復するよう勧めなければなりません。

それでも、教会が問題点を指摘し合うだけの場になってしまっては、居心地は最悪です。クリスチャンは、互いに赦されていることを前提として罪の問題を取り扱わなければなりません。「そんなことをしているとさばきを受けるぞ」と脅したり、「そんなことをするなんて、なんと邪悪な人間か」と馬鹿にしたりするのでもなく、「私たちは赦されているのだから、赦された者として神さまに感謝しながら、神さまのみこころに従う生き方をしよう」と勧めましょう。

この話をお読みください。
ある時、一人の青年が牧師のところに来て、こんな話をしました。

田舎道を走るバスに乗った時のこと、若い女性がバスの座席に座り、その前におばあさんが立っていました。そのおばあさんのそばにも何人かの人が立っていました。

やがて一つの停留所に着いた時、乗客の一人がその女性に向かって、「失礼じゃないか、こんな年寄りを立たせたりして」と言って降りて行きました。バスの中の人々は、勇気あるその乗客に同調しているようでした。

しかし、その乗客が降りた後で分かったのは、この女性は足が不自由だったということです。それを知った人々は唖然としました。そして、今度はあの厳しい言葉を吐いた乗客に対して、非難の思いが向けられたのです。

「先生、この話をどう思いますか?」と青年が牧師に尋ねました。

「その女性を非難した乗客は、少し思いやりが足りなかった。そう簡単に人をさばくものではないね」。

牧師は、そうは言いませんでした。

「いや、その乗客もその時、愛の動機からそうおっしゃったのでしょう。彼には彼の思いがあったのですよ」。

すると、青年は目に涙を浮かべました。「先生、実は女性を非難したその乗客とは、僕のことだったのです」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
どんなときも、赦し合い・受け入れ合いの精神で人に接していきたいですね。

教会によっては、洗足を儀式として実際に行なっているところもあります。儀式として行なうにしても行なわないにしても、大切なことは私たちがお互いに罪や弱さを許し合い、受け入れ合い、共に罪と戦う戦友同士として励まし合うことです。

互いに足を洗い合いましょう。

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