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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ピラトによる裁判

イエス・キリストの生涯シリーズ99

マタイによる福音書27章15節〜26節

(2024年10月6日)

ローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトによる裁判で、イエス・キリストが有罪とされ、十字架刑が決まった場面の解説です。

礼拝メッセージ音声

音声はありません。

参考資料

15節の「総督」は、ローマ帝国が支配している属州のうち、戦略的に重要な地域や治安が不安定な地域に派遣され、軍事・課税・司法・治安維持などに当たりました。

18節のピラトは、この時期のユダヤ属州総督。在任:AD26-36年。

イントロダクション

私たちはいろいろな選択肢を前にして、心が葛藤状態になることがあります。「Aを選ぼうか。でもAにはこういうデメリットがあるからなぁ。じゃあ、Bにしようか。でもBにはこういう難しさがあるからなぁ。あー、どうしよう」。

葛藤状態に悩む私たちに、神さまは今回のエピソードを通して、どんな助けを与えてくださるでしょうか。

1.十字架刑の決定

恩赦

祭りのための釈放
(15節)ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。

前回のメッセージを振り返りましょう。イエスさまを逮捕して、不当な裁判によって死刑判決を出したユダヤの指導者たちは、イエスさまをローマ帝国から遣わされたユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトの元に連れていきました( → エルサレムの地図)。

この当時、犯罪人を死刑にする権限がイスラエルから取り上げられていました。そこで、ピラトに裁判を開いてもらい、死刑判決を出してもらう必要があったからです。

ピラトはイエスさまを取り調べましたが、ローマ帝国の法律に違反しているという証拠を見いだせませんでした。そこで、無罪放免にしようとしましたが、ユダヤの指導者たちは激しく反発しました。そこで、ピラトはちょうど祭りに参加するためにエルサレムに来ていたガリラヤ国主ヘロデ・アンティパスの元にイエスさまを送りました。

ところが、ヘロデもイエスさまの罪を見いだせずにピラトの元にイエスさまを送り返してきました。そこで、ピラトは仕方なく裁判を開くことにしました。

ミハーイ・ムンカーチ作「ピラトの前のキリスト」
(画像引用:feel the art)
さて15節に、祭りのときに囚人が恩赦を受けるという習慣について書かれています。これは属州の人々の心をつかんで統治をしやすくするための政策です。
囚人バラバ
(16節) そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。

ピラトは、恩赦する囚人の候補として、バラバ・イエスという男に目を付けました。マルコとルカの福音書では、この男は暴動と人殺しの罪で捕らえられていたことが記されています。また、ヨハネによる福音書では強盗と書かれています。

おそらくバラバは、ローマ帝国の支配に反発して仲間たちと共に暴動を起こした際、他人の家に押し入って略奪行為を働き、そこで人を殺してしまったのだと思われます。

無罪判決のための努力

どちらのイエスか
(17節)それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」

バラバという名前はバル・アッバス、すなわち「アッバスの息子」という意味です。本名はイエスと言いました。イエスという名前は、ヘブル語読みをするとイェシュア、すなわちヨシュアで、イスラエルではよくある名前でした。コロサイ4:11にもイエスという名の人物が登場します。

ピラトはイエスさまを釈放するため、釈放するのは人殺しであるアッバスの子イエスか、それとも神の子イエスかと問いかけました。

ピラトの狙いとしては、極悪人であるバラバと、民衆に人気のあったイエスさまのどちらかを釈放すると言えば、さすがに民衆はイエスさまの方を支持するだろうと考えたのです。
指導者たちがイエスを捕らえた動機
(18節)ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。

イエスさまは、ユダヤの指導者たちよりも人気がありました。イエスさまも、彼らのことを偽善者呼ばわりし、激しく非難していました。そこで、彼らの指導者としてのプライドが傷つき、イエスさまに対する激しい嫉妬心が生まれました。そこで、イエスさまを取り除こうという思いになったのです。

ピラトは、そんな指導者たちの動機を見抜いていました。そこで、イエスさまを無罪放免にしようと努力していたのです。
ピラトの妻からの要請
(19 節)ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」

ここで、いったん裁判が中断されます。ピラトのもとに妻から伝言がもたらされたのです。ピラトの妻は、夜中に悪夢を見て苦しめられました。その夢は、イエスさまに関するものです。イエスさまが正しい人であること、そしておそらくイエスさまを有罪にするようなことをすれば、夫がひどい目にあってしまうというような内容だったのでしょう。

ちなみに、伝承によるとピラトの妻の名前はクラウディア・プロクラといい、後に回心してクリスチャンになったと言われています。そして、ギリシア正教会では聖人とされています。
民衆への根回し
(20節)しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。

妻からの言葉を聞いて、ピラトはますますイエスさまのことを無罪放免にしなければと決意したはずです。

ところが、伝言のために裁判が中断されたことで、かえってピラトやその妻の思惑とは違う事態を招くことになります。指導者たちが民衆に働きかけて、イエスさまではなくバラバを釈放することを求めるよう説得する時間を与えてしまったのです。
バラバだ
(21-23節)総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」

当初、イエスさまを十字架につけろと騒いでいたのは、ユダヤの指導者たちでした。しかし、今やたくさんの群衆が集まってきて、バラバを釈放してイエスは殺せと要求しています。
むち打ち
その後も、ピラトは何とかイエスの死刑を回避しようとして手を尽くします。

(ヨハネ19:1-5)それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
ピラトはイエスさまを十字架刑ではなくむち打ち刑にすることで、ユダヤの指導者たちに「これで勘弁してやれ」と言いたかったのでしょう。

さらにピラトはイエスさまにいばらの冠と、ヘロデが着せた紫の衣を付けさせて、民衆の前に引き出しました。みじめでおかしな格好のイエスさまを見せることで、「こんな奴が反逆なんか企てるはずがない」と思ってもらおうとしたのでしょう。

ところが、民衆はますます大声で騒ぎ立てるばかりでした。

判決

責任の放棄
(24節)ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」

大勢の民衆が騒ぐ様子を見たピラトは、このまま彼らの願いを退け続けると暴動に発展してしまうと恐れました。暴動を引き起こせば、皇帝にピラトの総督としての手腕を疑われかねません。

また、指導者たちはピラトに政治的な圧力も掛けてきました。

(ヨハネ19:12)ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

イエスは反逆者であり、そんな奴を釈放することはカエサル(皇帝)に背くことになると指導者たちはピラトに言います。つまり、もしイエスを釈放したら、あなたのことをカエサルに訴えるぞという脅しです。

そこで、ピラトは自分自身の政治生命と法律家としての良心を天秤に掛け、自分の政治生命の方を選ぶことにしました。

ピラトは水の入った器を用意させると、ユダヤの人々の前で自分の手を洗いました。これは、自分にはこの判決について責任がないというアピールです。そして、言葉でもそのように宣言しました。

無名の画家の作品「ポンティオ・ピラトの前でのキリスト」
(画像引用:MEISTERDRUCKE
民衆の返答
(25節)すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」

ピラトの言葉を聞いたユダヤの民衆は、「もしもイエスが無罪なのに死刑になるとしたら、その責任は私たちやその子どもたちが負ってもいい」と言いました。

この発言は、40年後に実現します。紀元66年にエルサレムで起こった暴動が全国に拡大しました。ローマ帝国は軍隊をユダヤに送って、紀元73年に暴動は鎮圧されました。第一次ユダヤ戦争と呼ばれる戦いです。紀元70年にはエルサレムが陥落して神殿も破壊されてしまい、多くのユダヤ人が命を失ってしまいました。
十字架刑の決定
(26節)そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスのほうをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

ピラトはバラバを釈放しました。そして、イエスさまの十字架刑が決まります。十字架刑の前には罪人をむちで打つことになっていましたから、またもやイエスさまはムチで打たれます。

ローマの刑罰で用いられるムチの先には、金属片や動物の骨のかけらが仕込んでありました。それで背中、胸、脇腹、顔、脚などを力一杯打ち叩くのです。そのため肉が裂け、骨までむき出しになったり内臓が飛び出たりする例もありました。

そのため、イエスさまは体も顔もズタボロになり、見るも無惨な姿になったはずです。このことは旧約聖書で預言されています。

(イザヤ52:14)多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。

こうしてイエスさまは、十字架につけられるため係の者に引き渡されました。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.正しい声の方を選ぼう

頭の中に響く複数の声

総督官邸には、「イエスには罪がないから釈放する」というピラトの声と、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶユダヤの指導者や民衆の声が響き渡っていました。その2つの声は、イエスさまを釈放するかどうかを巡るピラトの心の中の葛藤を現しています。

それと同じように、葛藤状態にある私たちの頭の中でも、複数の声が響きます。 私たちは考えるときに言葉を使います。あれこれ考えているときには、私たちの頭の中には声が響いているのです。
  • 「ダイエット中なんだから間食なんかしてはダメだ」という声と「今回だけ食べちゃおう」という声
  • 「本当のことを言って謝ろう」という声と、「嘘をついてごまかそう」という声
  • 「今の仕事を続けよう」という声と、「転職しよう」という声
  • 「今日はこちらの洋服を着よう」という声と「そちらの服にしよう」という声
  • 「今日は日曜日だから、礼拝に出席するためにそろそろ起きなきゃ」という声と、「今日は昼まで寝ていたい」という声
そして、どちらの声も「自分の主張の方を選べ」と私たちに迫ります。どちらかを選べば葛藤状態は解消されますが、選べなければいつまでも悩み続けることになります。あるいは、やがて時間切れでどちらも選べずに終わるでしょう。
ピラトには、「イエスを釈放せよ」という良心の声と、「イエスを十字架につけろ」というユダヤ人たちの声のどちらかを選ぶことができました。ピラトが裁判官なのですから、彼が死刑にするかどうかを選ぶことができたのです。

結局ピラトが選んだのは、「十字架につけろ」という声の方です。ピラトは、自分には十字架刑の責任がないと言いましたが、それでもそれはピラトが選んだ結果です。

私たちが葛藤状態に陥ったときも、最終的にどちらを選ぶかという選択権は私たちに与えられています。

判断の基準

ピラトはイエスさまを死刑にするかどうか葛藤しましたが、彼には法律というよりどころが与えられていました。

ローマの法律に則れば、イエスさまは反逆罪など死刑に相当する罪を犯していません。それはピラトもよく分かっていました。ですから、本来ならば法律に則って無罪を宣告しなければならなかったはずです。
私たちの判断基準
私たちにも基準が与えられています。それは神さまの語られた言葉です。神さまの言葉は聖書の中に記されていますから、聖書を読むことによって、私たちは神さまが定めた正しさの基準を知ることができます。

頭の中に様々な声が響いているときは、それについて判断できるような聖書の言葉を思い起こしましょう。そして、その言葉を自分自身に向かって投げかけ、何度も何度も反芻しましょう。状況的に可能であれば、声に出してつぶやきましょう。すると、目からだけでなく、耳からもみことばが入ってきて、より強力に心に響いてきます。

聖書自身が次のように述べています。

(ヘブル4:12)「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」。

ですから、聖書の言葉をしっかり蓄え、反芻するとき、聖書の言葉が私たちをあるべき方向に導き、造り変えます。
増田を励ました聖書の言葉
この話をお読みください。
私が福島県で中通りコミュニティ・チャーチを開いた際、使徒パウロの真似をして、教会からは給料をもらわないでやっていこうと決めました(今も続けています)。実際問題、ゼロからの開拓で家族以外メンバーがいなかったわけですから、自分の手で働かなければなりませんでした。ところが、当時は日本の景気が最悪の頃で、35歳だった私を雇ってくれる会社がなかなか見つかりません。

「このままでは一家が路頭に迷ってしまうに決まっている」「教会の開拓もうまくいかないだろう」「みんなの笑いものになる」というような否定的な言葉が頭の中に渦巻いて、「これは神さまが命じた働きなんだから、そして、みんなに祈られて福島に出てきたんだから絶対大丈夫」という声がかき消されそうになります。

そんなわけで不安でいたたまれない気持ちになっていたとき、祈っていると神さまがマタイ6:25-34に目をとめさせてくださいました。

マタイ6章
25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。


この約束によって、私は大きな平安を味わいました。その後も、不安になるたびにこの箇所を開き、何度も何度も口ずさみました。すると、「何とかなる。絶対に大丈夫」という平安が戻ってきます。

そして確かに、神さまは私たち家族を20年以上にわたって養ってくださいましたし、こんなに素晴らしい教会(建物ではなく、人々のことです)をこの地に建て上げてくださいました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

イエスの声

さて、怒号が飛び交う総督官邸でしたが、被告人であるイエスさまは、自分を弁明する言葉を一切発しませんでした。ただ静かにことの成り行きを見守っておられました。

ユダヤの指導者たちは、イエスさまを邪魔者扱いし、十字架につけて殺そうとました。しかし、聖書は、イエスさまが自らすすんで十字架につけられたと教えています。イエスさまはおっしゃいました。

(ヨハネ10:18)「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」。

裁判の席では沈黙しておられたイエスさまですが、十字架の上では口を開かれました。自分を十字架につけ、あざけっている指導者たちや民衆を見下ろして、イエスさまはこう祈られました。

(ルカ23:34)「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」。

イエスさまが自らすすんで命をささげたのはなぜでしょうか。それは、私やあなたの罪を赦し、神の子どもとし、永遠に続く祝福を受けることができるようにするためです。神さまは、心からあなたを愛しておられます。イエスさまは、文字通り命をかけてあなたへの愛を表されました。
それほどまでに愛に満ちた神さまが、あなたを決して間違った方向、不幸な方向に導くはずがありません。私たちは、神さまのみことばを、もっともっと慕い求めましょう。
W姉
この話をお読みください。
今年の10月最終日曜日には、新型コロナ感染防止のため開催を控えていた「召天者記念礼拝」を行ないます。私たちの教会では、2012年にW姉を天にお送りしました。

W姉が亡くなる少し前のことです。所有していた信仰に関する本やテキストを一時預かって欲しいと、大きな箱に入れて持ってこられたことがあります。中を見ていいということでしたから、いくつか拝見しました。

すると、結構専門的な内容の本やテキストもあり、聖書をよく学んでおられることが分かりました。悩んだり、迷ったりしたとき、聖書の言葉によって導かれ、慰められ、力づけられたいと強く願っておられたのですね。

私たちも見習いたいと思います。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

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