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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

心を騒がせなくてよい

イエス・キリストの生涯シリーズ90

ヨハネによる福音書14章1節〜14節

(2024年8月4日)

最後の晩餐を終えたイエス・キリストが、弟子たちに長い教えを語っています。今回の箇所は、この先のことに不安を抱えていた弟子たちへの励ましのメッセージです。

礼拝メッセージ音声

参考資料

13節の「栄光」とは、神さまのすばらしさのことです。聖書の神さまは完全であり、全知全能です。きよく正しく、同時に愛に満ちあふれておられます。神さまはこの世界を創造し、今もあらゆるものを完全にコントロールしておられます。「神の栄光が現われる」とは、そういった神さまのすばらしさの一端が明らかになるということです。

イントロダクション

皆さんは、神さまの奇跡をもっと見たいと思われますか? そして、神さまのすばらしさをもっと知って感動したいと思われますか? 今日はそんな願いがかなえられるという話をいたします。

この時の弟子たちは心を騒がせていました。私たちも問題にぶつかったり、どこに進んでいいか迷ったりして心を騒がせてしまうことがあります。しかし、そんな私たちに、イエスさまはとんでもない祝福の約束を与えてくださり、「だから大丈夫。心を騒がせなくてよい」と励ましてくださっています。それを受け取りましょう。

1.過越の食事後のメッセージ

イエスが行く場所

心を騒がせるな
(1節)「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

イエスさまが十字架にかけられる前の夜に行なわれた過越の祭りの食事、いわゆる最後の晩餐が終わりました。この後イエスさまと弟子たちはオリーブ山のゲツセマネの園に向かいますが、その前に弟子たちに対して長い教えをなさいます。

(画像引用:Amazon)
まずイエスさまは、心を騒がせるなとおっしゃいました。ということは、弟子たちは心を騒がせていたわけです。過越の食事は心がワクワクするようなひとときとなるはずでした。しかし、イエスさまは食事の間に不穏な空気になるようなことをおっしゃいました。

それは、弟子たちの一人がイエスさま裏切るということです。

また弟子たちは、イエスさまがいよいよエルサレムで自分こそ約束の救い主であり、神の国の王であるということを宣言して、ローマ帝国に対してイスラエルの独立を宣言なさると期待していました。ついでに自分たちも、神の国の政府の中で高い地位に就けてもらえるとも期待していたわけです

ところが、イエスさまは弟子たちを残してどこかに行ってしまうというような話をなさいました。

(ヨハネ13:33)子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

それに対して使徒ペテロは、自分は命をかけてイエスさまに従っていくと言いましたが、イエスさまはペテロがイエスさまのことを3度知らないと言うと預言なさいました。さらに、弟子たちみんながイエスさまを見捨ててしまうとおっしゃったのです。

いったいこれから何が起こるのか、弟子たちの心は騒いでいました。
住むところ
(2節)わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

イエスさまは「わたしの父の家」に行くとおっしゃいました。これは父なる神さまがいらっしゃるところ、天のパラダイス、一般に天国と呼ばれている場所です。イエスさまはこの後十字架にかかって死に、墓に葬られますが、3日目に復活します。そして、40日後に天にお帰りになります。

イエスさまは、天にお帰りになった後、弟子たちのための場所を用意するとおっしゃいました。
携挙の約束
(3節)わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

弟子たちのための場所が用意できたら、イエスさまは弟子たちを迎えに来られ、天のパラダイスに招き入れてくださると約束なさいました。その後は、弟子たちはずっとイエスさまと共に過ごします。

これは「携挙」と呼ばれている現象です。その場所にいた11人の弟子だけでなく、クリスチャンはみんな将来のある日あるとき、イエスさまによって朽ちることのない栄光の体に造り変えられ、天のパラダイスに迎え入れられます。たとえその時すでに死んでいたとしても復活します。

(第1テサロニケ4:16-17)すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

救いの方法

その道を知っている
(4節)わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

イエスさまは弟子たちに、これからイエスさまが行こうとしている場所がどこなのか、そして「その道」、すなわち弟子たちがそこに行くための方法もあなた方はすでに知っているはずだとおっしゃいました。これについては、これまでイエスさまが弟子たちに教えてこられたからです。
トマスの質問
(5節)トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

ところが、使徒トマスはイエスさまがどこに行こうとしているか分らないと言いました。ですから、当然行き方も分かりません。これについてはトマスだけが分からなかったのではなく、他の弟子たちも理解していませんでした。
イエスが道
(6節)イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

イエスさまは、ご自分が父なる神さまの住まう天国への道だとおっしゃいました。それだけでなく、イエスさまこそ真理であり、イエスさまこそいのちそのものです。

しかも、イエスさまを通してでなければ、誰も父なる神さまの元に到達することはできないとイエスさまはおっしゃいました。これは、救いを手に入れる方法、救いに関する真理、永遠のいのちを手に入れる手段は一つしかないということを表しています。

あの一休さんが詠んだとされる歌があります。「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」。この世にはいろいろな宗教があり、いろいろな救いの方法を説いているけれど、最終的にはみんなそれぞれに救いを得られるという意味だとされています。

しかし、イエスさまはそれを真っ向から否定し、イエスさまを通してでなければ救われないとおっしゃっています。
イエスを知るなら父も知る
(7節)あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

「イエスさまを通して」とはどういう意味か、イエスさまは「私を知る」という表現で説明しておられます。ユダヤの文化で「知る」というのは単にそれに関する情報を持っているという意味ではなく、体験的な知識があることを言います。

たとえばインターネットについて知っているというのは、インターネットの仕組みを知っているとか、利用方法を知っているというだけでなく、実際にインターネットを使って知りたいことを検索したり、買い物をしたり、他の人と交流したりできるということです。

特に人について知っているというのは、その人のプロフィールを知っているというだけでなく、その人と親しく交流しているということです。

イエスさまと親しい人格的な交流があるなら、その人は天の父なる神さまとも親しく交流することができます。

聖書が教える救いとは、お金が儲かることではないし、社会的に成功することでも、病気が治ることでもありません。救いとは、全知全能である三位一体の神さまと仲直りして、親しく交わることができるようになることです。全知全能である神さまが敵でなく味方であるならば、私たちの人生は何があっても大丈夫だし、永遠に大丈夫です。

ところが、人間には罪があって、神さまと親しく交わるどころか敵対関係にあります。罪とは神さまの存在や尊厳を認めず、自分勝手に生きていきたいという自己中心的な性質です。正義であるきよい神さまは、罪があるままの人間を受け入れることはできません。

そこで、神さまは犠牲のシステムを人間にお与えになりました。動物が人間の代わりに死んで血を流すことによって、神さまは罪人が死んで罪の償いをしたと見なしてくださいます。そして、神さまは犠牲をささげた人を罪のない人として受け入れてくださるのです。

ところが、動物の犠牲は不完全ですから、罪を犯すたびに犠牲をささげなければなりません。そこで、イエスさまが十字架にかかって血を流し、ただ一度で有効な完全な犠牲になってくださいました。
その結果、イエスさまが自分の罪を赦すために十字架にかけられたこと、死んで葬られ、3日目に復活なさったことを信じるだけで、その人は本当に罪を赦され、それどころか神さまの子どもとして祝福され、永遠に祝福され続けます。
ピリポの願い
(8節)ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

7節でイエスさまは、弟子たちはすでに父なる神さまを見たと言いました。イエスさまと親しい交わりをしているなら、その人は父なる神さまとも親しい交わりをすでに持っているからです。

ところが、イエスさまの教えを弟子たちはまだ理解できません。ピリポが代表して口を開きます。父なる神さまを見せてくださいという願いをしました。
イエスを見た人は父を見た
(9-10節)イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

イエスさまはピリポに、またそこにいた弟子たちに、イエスさまを見た人は父なる神さまを見たのと同じだとおっしゃいました。また、自分の言葉や行動は、父なる神さまの言葉や行動と同じだと語られました。これはイエスさまがご自分と父なる神さまが一つだとおっしゃっているということです。

ただの人間がこんなことを口にするなら、それは大変な傲慢、神さまに対するとんでもない冒涜と言わざるを得ません。しかし、イエスさまは三位一体の神が人となって来られたお方です。イエスさまは永遠の昔から父なる神さま、聖霊なる神さまと一つでいらっしゃいます。
信じなさい
(11節)わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

イエスさまは弟子たちに、そして私たちに、イエスさまと父なる神さまが一つであること、すなわちイエスさまが人となってこられた神であることを信じなさいとおっしゃいます。

そして、そのことはイエスさまのわざ、すなわちイエスさまの言動を素直に観察すれば信じられるはずだとおっしゃいます。

今の時代、私たちは新約聖書を通してイエスさまの言動を知ることができます。また、旧約聖書の救い主に関する預言を読むことでも、イエスさまの言動について学ぶことができます。
この話をお読みください。
以前、ユダヤ人クリスチャンであるフクルテンバウムという神学者の証しを聞きました。この方は若い頃にはバリバリのユダヤ教徒で、当然のようにクリスチャンの信仰に対して反発を覚えていました。

当時のフルクテンバウム青年は、新約聖書にはユダヤ人に対する呪いの言葉が満ちていて、ユダヤ人を抹殺しろという命令が書かれていると思っていたそうです。そんなふうにユダヤ教の教師から教わってきたからです。しかしある時、クリスチャンの友人が彼に新約聖書を手渡し、実際に自分の目で見て確かめてみろと言いました。

最初は「新約聖書がどれほど嘘っぱちな本か調べてやる」という思いで読み始めたフルクテンバウム青年でしたが、間もなく驚かされることになります。これはユダヤ人が書いたユダヤ人のための本であり、旧約聖書の内容と調和が取れているということに気づいたからです。

そして、自分たちが異端者として呪いの対象としてきたナザレのイエスこそ、旧約聖書が約束してきたメシア(救い主)だと気づかされました。こうしてフルクテンバウム青年はイエス・キリストを受け入れ、クリスチャンとなりました。

この世には、私たちを幸せに導くという情報がたくさん飛び交っています。しかし、本当の幸せに導く情報は、旧新約聖書の中にあります。これからも聖書に親しみたいですね。一人で読んでも理解できないという方は、ぜひお近くの教会へ。私、増田牧師宛にメールで質問してくださってもいいですよ。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

信じる者への約束

イエスより大きなわざ
(12節)まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

さらにイエスさまは、イエスさまを信じる人、すなわちクリスチャンに対するものすごい約束をなさいました。それはクリスチャンが、イエスさまが地上でなさった以上のわざを行なうことができるようになるということです。

そしてそれは、イエスさまが天にお帰りになるからできるようになることだとおっしゃいます。イエスさまが昇天なさると、代わりに聖霊なる神さまが降ってこられ、クリスチャン一人一人の中に住んでくださるようになります。その聖霊さまがクリスチャンに力を与えてくださるから、イエスさまより大きなわざを行なえるようになるのです。

たとえクリスチャン一人一人の力は小さくても、教会としてまとまった時、大きな力を発揮します。

聖書は、クリスチャンの共同体である教会のことを、キリストの体にたとえています。イエスさまが地上にいらっしゃる時、イエスさまの体は物理的に一箇所にしか存在できませんでした。しかし、聖霊なる神さまによって誕生し拡大している教会は、今や世界中に活動の場所を広げています。そして、人を救いに導き、いやしを行ない、社会を変革し続けています。

このクリスチャン人口が極めて少ない日本でも、クリスチャンの先輩たちは福祉、教育、医療、法律などの分野でさまざまな良い影響を社会に与えてきました。

1世紀のクリスチャンたちや世界中の先輩クリスチャンたちに力を与えてこられた聖霊さまが、私や皆さんのうちにも宿ってくださっています。
イエスの名によって求めるなら
(13-14節)またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

さらにイエスさまは驚くべき約束をなさいます。それは、私たちがイエスさまのお名前によって求めるものを、イエスさまはかなえてくださるということです。

イエスさまの名によって求めるという意味については、後半で詳しく解説します。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.すでに救われた者として祝福を味わおう

神との深い交わりを楽しもう

いったんイエスさまの十字架と復活を信じたなら、その人はすでに救われており、神さまと親しい親子関係に入りました。救われた後で私たちがどんな失敗をしたとしても、それで神さまの方から絶縁を言い渡すようなことは決してなさいません。

私たちの心は信仰と不信仰の間を風に揺れる葦のように揺れ動きますが、神さまの側ではいつも私たちに愛のまなざしを向け、祝福の御手を差し伸べてくださっています。そのことを忘れないようにしましょう。

そして、神さまがどんなときも私たちを本当の幸せに導こうとしてくださっていることを信じましょう。たとえ人間の目には不幸だと思えるようなことが起こっても、神さまが愛にあふれ、しかも全知全能であるならば、それは私たちの幸せにつながるものです。

この話をお読みください。
アフリカのある部族の長老は、その地域で伝道していた宣教師をことのほか尊んでいました。長老は、この宣教師から、天地を造り、今も支配しておられる創造主の神の話を聞くのを楽しみにしていました。

ある日、長老は宣教師を伴ってジャングルに狩りに出かけました。ところが、銃の扱いに慣れていない宣教師は、誤って長老に向かって弾を発射してしまい、そのせいで長老は手の指を一本失ってしまいます。さすがに怒った長老は、この宣教師を牢屋に入れてしまいました。

数ヶ月後、長老は、今度は一人で狩りに出かけました。ところが、道に迷ってジャングルの奥地へと踏み込んでしまい、その土地の住民たちに捕らえられてしまいました。長老にとって運の悪いことに、彼らは人食い部族として他の部族から恐れられていた人々でした。彼らは、じっくりと「食材」を吟味し始めました。そして、指が一本欠けていることを発見します。

実は、その人食い部族では、指が欠けている人を食べると呪われると、代々言い伝えられていました。そこで、長老はすぐにその場で解放されます。おまけに、呪いの種を自分たちの土地から遠ざけるために、帰り道まで教えてもらいました。

あの宣教師の失態のおかげで自分が命拾いをしたと知った長老は、自分の村に帰るとすぐに宣教師を解放しました。そして、こう言いました。「先生。あなたがよく、神の摂理について語っておられたのを思い出しました。そして、このたび、私はそれを体験しました。私は、指を失ったおかげで命を得たのです」。

そして、続けてこう尋ねました。「では、あなたにとって、神の摂理とは何だったのでしょうか。何ヶ月も狭くて暗い牢屋に入れられたことが、なぜ祝福だったと言えるのですか?」

すると、宣教師はにっこりとほほえんで答えました。「単純なことです。もし、銃を暴発させず、牢屋に閉じ込められていなければ、今回もきっと狩りに連れて行っていただいたことでしょう。そして、私たちには指が10本そろっているのですから、あなただけでなく、この私も夕食のおかずにされていたはずですよ」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
もちろん、苦しい問題に巻き込まれた時は、神さまがこの問題を解決して、苦しみから早く解放してくださるよう祈ってかまいませんし、そう祈るべきです。

しかし同時に、神さまがこの苦しみが起こることを許可なさったのには意味があるはずだということを意識して、「この苦しみの意味はまだ分かりませんが、必ずこの苦しみを通して祝福を体験できると信じます」と感謝しながら祈りましょう。

聖霊によって偉大なことを行なおう

聖霊さまは、イエスさまを信じた私たちの内にもいらっしゃいます。そして、一人一人に聖霊の賜物と呼ばれる奉仕のための能力を与えてくださっています。奉仕というのは、この地上で神さまがご計画を実現するための、お手伝いの行動のことです。

神さまはこの地上でどんなことが起こることを願っていらっしゃるだろうか。そのために、この私にどんな言動をするよう今願っていらっしゃるだろうか。そのことを祈りながら考え、示されたことを実行しましょう。

すると、それがどんな些細な行動であったとしても、聖霊さまが共に働いてくださり、素晴らしいものに育ててくださいます。マザー・テレサの素晴らしい慈善活動も、目の前で一人寂しく死んでいこうとしている人を看病し、温かい言葉をかけながら看取ることから始まりました。

あなたは神さまの奇跡を見たいでしょうか? ピリポが語ったように、神さまの存在を嫌でも自覚するほどの体験をして感動したいでしょうか。それならば、神さまがあなたに願っていらっしゃることを聴き取って、それを愚直に実行することです。その時、神さまのみわざが実現し、神の栄光、神さまのすばらしさが明らかになります。

イエスの名によって祈ろう

イエスさまの名によって求めるなら、イエスさまはそれをかなえてくださると約束されています。ですから、私たちはどんどん祈りましょう。

ところで、イエスさまの名によって祈るとはどういう意味でしょうか。
(1) イエスのおかげで祈りが届くことを意識しながら祈る
一見さんお断りの高級料亭で食事をするのは私には難しいでしょう。しかし、その店の常連さんの紹介があるなら、私のような庶民でも対象の美味しい料理を堪能することができます。

私たちは生まれながらに神さまに逆らう罪人であり、本来なら神さまに祈りを聞いていただくどころか、さばきを招くような存在でした。しかし、イエスさまの犠牲のおかげで神さまと結びつき、祈りを聞いていただけるような存在となりました。そのことを意識し、感謝しながら祈りましょう。
(2) イエスなら何を願って欲しいか考えながら祈る
私が誰かの名前によって行動するというのは、その人の代わりに行動するということです。当然、派遣した本人の意図に反するような言動を私がすることはできません。

私たちがイエスさまのお名前によって祈ればかなえられるという約束は、自分の欲望が何でもかなうという意味ではありません。聖書は次のようにも語っています。

(第1ヨハネ5:14)何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

イエスさまの願いは、天の父なる神さまのご計画が実現し、それによって神さまの栄光、神さまのすばらしさがますます明らかになることです。そんなイエスさまだったら、今何を祈り願われるだろうか。そのことを考えながら私たちも祈りをささげましょう。

もしもみこころにかなう願いなら、それがどんなに不可能と思える内容であったとしても、必ず実現します。
では、どうしたら神さまのみこころを知ることができるでしょうか。私たちは神さまのみこころをすべて理解しているわけではありません。ですから、神さまが聖書やその他のさまざまな体験を通してみこころを教えてくださるよう祈りましょう。

また、みこころにかなわない願いはかなえられないので、とりあえず祈ってみるのも良いでしょう。たくさんの祈りをささげることで、「ああ、こういう祈りならかなえられるのか。これが神さまのみこころなのか」「こういう祈りはかなえられないということは、これはみこころではなかったのか」というふうに体験的に学ぶことも大切ですね。

私たちが祈りによって、ますます神さまのすばらしさを体験し、私たち自身も周りの人たちも、さらには世界中の人たちが幸せに近づきますように。

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