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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

キリストの埋葬と黄泉下り

イエス・キリストの生涯シリーズ103

ヨハネによる福音書19章31節〜42節

(2024年11月3日)

イエス・キリストが十字架にかかって死んだ後、埋葬されるシーンについて解説します。さらに、その後黄泉(よみ)に下ったことについても触れます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む31節の「備え日」は、安息日の前の日のこと。 「大いなる日」は、祭りの期間と重なる安息日のこと。

35節の「目撃した者」は、この福音書を書いた使徒ヨハネ。

36節は、詩篇34:20「主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない」からの引用。また出エジプト12:46で、過越の食事で食べる子羊の骨は折ってはならないと定められていることとも関連しています。

37節は、ゼカリヤ12:10「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く」からの引用。

38節の「アリマタヤ」は、エフライム山地の西部に位置した町で、預言者サムエルの出身地であるラマタイム・ツォフィム(ラマ)と同じだと考えられています。現在のレンティス。

(画像引用:いのちのことば社「新聖書辞典」)
39節の「100リトラ」は、約32.8キログラム。

39節の「没薬」は、カンラン科植物の樹脂。香りを生かした香料の他、強い殺菌作用があるため鎮痛剤や鎮静剤、エジプトのミイラ作りの際の防腐剤としてとしても用いられました。ユダヤでは、遺体に亜麻布をまく際に塗られました。

39節の「沈香」は、ジンチョウゲ科植物の樹脂が木の内部に沈着したもの。香料として用いられました。なお、新改訳第3版や欽定訳などでは「アロエ」と訳しています。

イントロダクション

イエス・キリストが十字架にかかって死んだ後、その遺体は取り下ろされて埋葬されました。そして、肉体から分離したイエスさまの霊は、黄泉(よみ)に下りました。

ここから、苦しみに遭ったときの態度について学びましょう。

1.イエスの埋葬

遺体取り降ろしの願い

指導者からピラトへの願い
(31節)その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。

モーセの律法には、木にはりつけになって死んだ者は神さま呪われた者であって、イスラエルの地を汚さないようその遺体を翌日まで木に残していてはいけないという命令がありました(申命記21:22-23)。

そして、その日は金曜日で、日が沈むと安息日が始まります。特に過越の祭りと重なる安息日は「大いなる日」と呼ばれて神聖視されていましたから、ユダヤの指導者たちはイエスさまや一緒に十字架につけられた2人の犯罪人を十字架から取り降ろすよう総督ピラトに願いました。

その際、脚を折るよう願っています。十字架にはりつけになった人は、そのままだと体が前に倒れて両腕が後ろに引っ張られ提起ができなくなります。そこで、踏ん張って体を起こさなければなりません。脚の骨を折られると体が支えられなくなりますから、すぐに窒息死してしまうのです。

(画像引用:ロゴス・ミニストリー)
2人の犯罪人の死
(32節)そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。

総督ピラトは、指導者たちの願いを聞き入れ、イエスさまを含む3人の脚を折るよう指示しました。そこで、兵士たちは犯罪人たちの脚を折って殺しました。
イエスの脚は折られなかった
(33節)イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。

十字架にかけられると、健康な成人男性の場合には3日ほど生きていました。しかし、イエスさまは前の晩からほとんど一睡もできず、激しいむち打ち刑に合い、そして全人類の罪の身代わりとして神さまに呪われるという大変な重荷を負われました。そこで疲労困憊しておられたイエスさまは、わずか時間で亡くなってしまいました。

そこで、他の2人の犯罪人と違って、イエスさまの脚は折られませんでした。
槍で刺される
(34-35節) しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。

兵士の一人がイエスさまの脇腹を槍で刺しました。おそらく、本当に死んでいるのだということを確認したのでしょう。

すると血と水がイエスさまの遺体から出てきました。このことが何を現しているかについては、さまざまな解釈が成されています。たとえば、「血が聖餐式、水は洗礼式を表している」とか、「教会が十字架と聖霊によって誕生したことを表している」とかいった解釈です。

ただ、このような象徴的な解釈は際限がありません。ここではイエスさまが確実に死んでいたことを示すための証言だと受け取りたいと思います。イエスさまは本当は肉体を持っていなかったわけではないし、死を装っていたわけでもありません。肉体的に本当に死なれました。

ルーベンス作「キリストの磔刑」
(画像引用:art-library.com)
預言の成就
(36-37節)これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。

使徒ヨハネは、イエスさまの脚の骨が折られなかったことは、詩篇に書かれている預言の成就だと語っています。(詩篇34:20)「主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない」。

また、骨が折られなかったことは、過越の祭りで食べられる子羊の骨は折ってはならないとする、モーセの律法の規定(出エジプト12:46)との関連もうかがわせます。過越の食事で子羊の肉を食べるのは、出エジプトの際のエピソードを記念してのことです。

イスラエルを奴隷状態から解放しようとしないエジプトに対するさばきとして、神さまは10の災害を下しました。その10番目のさばきは、エジプト中の人や家畜の長男が死んでしまうというものでした。

ところが、イスラエル人もエジプトの中に住んでいましたから、このままではイスラエルの人の子どもや家畜の子も死んでしまいます。そこで神さまは、子羊を殺してその血を家の門柱とかもいに塗れば、さばきを下すために来られた神さまがその家を通り過ぎると約束なさいました。こうして、子羊が身代わりになることによって、イスラエルの子どもや家畜は守られました。

そんな過越の子羊と同じように、イエスさまは人類の身代わりとして神さまのさばきを引き受けました。人類に罪の罰が下らないようにするためです。イエスさまは過越の子羊として命をささげました。

また、イエスさまが槍で刺されたことについては、 参考資料に書いたように、ゼカリヤ12:10の預言が成就したのだと使徒ヨハネは書いています。

埋葬

アリマタヤのヨセフの願い
(38節)その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。

アリマタヤのヨセフという人が登場します。この人について他の福音書では、次のように書いています。金持ち(マタイ27:57)、有力な議員(マルコ15:43)、神の国を待ち望んでいた(マルコ15:43)、善良で正しい人(ルカ23:50)。

この人はイエスさまのことを、旧約聖書が登場を約束していた救い主だと信じていました。しかし、当時のイスラエルではほとんどの指導者がイエスさまを信じず、むしろ悪霊の力によって奇跡を行なっている者だと公式決定していました。そのため、迫害を恐れて公にその信仰を告白できないでいました。

ところがこの時、ヨセフは総督ピラトの元に行って、自分にイエスさまの遺体を取り降ろさせて欲しいと願いました。これは、自分がイエスさまの遺体を埋葬するという申し出です。ピラトはこれを許可しました。

通常なら、十字架にかけられて死んだ人の遺体は、エルサレムの外の谷に投げ捨てられました。そこまで含めて十字架刑なのです。ですから、ヨセフへの遺体の下げ渡しは異例の待遇です。

ピラトはイエスさまの無実を信じていましたが、ユダヤの指導者たちに政治的圧力をかけられて、渋々イエスさまの十字架刑を決めました。指導者たちに対するせめてもの反抗だったのかもしれません。

ルーベンス作「十字架降下」
(画像引用:光の色彩を求めて)
ニコデモの来訪
(39節)以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

ヨハネ3章に登場したニコデモも、遺体に塗るための香料を持ってきました。ニコデモもアリマタヤのヨセフと同様、最高法院(サンヘドリン)の議員です。教会の伝承やユダヤ教の文書によれば、ニコデモもイエスさまを信じていました。
遺体の防腐処置
(40節)彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。

当時のイスラエルでは、埋葬の際に没薬を遺体に塗ってから包帯状の亜麻布でぐるぐる巻きにしました。
新しい墓への埋葬
(41-42節)イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。

イエスさまは新しい墓に葬られました。当時の埋葬は2段階で、まず遺体を横穴式の墓に納めます。そして、白骨化したら骨壺に入れ、穴の奥にある専用の部屋や別の場所に安置しました。

そして、この墓はアリマタヤのヨセフが所有していたものでした。

(マタイ27:59-60)ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。

イエスさまが亡くなったのが午後3時で、ヨセフがピラトに遺体の下げ渡しを願っているうちに日暮れが近づいていました。安息日が始まると埋葬ができない決まりになっていたために、ヨセフたちは超特急で遺体の処置や埋葬を終えなければなりませんでした。墓の手配も間に合わないため、ヨセフは自分の墓を提供することにしたのです。

黄泉降り

さて、イエスさまが亡くなったのが金曜日の午後で、復活なさるのが日曜日の朝です。この2日間、イエスさまは何をしておられたのでしょうか。ペテロがそのことについて手紙の中に記しています。

(第1ペテロ3:18-20)キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。

イエスさまが亡くなると、霊が肉体から離れました。そして、イエスさまの霊は「捕らわれている霊たちのところ」に行かれました。これは、ヘブル語でシオール、ギリシア語でハデスと呼ばれている場所です。日本語訳聖書では「黄泉(よみ)」などと訳されます。人が死ぬと肉体は朽ちてしまいますが、魂はシオールに送られます。
シオールは4つのエリアに分かれています(詳しくはこちらの記事をご覧ください)。

そのうち2つは死んだ人間の魂が行く場所です。一つはパラダイスとかアブラハムの懐とか呼ばれる安らぎの場所。もう一つがヘブル語でアバドン(狭い意味でのハデス)と呼ばれていて、苦しみの場所です(ルカ16章参照)。イエスさまには罪がありませんから、イエスさまの霊が送られたのはもちろんパラダイスの方です。
  • 今の時代は、パラダイスはイエスさまの昇天と共に天に引き上げられたので、シオールの中にはありません(エペソ4:8)。
残る2つは悪霊たちの一部が送られる場所です。それぞれアブソス、そしてタータラスと呼ばれていますが、タータラスには創世記6章に登場する特定の悪霊が入れられています。
人の娘と神の子の結婚
ノアの洪水の前、「神の子」が人の娘と結婚し、ネフィリムと呼ばれる超人を生み出し始めました。旧約聖書で「神の子」は天使を表します。聖なる天使は結婚しませんから(マタイ22:30)、この場合は堕落した天使、すなわち悪霊たちです。

その結果、世界中が罪の方向に大きく傾いてしまいます。このままでは、やがて純粋な人間が一人もいなくなってしまっていたでしょう。そうなると、創世記3:15で人間の女性から生まれると預言された救い主も誕生しなくなってしまうことになります。これは、サタンが自分を滅ぼす救い主を誕生させないようにするために選んだ策略です。

そこで神さまは大洪水によって、ネフィリムや罪を犯して悔い改めない人間を地上から一掃なさって、信仰深いノア一家から人類の歴史を再スタートさせました。そして、悪霊たちが二度と人間と結婚することがないように、この悪巧みに加担した悪霊をタータラスに閉じ込めてしまわれたのです。
イエスの宣告
では、ペテロが手紙の中で語った「ノアの時代に従わなかった霊たち」とは、誰のことでしょうか。2つの解釈があります。一つは、ノアの時代の不信者たちのこと。もう一つが、先ほど申し上げたタータラスに閉じ込められた悪霊たちのことです。

聖書は人間のことを「霊」と表現していないので、おそらくペテロが語っているのは悪霊たちのことでしょう。とすると、亡くなったイエスさまの霊はパラダイスに行き、そこからタータラスにいるあの悪霊たちに呼びかけました。

何を宣言なさったのでしょうか。ペテロが第一の手紙を書いたのは、迫害で苦しむクリスチャンたちを励ますためです。その一環として、あの箇所でイエスさまが苦しみに勝利なさった方だということを書いています。ですから、よみに降ったイエスさまがなさったのは、悪霊たちに対する勝利宣言でしょう。

サタンや悪霊たちがどんなに策略を巡らせようと、そして一見彼らが買ったように見える状況になったとしても、最後には必ずイエスさまが勝利なさいます。そして、神さまの救いの計画は決して邪魔されることはありません。そんな勝利宣言です。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.苦しみの中で勝利を宣言しよう

苦しみがあるのは異常事態ではないことを知ろう

聖書は、クリスチャンに何の問題もなく、願い事が何でも叶うバラ色の人生を約束して「いません」。むしろイエスさまは弟子たちに、「世にあっては苦難があります」(ヨハネ16:33)とおっしゃいました。

ペテロも次のように語っています。

(第1ペテロ4:12)愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

サタンや悪霊たちは、私たちが苦しみに遭うと、心の中に嘘を吹き込もうとします。それは、「こんなに苦しい目にあっていて、祈っても祈っても解決しないということは、お前は神に愛されていないのだ。むしろ呪われているのだ」という嘘です。

それは嘘です。苦しみは神さまに愛されていない証拠ではありません。神さまに見捨てられた証拠ではありません。

罪を犯して悔い改めないでいると、神さまが教育的指導として私たちを苦しみに遭わせる場合があります。しかし、そのような場合は、特定の罪の結果起こっている苦しみだということが私たちにはっきりと分かります。

罪の結果与えられる苦しみでさえも、罪を捨て去って神さまとの親しい交わりを取り戻して欲しいという神さまの愛のわざなのです。

今あなたが苦しみを体験しているとしたら、自分はそれでも神さまに愛されているのだということを思い出してください。

神の計画は挫折しないことを知ろう

ヨハネ16:33で「世にあっては苦難があります」とおっしゃったイエスさまは、続けて次のように宣言なさいました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」。

人間的に見るなら、地上に神の国を打ち建てるはずだった救い主イエスさまは、志半ばで殺されてしまったかに見えます。しかし、イエスさまが十字架で亡くなることも神さまの救いのご計画のうちでした。

サタンや悪霊たちは、私たちが苦しみに遭うと、心の中に嘘を吹き込もうとします。それは、「お前は決して幸せになんかなれないのだ」という嘘です。

神さまは私たちを救い、私たちに本当の幸せを与えるご計画をお持ちです。そして、その神さまのご計画は、悪魔でさえも邪魔することはできません。そのことをイエスさまは、よみに閉じ込められている悪霊たちに宣言なさいました。

あなたは絶対に幸せになることができます。たとえ地上ではそれが実感できなかったとしても、死んだ後入れられる天のパラダイスにおいて、さらに地上に実現する千年王国(神の国、天の御国)において、さらにさらにその後実現する新しい天地において、私たちは考えられないほどの幸せを体験できます。

それを邪魔することはどんな権力を持っている人でも、またサタンや悪霊たちにもできません。苦しみを体験したときには、そのことをいつも思い出しましょう。

勝利を宣言しよう

たとえ苦しみに遭ったとしても、それはあなた神さまに愛されていないという証拠ではありません。あなたが幸せになれないという証拠でもありません。イエスさまはご自分の命をささげるほどにあなたのことを愛してくださっています。そして、必ず幸せにすると約束してくださっています。
順風満帆のときに神さまの愛や幸せの約束について信じるのはたやすいでしょう。苦しみに遭ったときこそ、イエスさまがよみで悪霊どもに勝利宣言をなさったように、イエスさまによる勝利を自分に向かって宣言しましょう。

この話をお読みください。
Aさんは、子どもの頃に両親から虐待を受けていたそうです。そのため、大人になってからも「自分は誰からも愛されていない」という思いにずっと苦しめられてきました。そして、なかなか人を信頼できませんでした。たとえ仲良くなったとしても、「いつか必ず捨てられる」という不安が襲ってきて、捨てられる前にこちらから関係を切ってしまっていました。

Aさんはクリスチャンでしたが、祈るとどこかから「お前の祈りなんか、神が聞くはずがない」という声が響いてきて、怖くて祈ることができないとおっしゃいます。

そこで一緒にお祈りしました。「神さま。自分は誰にも愛されていないという思いから抜け出せなくて苦しいです。あなたに見捨てられるのが怖くて、祈ることさえできません。どうかお助けください」。

そして、Aさんが神さまに愛されている証拠は、イエスさまがAさんの罪を赦して救うために命を投げ出されたことだと申し上げました。さらにこんなふうに宣言してもらいました。「私は神さまに愛されている。イエスさまが身代わりになってくださるほど大切にされている。だから絶対幸せになれる」。何度も何度も何度も何度も……。

そのうちにポロポロとAさんは涙を流し始めました。その日から、Aさんは毎日あの宣言を自分に向かってなさいました。そして、だんだんと「自分は愛されていない」という強迫観念から解放されていき、親密な人間関係も築けるようになっていったという報告をいただきました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
あなたもイエスさまに愛されています。ですから、必ず幸せになれます。そのことをいつも自分自身に向かって宣言しましょう。

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