(2024年10月20日)
イエス・キリストが十字架にかけられて亡くなるまでの場面のうち、前半の場面です。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
いよいよ十字架の場面です。イエスさまが十字架にかけられたのが朝の9時頃で、午後3時頃に亡くなっています。そこで今週と来週で、前半の3時間と後半の3時間を分けて解説していきます。
十字架は、クリスチャンの信仰の中心です。イエスさまが十字架にかけられたという事実は、私たちにとって一体どんな意味があるのでしょうか。
1.午前中の出来事
十字架刑の執行
十字架にかけられた時刻
(マルコ15:25)彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
イエスさまが十字架にかけられたのは朝の9時です。これから6時間にわたって苦しみが続きます。
中世に描かれた多くの絵画では、手のひらと足の甲に釘が打たれていますが、そこは骨が弱いので体重を支えられずに引き裂かれてしまいます。実際には、手首の骨と骨の間、そしてくるぶしの下の所に釘が打たれました。

その際、脚は膝を曲げた状態で横に倒されました。これは、あまり高い位置にはりつけにしないためです。十字架刑は長時間にわたって苦しみを与えるための刑罰で、罪人を生かしておくために水分は必要なだけ与えられました。あまり高市に頭があると水分補給が大変ですし、死んだ罪人を取り下ろすのも大変です。
十字架にかけられる人のおしりが当たる部分には、体を支えられるようにちょっとした台が取り付けてあります。ただし、完全に座れるほどの幅はありませんから、そのままだと体が前に倒れて両手が後ろに引っ張られる格好になります。
その状態だと呼吸ができなくなるため、罪人は息をするために両手両足に力を入れて体を起こさなければなりません。その時、釘のところに力が加わるため痛みが激しくなります。
十字架にかけられた人は、健康な男性であれば通常3日間くらいは生きています。しかし、やがて体力がなくなって体が支えられなくなり、ついには窒息死してしまうのです。十字架は、長時間にわたって罪人をさらし者にし、そして苦しめ続ける残酷な死刑の方法でした。
罪状書き
(38節)「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
イエスさまは、ゴルゴタの丘で十字架にかけられました。その十字架には罪状書きが打ち付けてあって、「ユダヤ人の王」と書かれていました。
この罪状書きは、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。ヘブル語は現地であるユダヤ人の言葉、ラテン語はローマ人の言葉、そしてギリシア語は当時の地中海世界の公用語です。つまり、誰でも読むことができるように、3ヶ国語で書かれたわけです。
そして、この罪状が旗を掲げさせたのは、ローマから使わされたユダヤ属州総督ピラトでした。
(ヨハネ19:19-22)ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」
ピラトはイエスさまが死刑に値するような罪を犯していないどころか、ローマの法律に一切違反していないことを確信していました。しかし、ユダヤの指導者たちによって政治的に圧力を掛けられて、やむなくイエスさまの死刑を許可してしまいました。
彼がわざわざユダヤの指導者たちが嫌がる罪状書きを用意させたのは、せめてもの意趣返しと言ったところでしょう。
苦みを混ぜたぶどう酒の拒否
(マタイ27:34)彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
十字架にかけられる前、罪人には苦み、すなわち没薬や牛の胆汁を混ぜたぶどう酒が与えられました。この苦みには麻酔効果があって、痛みを少し和らげました。ただし、意識ももうろうとするため、イエスさまはそれを拒否なさいました。
イエスさまはこれから人類の罪の身代わりとして苦しみを味わわれます。イエスさまは意識がはっきりした状態で、すなわち苦しみを100%味わう状態で十字架刑に臨まれました。
イエスへの侮辱
くじ引き
(ヨハネ19:23-24)さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
十字架刑を執行するローマ兵は、4人一組でした。彼らには、罪人が身につけていたもの(外套、上着、肌着、頭に巻く布、そしてサンダルなど)を手に入れる権利が与えられていました。つまり、十字架にかけられる死刑囚は、素っ裸にされて公衆の面前に晒されることになります。
ただ、このたびは「下着」と訳されている衣服の分配方法が問題になりました。これは、ギリシア語では「キトン」で、日本人の私たちが想像するような下着(たとえばパンツやふんどし)とは異なります。今のファッションで言うとチュニックに近いものです。
イエスさまの着ていたキトンは一枚布で作られていたので、4等分してしまうと価値が下がってしまいます。そこで、兵士たちはクジを引いて誰のものになるかを決めました。これは詩篇22:18が実現したことだとヨハネは解説しています。
ユダヤ人による侮辱
(35節)民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
民衆や指導者たちは、イエスさまをあざけりました。イエスさまは自分が救い主だと自称していました。それが本当なら自分を救ってみろと彼らは言いました。十字架から自力で降りてくることができれば、信じてやるという皮肉です。
ローマ兵による侮辱
(36-37節)兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
ローマ兵たちも同様にイエスさまをあざけりました。
彼らが差し出した「酸いぶどう酒」は、ワインビネガーを水で割ったものだと考えられています。これは先ほど兵士たちが飲ませようとした鎮痛剤ではなく、喉の渇きを潤すためのものです。
とりなしの祈り
(34節)そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
前後しますが、イエスさまをあざける人たちを見下ろして、イエスさまは父なる神さまにとりなしの祈りをささげました。イエスさまの心は、私たち人間に対する深い愛と恵みに満ちています。イエスさまの愛は、敵をも慈しむ愛です。
しかし、ユダヤの人々もローマ兵も、イエスさまの取りなしを聞いても感動して悔い改めたりせず、むしろあざけりました。
犯罪人との対話
犯罪人の一人のののしり
(39節)十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
イエスさまと一緒に2人の犯罪人も十字架にかけられていました。彼らは、イエスさまの代わりに釈放されたバラバの仲間でしょう。もしそうなら、暴動を起こし、ついでに強盗殺人を犯した極悪人です。そのうちの一人も、イエスさまをののしりました。
イエスさまの赦し、恵みのありがたさを理解できなかったのです。
もう一人のたしなめ
(40-41節)すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
実は、最初のうちは2人ともイエスさまをあざけっていたことが、マルコ15:32から分かります。しかし、イエスさまのとりなしの祈りを聞いて、2人のうちの1人が感動のあまり心を入れ替えました。この罪人は、イエスさまが無罪だということを信じました。そして、なおも罵り続ける仲間をたしなめました。
イエスへの懇願
(42節)そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
心を入れ替えた罪人は、イエスさまに向かってこのようにお願いしました。御国というのは、救い主が来たら地上に実現すると旧約聖書で預言されてきた理想的な王国、神の国(天の御国、千年王国)のことです。救い主は神の国の王として君臨します。
つまりこの罪人は、イエスさまが救い主だと信じたということです。そして、今は十字架にかけられて自分度同じように苦しんでいるけれども、必ず神の国を実現なさると信じました。その神の国が実現したときには、どうか自分のことも思い出して欲しい、つまり自分をよみがえらせて神の国に招き入れて欲しいと願いました。
イエスから犯罪人への回答
(43節)イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
イエスさまは、この罪人が自分と共に今日のうちにパラダイスに入ると約束なさいました。パラダイスとは、死んだ人が復活を待つ間に入る安らぎの場所です。ルカ16章や当時のパリサイ人たちが残した文書では「アブラハムのふところ」と呼ばれています。
アブラハムのふところに入れられた人は、将来神の国が実現したときにそこに入ることが確定しています。ですからイエスさまは、自分を神の国に入れて欲しいと願った罪人の願いを聞かれたということです。
息子としての最後の責任
母マリアと使徒ヨハネへの言葉
(ヨハネ9:25-27)イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
ここに登場する「愛する弟子」とは、使徒ヨハネのことだろうと多くの学者が考えています。十字架のそばには女性たちと使徒ヨハネがいました。女性の内訳は、母であるマリア、そしてその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアでした。
- 母マリアの姉妹とは、使徒ヤコブとヨハネの母親であるサロメです(マタイ27:56とマルコ15:40参照)。
- クロパの妻マリアは、マルコ15:40では小ヤコブとヨセの母マリア。伝統的に、小ヤコブは十二使徒の一人であるアルファイの子ヤコブだとされています。
イエスさまは、使徒ヨハネに母マリアの今後の生活をゆだねました。本来なら、長男であるイエスさまがマリアを扶養しなければなりませんが、ご自分は間もなく死のうとしています。しかし、この時点で弟たちはまだ信仰を持っていなかったため、頼りにできませんでした。そこで、息子としての最後の務めとして、イエスさまは弟子であるヨハネにマリアのことを託したのです。
この時点で、マリアとイエスさまの親子関係は終了しました。今後マリアにとって、イエスさまは息子ではなく主です。イエスさまが天にお帰りになった後、120人ほどの弟子たちが一緒にいて祈っていましたが、その中に母マリアの姿もあります(使徒1:14)。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.自分が神の国に招かれていることを知ろう
神の国の祝福
イエスさまは、強盗殺人を犯した罪人が神の国に入ることができると約束なさいました。そして、私たちもまた神の国に招かれています。
自分は神の国の市民権を持っていて、今もそして死んでからも神の国の市民であり続けるという信仰は、私たちに希望を与えます。
死の恐れからの解放
まず、死に対する恐れを軽くします。私たちはよく分からないものを恐れます。死んだらどうなるんだろう。意識も何もすべて無くなってしまうのだろうか。残された家族はどうなるのだろう。
私が子どもの頃、熱を出すといろんな変な夢を見ました。最も恐ろしかったのが、「自分がいない世界の夢」です。自分は最初からこの世に存在せず、それでも日常生活がたんたんと過ぎていくという夢。これは本当に恐ろしかったです。死ぬことイコール存在が無くなることだとしたら、それはとても恐ろしいことです。
たとえ、家族や友だちが自分のことを覚えてくれていたとしても、私が曾祖父や曾祖母より以前の先祖たちのことをまったく知らないように、自分はやがて誰からも忘れ去られてしまい、自分が生きていたという証拠すらなくなってしまうことでしょう。そんなことを考えていては安心して生きていけませんが、クリスチャンになる前はふとしたことでそのことを思い出して悶々としていました。
また、私たち人間には、たとえ自分は無神論者だと言いながらも、どこかに神さまの罰を恐れる思いがあります。死んだらどうなるんだろうという恐れの中には、死後の刑罰を恐れる気持ちも含まれるでしょう。
しかし、イエスさまが私たちを神の国の一員にしてくださるなら、私たちは死後の運命について明確になります。私たちは神さまの元に行き、罰を与えられるのではなく、ねぎらいと大いなる祝福をいただきます。そして、神さまは私たちを永遠に幸せにしてくださいます。
無意味な人生からの解放
そして、人の一生は死んで終わりではないということを知れば、人生に意味を見いだすことができます。
もしも、死んで終わりだとすれば、真面目に生きてもそうでなくても変わりがありません。長生きか短命かということも、永遠という時間に比べれば意味をなしません。これを突き詰めていけば、「人生とは暇つぶしである」という虚無感にとらわれることになるでしょう。キリストの栄光教会の川端光生牧師は、これを「死んだら無シンドローム」と名付けました。
「死んだら無シンドローム」の例が、旧約聖書の伝道者の書に描かれています。著者である伝道者とはソロモン王のことだと言われています。確かにソロモン王と同じようにこの伝道者は知恵にあふれ、たくさんの財産を手に入れ、多くの美女たちに囲まれ、地上で経験できるありとあらゆる快楽を経験しました。しかし、人生が死んで終わりならそれに何の意味があるのかと悩みます。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか」(伝道者1:2-3)。
そして、最後の最後に伝道者は悟りました。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(伝道者12:13-14)。
神さまの存在を前提にすれば、そして神さまが人間の永遠の運命を握っておられるのだということを知れば、人生は死で終わりません。私たちはこの地上に生きているときに行なったことすべてが、神さまによって覚えられていて、たとえこの地上で報われなかったとしても、死んだ後にしっかりと報いをいただくことができます。仮にこの地上で目に見える成果を出せなかったとしても、それは神の国が発展するために必要不可欠の働きだったと認められ、ねぎらわれ、感謝されます。
だからクリスチャンたちは、たとえ誰からもほめられず、認められなくても、かえってバカにされたり、邪魔をされたりするようなことでも、それが神さまの喜ばれることならば、見返りを求めず努力することができるのです。
孤独からの解放
そして、神の国はその名の通り三位一体の神さまのいらっしゃる場所です。私たちは決して孤独ではありません。永遠に神さまと共に住み、神さまと愛の交わりを持つことができます。
しかも、神さまとのその交わりは、生きている今この時も体験することができます。
罪人を招く愛
では、どんな人が理想的な王国である神の国に招かれているのでしょうか。立派な行ないをする正しい人でしょうか。お金をたくさん持っている人でしょうか。ノーベル賞がもらえるような頭のいい人でしょうか。社会的に成功した人でしょうか。
いいえ。イエスさまは、策略によってご自分を死刑に追い込み、さらに口汚く罵る人たちのためにとりなしの祈りをささげてくださいました。イエスさまは、彼らを赦そうとしてくださったのです。
そしてイエスさまは、十字架にかけられている極悪人に、優しく語りかけました。この罪人は、間もなく死のうとしています。この後、償いのために正しい行ないをすることもできません。それでもイエスさまはこの人の罪を赦し、死んだ後に天のパラダイスに入り、さらには復活して神の国に入ることができる権利をお与えになりました。
イエスさまの愛は、赦しの愛です。誰も、自分の正しさによって救われ、神の国に入る権利を受け取ることはできません。なぜなら、人間には罪があるからです。罪とは、神さまの存在や尊厳を否定したり値引いたりすること、そして神さまに従わずに自分勝手に生きることです。
本来なら、正義である神さまは罪人を裁いて罰として滅ぼさなければなりません。しかし、神さまは私たちを赦し、神の国に招きたいと願ってくださいました。そこで、罪の罰を身代わりにイエスさまが受けることによって、すなわち十字架にかかることによって、私たちの罪が赦され、神の国に入る権利を手に入れるという道を開いてくださったのです。
あなたも私もイエスさまによって赦されています。そして、将来復活して神の国に入るよう招かれています。
信仰によって
しかし、実際に罪が赦されて神の国に入る権利を手にするには、信仰が必要です。2人の犯罪人のうち、罪を赦されて神の国の約束を手にしたのは、イエスさまが神の国の王である救い主だと信じた一人だけです。母であるマリアでさえも、イエスさまを単に息子としてではなく救い主として信じなければなりませんでした。
具体的には何を信じれば罪を赦され、神さまとの関係が回復し、将来神の国に入る権利を受け取れるのでしょうか。それは、「恵みの福音」と呼ばれている次の内容が本当だと受け取ることです。「この私の罪を赦すために、イエスさまが十字架にかけられたこと。そして、イエスさまは死んで葬られ、3日目に復活なさったこと」。
あなたはこの恵みの福音の内容を事実だと信じますか? もしそうなら、今あなたの罪は本当に赦され、神の国の市民権を手にします。
すでに恵みの福音を信じた私たちは、自分の罪が赦されていること、そして何があってもそれが取り消しになることはなく、将来必ず復活して素晴らしい神の国に入れることを信じ続けましょう。それによって、私たちはいつも喜びや希望を持って生きていくことができます。その喜びや希望は、神さまに従って正しい生き方がしたいという原動力になります。
今週も、イエスさまの十字架の愛と共に喜びの生活を送りましょう。