(2024年9月15日)
イエス・キリストに対する尋問・裁判の場面です。今回は、ユダヤ人の指導者による尋問・裁判を取り上げます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
55節の「最高法院」(サンヘドリン)は、ユダヤの宗教・政治・司法における最高決定機関です。大祭司が議長を務め、その他70人で構成されていました。この70人は、祭司、パリサイ人、律法学者から選ばれました。
62節の「人の子」は、イエスさまがご自分を指して言う時の言葉。
4つの福音書を見ると、イエスさまは6回の取り調べや裁判を受けています。
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- 元大祭司アンナスによる尋問(ヨハネ18:12-23)……夜中
- 大祭司カヤパによる尋問(マタイ26:57-68)……夜中
- 最高法院(サンヘドリン)による裁判(ルカ22:66-71)……夜明け前後
- ピラトによる尋問(ヨハネ18:28-38)……明け方
- ヘロデによる尋問(ルカ23:5-12)……朝
- ピラトによる裁判(ヨハネ18:39-19:16)……朝
ユダヤの宗教的指導者たちは、イエスさまの逮捕から死刑判決までの間に、自分たちで定めた司法手続きの決まりに数多く違反しています。
- 賄賂によって人を逮捕してはならない……ユダに報酬を渡しています
- 夜中(日没〜夜明け)に刑事事件を取り扱ってはならない
- 裁判官や陪審員(サンヘドリンのメンバー)が逮捕に参加してはならない
- 安息日や祭りの日に裁判を行なってはならない
- 朝のいけにえをささげる前に裁判を行なってはならない
- 裁判は公開されなければならない
- サンヘドリンによる裁判は神殿の「裁きの間」で行なわれなければならない
- 告訴の前に弁護が行なわれなければならない……そもそも弁護人なしです
- 証人の証言は細部に至るまで一致していなければならない
- 被告に、自分に不利な証言を強要してはならない……あなたは神の子キリストかどうかはっきり言えと、冒涜罪を念頭に迫っています
- 大祭司は着物を引き裂いてはならない……レビ21:10にも違反
- 裁判官は自分から訴えを起こしてはならない……最初の審議は神殿を壊すと言ったかどうかだったのに、カヤパは新たに冒涜罪を持ち出します
- 冒涜罪は神の御名を用いた場合に成立する……イエスは口にしていません
- 自白だけでは罪に定めることはできない
- 有罪判決は、全会一致の場合は無効
- 死刑宣告は、裁判後24時間以上後に行なわなければならない
- 有罪の宣告は昼間に行なわなければならない
- 死刑の評決は、年長者の意見に惑わされないよう年少者から投票する……投票でなく一同の発言のみで判決が出されました
- 裁判官は親切でなければならない……イエスを侮辱し叩きました
- 死刑が決まった囚人を、叩いたりムチで打ったりしてはならない
イントロダクション
今日は、イエスさまがユダヤの指導者たちによって受けた尋問や裁判を取り上げます。ここから、私たちの祈りや聖書の学び、また教会や日常生活でのさまざまな行動を通して、神さまが素晴らしい結果を刈り取らせてくださるという励ましを受け取りましょう。
1.ユダヤの指導者たちによる尋問と裁判
アンナスによる尋問
(ヨハネ18:12-13)一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。
ゲツセマネの園で逮捕されたイエスさまは、そのまま大祭司の邸宅に連れて行かれます。そして、まずアンナスという人から尋問を受けました(ヨハネ18:19-23)。この人は、紀元6年から15年まで大祭司職にあった人で、今回の出来事が起こった紀元30年の現職大祭司であるカヤパの舅(妻の父親)でした。
元々大祭司は死ぬまで大祭司の職にとどまっていましたが、この時代はローマから遣わされた総督によって途中で辞任させられることがありました。アンナスが紀元15年に辞任して、18年にカヤパが就任するまでも、毎年大祭司が交代させられています。
ユダヤ人にとって大祭司は終身職なので、カヤパだけでなくアンナスのことも人々は「大祭司」と呼びました(ヨハネ18:19, 22)。
このアンナスによって、イエスさまは尋問を受けます。アンナスはイエスさまの教えについて、また弟子たちについて尋ねましたが、イエスさまは「自分は公の場で語ってきたのだから、知りたければ聞いた人たちに尋ねたらよろしい」と答えました。
イエスさまを有罪にしたいのなら、訴えている側が有罪の証拠をそろえなければなりません。証拠がないのにイエスさまを逮捕し、取り調べをするのは不当です。イエスさまはその点を指摘しておられます。
そこでアンナスは、イエスさまを縛ったまま義理の息子である大祭司カヤパの元に送りました。
大祭司カヤパによる尋問
大祭司カヤパの元に集まる指導者たち
(53節)人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
大祭司カヤパの元に、祭司長、長老、律法学者たちが集まってきました。彼らは、裁判を行なう最高法院(サンヘドリン)の議員ですが、この時はまだ事前の取り調べであって、本番の裁判は夜が明けてから行なわれます。
最高法院の全議員数は71人ですが、そのうち23人の出席があれば裁判を開くことができました。イエスさまに同情的なニコデモやアリマタヤのヨセフは招集されなかったはずです。それは、最初からイエスさまを有罪にして、死刑にすることが目的だったからです。
中庭に紛れ込むペテロ
(54節)ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
ペテロが大祭司官邸の中庭まで入ってきました。ヨハネの福音書を読むと、イエスさまが元大祭司のアンナスに尋問されている時から、ペテロは大祭司官邸に来ていました。
この時のペテロについては、次回のメッセージで取り上げる予定です。
一致しない証言
(55-56節)さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
最高法院の議員たちは、とにかくイエスさまのことを死刑にしたくてたまりません。そのため、イエスさまがユダヤやローマ帝国の法律を犯したという証言を得ようとしました。
ユダヤの裁判に関する規定では、証人たちの証言は細部にわたるまで一致していなければ有効と見なされませんでした。ところが、現われた証人たちの証言が一致しません。イエスさまが死刑に当たる罪を犯したということそのものがでっち上げなので、証言が一致しないのが当然です。その結果、イエスさまが罪を犯したという証拠がそろえられませんでした。
一致しない証言の例
(57-59節)すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
ローマ帝国の法律では、神聖なものを壊したり盗んだりした場合、死刑を含む厳しい処罰を受けることが定められていました。そこで指導者たちは、「イエスの奴は神殿を壊そうとしていた」ということを証言する証人を用意しました。
マタイ26:60を読むと、ここで証言したのは2人でしたが、この2人の証言も細かい部分が食い違っていました。
大祭司の問いかけを無視するイエス
(60節-61節前半)そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。
証言が一致しないため、このままでは有罪判決を出すことができません。そこで、大祭司カヤパはイエスさまに問いかけ、何かしら有罪にできそうな発言を引き出そうとしました。しかし、イエスさまは大祭司の目論見に乗りません。
ちなみに、ユダヤの裁判規定によれば、被告人の自白だけでは有罪にできないことになっていました。指導者たちは自分たちが決めた規定を無視してまでも、とにかくイエスさまを有罪にしようとしています。これでは公正な裁判とは言えません。なりふり構わずといったところですね。

ウィリアム・ブラッシー・ホール「イエスは大祭司カヤパに質問された」
(画像引用:MEISTERDRUCKE)
キリストなのかという問いと答え
(61節後半-62節)大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
イエスさまに対して、再び大祭司カヤパが問いかけました。お前は神の御子キリストなのかという問いかけです。イエスさまはそうだと答えました。そして、自分がやがて神さまの右の座に着くこと、さらに天の雲、すなわち神さまの栄光の輝きと共に地上をさばくために戻ってくることを語られました。
大祭司の激昂
(63節-64節前半)すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。」
大祭司カヤパは、衣を引き裂きました。これはユダヤ人が激しい怒りや悲しみを表す時の仕草です。それからカヤパは、イエスさまの言葉が神を冒涜するものだと非難しました。
確かに、ただの人間が神の子救い主を自称し、神の右に座に着くだの、栄光の雲と共に地上に来るなどという言葉を吐いたとしたら、冒涜と言われても仕方がないでしょう。しかし、それはイエスさまがただの人間だった場合です。イエスさまが本当に救い主なのだとすれば、イエスさまの発言は単に事実を述べただけであって、冒涜でも何でもありません。
大祭司は、イエスさまが救い主ではないという証拠を示していないのにもかかわらず、救い主ではないと判断しています。そして、その上で冒涜罪に当たると主張しています。
この時、カヤパは自分の衣を引き裂いていますね。実はこれ、モーセの律法に違反する行為です。レビ記21:10には、大祭司は髪の毛を振り乱したり、装束を引き裂いたりしてはならないと書かれています。自分自身がモーセの律法に違反していながら、イエスさまのことを律法違反として断罪するのはおかしな話です。
それを、カヤパも他の議員たちもおかしいと思っていませんでした。とにかくイエスさまのことを死刑にしたいというのがカヤパや他の議員たちの共通の思いだったからです。
議員たちの判断
(64節後半)すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
この時はまだ本格的な裁判は始まっていません。裁判は夜が明ける前に行なってはならないことになっていたからです。しかし、すでに議員たちはイエスさまの死刑を決めてしまっています。
夜明け後の裁判
夜が明けると、最高法院(サンヘドリン)による裁判がスタートしました(ルカ22:66-71)。
しかし、イエスさまに死刑判決が出ることはすでに決定事項です。この裁判は真実を明らかにするためのものではなく、ただ形式を整えるためだけのものです。ですから、本来なら同席させなければならない弁護士も呼ばれていません。
最高法院の議員たちは、改めてイエスさまがキリストなのかどうかを尋ねました。イエスさまが「そうだ」とお答えになると、死刑が決まりました。
ただし、この時期のユダヤの国は、ローマ帝国から死刑を執行する権限を奪われていました。ですから、冒涜罪でイエスさまのことを死刑にすることはできません。イエスさまを死刑にするためには、ローマから派遣されている総督ピラトに死刑宣告をしてもらう必要があります。
そこで指導者たちは、イエスさまを総督府まで引っ張っていってピラトに訴え出ますが、それは再来週お話しします。
では、今日の箇所から、私たちは一体何を学ぶことができるでしょうか。 大祭司や議員たちは、イエスさまを罪人として死刑に処すために尋問を行ない、裁判を開きました。その結果、尋問や裁判が偏りのある不公正なものとなってしまいました。これを反面教師として……
2.予断を持たずにみこころを探ろう
祈りにおいて
私たちは、天の父なる神さまに何を祈り求めてもかまいません。みこころにかなう祈りだけが聞かれますから、逆に安心して何でも祈ることができるのです。
ただ、私たちが祈る時には、心に余白を設けておかなければなりません。どういうことかというと、自分としてはこの願いをかなえてもらいたいけれど、神さまには別のご計画があるかもしれないということを認めるということです。
「これ以外の答えは認めません」というふうに頑なに主張するだけでなく、「私はこの願いをかなえていただきたいですが、神さまのみこころが他にあるのならそれを受け入れます」という柔軟な姿勢が必要です。
祈りのモデル
そのような柔軟な祈りのモデルは、
先々週のメッセージで取り上げたイエスさまのゲツセマネの祈りです。
イエスさまは、十字架にかかることで肉体的に死ぬだけでなく、神さまから呪われて切り捨てられる霊的な死も味わわなければならないことを深く悲しみ、霊的な死は味わいたくないと率直に祈りました。しかし、それと合わせて「私の願いではなく、あなたの願い通りになりますように」とも祈られました。
私たちもイエスさまのように、熱心に、率直に自分の願いを神さまに申し上げましょう。遠慮したり、ごまかしたりするのは良くありません。しかし、それと共に、「私の願いは願いとして、私は最終的にあなたのみこころを受け入れて従います。どうか、あなたのみこころを教えてください」と、開かれた心で祈りをささげるようにしましょう。
そうするなら、神さまはあなたの祈りを通して素晴らしいことをしてくださいます。
聖書の学びにおいて
聖書を読む際も、やはり自分の願いは願いとして持っていてかまいませんが、それをいったん脇に置いて聖書に向かう必要があります。そうでないと、自分の願いに引っ張られて、聖書の言葉を間違った解釈をして受け取ってしまうかもしれません。
自分の願いを支持するような聖書の箇所を見つけようと思えば、案外見つかるものです。
誤った聖書の読み方の例
たとえば、私に嫌いな人がいて、その人に何か仕返しをして苦しめてやりたいと思ったとします。そういう思いを許可してくれそうな箇所を見つけようという思いで聖書を読めば、結構見つかります。詩篇の中には敵に対する復讐を願う祈りがたくさん載っています。また、イスラエルを攻めてきた外国の軍隊が、イスラエルの軍隊や神さまの奇跡によって全滅したというような記事もたくさんあります。
ああ、だから嫌いな人に復讐してもかまわないんだと私は思います。
確かに詩篇の記者たち、たとえばダビデは確かに敵がひどい目にあうことを祈り求めていました。しかし、自分の命を狙うサウル王や反逆したアブシャロム王子を自分の方から殺そうとはしませんでした。イスラエルを攻めてきた外国の軍隊をイスラエル軍が滅ぼしたのも、神さまが戦ってくださったからです。彼らは自分勝手に敵に復讐したわけではありません。
さらに、聖書にはむしろ「自分で復讐しないで、神の怒りにまかせなさい」とか「敵を愛し敵のために祝福を祈れ」とか書かれています。
ところが、私が自分の「自分で復讐したい」という思いにとらわれながら聖書を読むと、自分に都合の悪い箇所は心に響かずスルーしてしまうことになります。
自分の思いは思いとして持ちながら、それを脇に置いて中立の立場で聖書を読みましょう。むしろ、「あなたのみこころを教えてください」という思いで聖書を読みましょう。そうするならば、神さまは聖書の言葉を通して、私たちに大きな慰めや励まし、勇気づけを与えてくださいます。
奉仕において
イエスさまのために、イエスさまと共に行なうさまざまな活動のことを、クリスチャン用語で「奉仕」と呼びます。奉仕は、イエスさまへの愛、そして他の人への愛を実現するために行ないます。
奉仕は、礼拝式の司会や奏楽、受付のように、教会の中だけで行なわれるものに限りません。たとえば、他の人にイエスさまや聖書や教会のことを伝えて、教会の集会に誘うこと、教会外の人のために祈ったり、ボランティア活動をしたり、寄付を行なったりすることなど、様々なものが奉仕になります。
家庭や職場で他の人に優しい態度を取ったり、他の人の成長に役立つ言葉をかけたりするような行動も、それがたとえどんなに些細であってもイエスさまのために、イエスさまと共に行なうことを意識するならば、それもまた奉仕です。
本音の目的は何か
祭司長や議員たちは、神さまのため、そして神さまの民であるイスラエルの民のために、イエスさまを捕らえて裁判にかけ、死刑を宣告しました。しかし、その本音は、自分たちを批判するイエスさまのことが憎くて、救い主だとは認めたくないという思いです。だから、イエスさまを排除しようとしたのです。
そのため、本来理性的で公正でなければならない裁判が、感情的で不当なものとなってしまいました。
私たちの目的は?
私たちも、たとえば自分が目立ちたいとか、他の人にほめられたいとか、誰かを助けることで自分の中の劣等感を克服したいとかいうような、イエスさまや他の人への愛以外の動機で行動してしまうことがあります。
私が聖書のメッセージを語る時にも、「ウケたい」とか「感動しました」と言わせたいとかいう思いがいつもつきまとっているのです。
私たちのそのような不純な動機は完全になくしてしまうのが理想ですが、実際にはなかなか難しいことです。
それでも、少なくとも自分の本音の目的に気づくことが大切です。そして、父なる神さまにそのことを告白して、聖霊さまによって自分の動機をきよめてくださって、純粋な愛の動機で行動できるようにしてくださいと祈りましょう。そして、不純な動機を抱えたまま奉仕の行動をするのです。
そのようにするなら、教会の活動でも、日常生活における細々とした行動でも、イエスさまが共に働いてくださって素晴らしい結果を刈り取らせてくださいます。
祈りでも、聖書の学びでも、奉仕でも、まずは自分の中の本当の願いに気づくことが大切です。そしてそれを自覚し、神さまがそれをきよめてくださって、中立で純粋な心でいられることを期待しながら祈り、聖書を読み、行動しましょう。