(2024年11月10日)
イエス・キリストの復活に関する記事です。使徒トマスが復活を疑い、その後信仰告白をしたエピソードを取り上げます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
19節の「週の初めの日」は、日曜日のこと。
24節の「デドモ」は、双子という意味。トマスに双子のきょうだいがいたのかどうかは不明。
26節の「8日後」は、翌週の日曜日。日本語訳だと月曜日だと思えますが、古代イスラエルでは当日も日数にカウントしました。
イントロダクション
イエスさまは弟子たちに「平安があなた方にあるように」(ヘブル語で、シャローム・アレヘム)と声をおかけになりました。これはユダヤ人の普通のあいさつの言葉ですが、実際にイエスさまは弟子たちに平安をもたらしてくださいました。
私たちは、様々な理由で平安を失ってしまいます。しかし、復活し今も生きておられるイエスさまは、私たちにも平安を与えようとしておられます。今日はそのことを確認して、平安をいただきましょう。
1.平安があるように
トマス以外の弟子たちへの顕現
隠れていた弟子たち
(19節前半)その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。
イエスさまが復活なさったのは、過越の祭りの2日後、日曜日の朝でした。この日にはさまざまなことが次々と起こりました。4つの福音書がそれぞれにエピソードを載せていますが、それらを時系列に並べたものを作りました(あくまでも増田牧師の解釈です)。
参考まで。
そして、夕方になりました。イエスさまの弟子たちは、一箇所に集まっていました。場所はエルサレムです。もしかしたら、最後の晩餐が行なわれた家(伝統的にはマルコの母の家)かもしれません。
実は、イエスさまの墓を見に行った女性の弟子たちに、天使が現われて次のような言づてをしました。
(マルコ16:7)さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
「前に言われた」とは、最後の晩餐が終わってゲツセマネの園に向かっている途中で語られた言葉を指しています。
(マタイ26:32)しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
つまり、イエスさまは使徒たちがエルサレムを離れ、ガリラヤに向かうことを望んでおられたということです。
最初、女性たちは天使に会ったことで気が動転し、恐れのあまり口をつぐんでいましたが(マルコ16:8)、後に勇気を出して使徒たちに報告しました(ルカ24:9)。ところが、使徒たちはエルサレムを離れようとしません。それは、ユダヤの指導者たちを恐れていたからです。
イエスさまは、ご自分のことを聖書が登場を約束している救い主(メシヤ、キリスト)だと主張なさいました。ユダヤの指導者たちはそれを受け入れず、国として公式に否定しましたが、個人的には多くの人々がイエスさまを救い主だと信じ、従うようになっていきました。それを苦々しく思った指導者たちは、ついにイエスさまを逮捕し、十字架につけて殺してしまったのです。
指導者たちは、イエスさまに従っていた弟子たちのことは鼻にもかけていませんでした。「リーダーであるイエスを取り除きさえすれば、熱が冷めてまともな生活に戻るだろう」と考えたのでしょう。しかし、そんなことは知らない当の弟子たちは恐れていました。自分たちも逮捕され、殺されてしまうのではないかと考えていたからです。
イエスの顕現とあいさつ
(19節後半)すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
突然、復活のイエスさまが部屋の中に現われました。鍵をかけてあったはずですが、復活の体は難なく通り抜けることができたのです。そしてイエスさまは弟子たちにあいさつの言葉を投げかけました。
シャローム・アレヘム、平安があなた方にあるように。
喜ぶ弟子たち
(20節)こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスさまは、十字架にかけられたときに釘を打ち込まれた手首の傷、そして死んだ後に突き刺された脇腹の傷を弟子たちに見せました。完全な復活の体なのに傷が残っているのはなぜでしょうか。
クレオパともう一人の弟子が復活したイエスさまと再会したとき、最初二人は目の前にいる人がイエスさまだと気づきませんでした。復活の体は、よく見ると本人の特徴を残していたとしても、一見本人だと気づかないほどに変えられているようです。
ですから、復活した栄光の体に傷跡が残っているのは、弟子たちに自分が本当にイエスだということを示すためです。
復活後、これまでイエスさまが姿を見せたのは、マグダラのマリア、他の女性たち、クレオパともう一人の弟子、そしてペテロです。他の弟子たちは初めて復活のイエスさまと会います。その結果、先ほどまで指導者たちに対する恐れでふさがっていた彼らの心は、喜びに満ちあふれました。
弟子たちを派遣するとの宣言
(21節)イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
イエスさまは、もう一度「平安があなた方にあるように」とおっしゃいました。これはユダヤ人のあいさつの言葉ですが、すでにあいさつは済んでいます。ですから、これは単なるあいさつではなく、本当にイエスさまが平安を弟子たちに与え、さらに豊かに与えようとしておられることを示しています。
そしてイエスさまは、弟子たちを派遣するとおっしゃいました。それは、父なる神さまが御子イエスさまを地上に派遣なさったように、というわけですから、かなり重要な任務を帯びての派遣だということが予想できます。
聖霊を受けよ
(22節)こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊は神さまの霊です。神である聖霊さまが弟子たちの内に宿ります。そして、重要な任務を遂行するための知恵や力を弟子たちに与えてくださいます。
イエスさまのこの言葉は、50日後のペンテコステの日に実現します。その日、天から聖霊さまが下ってこられ、弟子たちの内に住んでくださるようになりました。
では、弟子たちが派遣される重要な働きとはどういうものなのでしょうか。
赦しの権限
(23節)あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
この言葉は、弟子たちが神さまに成り代わって、人の罪を赦したり赦さなかったりするという意味ではありません。人の罪を赦すことができるのは、神さまだけです。これは、弟子たちが赦しのメッセージを携えて全世界に出ていくということを表しています。
弟子たちが人々に伝える赦しのメッセージとは、「イエスさまがあなたの罪を赦すために十字架にかけられ、死んで葬られたけれども3日目に復活なさった」という内容です。
それが真実だと信じて受け入れた人は、本当に神さまに罪を赦していただけます。弟子たちは、信じた人に向かって確信を持って「あなたは赦されました。それどころかあなたは神さまの子どもにしていただいて、永遠に祝福され続けます」と宣言することができます。」
しかし、信じない人は赦しを受け取らなかったということですから、罪がそのまま残ります。
そのような任務を帯びて世界中に出て行く弟子たちは、迫害を経験することもあります。それ以外にもさまざまな困難に直面するでしょう。たとえば、あちこちを旅行しながら伝導することになりますから、体力の問題や経済的な問題にぶつかるかもしれません。
しかし、イエスさまはそんな弟子たちを丸腰で送り出したりはなさいません。イエスさまは彼らに平安を与えてくださり、助け主である聖霊さまを送ってくださるのです。
トマスの不信仰な発言
トマスの不在
(24節)十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
トマスは、買い物に行っていたのか、それとも別の場所に隠れていたのか、その時は不在でした。トマスがそこに来たときには、すでにイエスさまは姿を消していました。つまり、トマスはこの日、イエスさまに会えなかったのです。
信じなかったトマス
(25節)そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
ほかの弟子たちは興奮して、「イエスさまが復活なさって、ここに来られた」とトマスに言いました。ところが、トマスは一笑に付しました。「そんなの信じられるか。俺はこの目で見なければ信じない。この手で触らなければ信じない」。
この発言のおかげで、この2千年間、彼は「疑り深いトマス」という不名誉なあだ名で呼ばれています。しかし、彼だけをそんなふうに揶揄するのはどうかと私は思います。女の弟子たちがイエスさまに会ったと報告したとき、他の使徒たちだって信じようとしなかったのですから(ルカ24:11)。
それに、トマスの立場に立ってみれば、こんなふうに喜んでいる仲間たちに冷や水をぶっかけるような言葉を吐く気持ちも、分からないではありません。
トマスは他の弟子たち同様、イエスさまを心から愛していました。家も仕事も捨ててイエスさまに従ってきました。それなのに、自分だけが復活のイエスさまに会うことができなかったのです。もし本当にイエスさまが復活なさったのだとすれば、どうして自分がいないタイミングで姿を現されたのでしょうか。
「どうして?」というこの問いに対して、トマスはすでに、自分の頭の中に答えを用意していました。どんな答えを用意していたと思いますか? おそらく「イエスさまは自分のことなんかどうでもいいと思っておられたから」、でしょう。その結果悲しくなり、仲間たちに嫉妬して、冷や水をかぶせたくなったのでしょうね。
トマスの信仰告白
8日後の顕現
(26節)八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
復活から1週間後の日曜日がやってきました。使徒たちはまだガリラヤに向かわず、エルサレムにとどまっていました。もしかしたら、トマスが「復活なんて信じない。当然ガリラヤになんか行くものか」と主張してごねたためかもしれません。
そんな弟子たちの元に、またもやイエスさまが姿を現され、「平安があなた方にあるように」という言葉をおかけになりました。
今回、イエスさまは特に、前回その場にいなかったトマスに会いに来られました。復活を信じて喜ぶことができず、それどころか嫉妬と自己憐憫に苦しんでいたトマスに、平安をもたらすためです。
トマスへの語りかけ
(27節)それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエスさまはトマスに、「この手首の傷痕を見よ。そこにあなたの指を差し入れよ。それから、この脇腹の傷にあなたの手を差し入れよ」とおっしゃいました。1週間前、自分だけイエスさまに会えず、何だか見捨てられたような気がして悔し紛れに言ったトマスの言葉を、そこにいなかったはずのイエスさまは聞いておられました。姿は見えなくとも、イエスさまはトマスと共にいてくださったのです。
西洋の絵画で、トマスがイエスさまの脇腹に手を差し入れている場面を描いたものがよく見られます。

マティアス・ストーム昨「聖トマスの懐疑」
(画像引用:Wikipedia)
でも、本当に指を差し入れたと思いますか? おそらく、イエスさまの言葉を聞いて、すぐに彼はひれ伏したことでしょう。そして、彼はイエスさまに向かって信仰告白をします。
トマスの信仰告白
(28節)トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
トマスのこの言葉は、イエスさまが救い主であること、そして人となられた神であることを信じているというものです。
もちろん、トマスはイエスさまのことを、旧約聖書が登場を約束してきた救い主だということを信じました。だからこそ弟子としてイエスさまについてきました。ここでは、その信仰が畏敬の念とともに改めて湧き上がってきたのです。
見ないで信じるものは幸い
(29節)イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
トマスはイエスさまの姿を見て、イエスさまが復活なさったことを信じました。トマスだけではありません。他の使徒たちも、クレオパともう一人の弟子も、そして女の弟子たちも、最初はみんなイエスさまが復活することを信じていませんでしたし、期待すらしていませんでした。彼らもまた、イエスさまを直接見ることで信じることができたのです。
それでも、弟子たちは信じました。それは幸いなことです。一方、ユダヤの指導者たちは信じませんでした。イエスさまの墓が空っぽになったことを知ったにもかかわらず、「弟子たちが遺体を盗んだのだ」というデマを流してごまかそうとしました。ですから、見て信じられたトマスたちは幸いです。
しかし、さらに幸いな人たちがいるとイエスさまはおっしゃいました。それは、見ないで信じる人たちです。それは誰ですか? 皆さんと私です。皆さんも私も、イエスさまの十字架も復活もこの目で目撃はしていません。ただ、聖書を読んで信じました。私たちのことを、イエスさまは「幸いな人」と呼んでくださっています。
2.イエスから平安を受け取ろう
この世が与えるものとは異なる平安
弟子たちは、自分たちもイエスさまと同じように逮捕され、殺されてしまうのではないかと考えて恐れました。実際には、指導者たちは弟子たちのことを鼻にもかけておらず、リーダーであるイエスさえ始末してしまえば、他の連中はおとなしくなるだろうと考えていたようです。しかし、弟子たちは逮捕されると考え、破壊的な未来を想像して恐れました。
トマスは、自分だけがイエスさまに会えなかったことを知ったとき、自分はイエスさまから愛されていなかったのではないかと考えました。その結果、否定的な感情がわき上がってきて、嫉妬のあまり喜んでいる他の弟子たちに冷水をかけるような、ひどい言葉を吐いてしまいました。
感情は解釈から生まれる
人間の感情は、起こった出来事をどのように受け止めるか、解釈するか、意味づけるかによって決まります。
この話をお読みください。
あるOLさんが落ち込んでいました。どうしたのかと尋ねると、風邪を引いて37度5分ほどの熱が出て、さらに咳は出るし、鼻水は出るしで、申し訳ないけれど仕事を休みたいと課長に電話をしたのだそうです。すると、課長は「分かった。熱が完全に下がるまで休んでいいからね。ゆっくり休みなさい」と言ってくれました。
「どうしてそれで落ち込んでいるのですか?」と尋ねると、「ああ、会社にとって、どうせ自分なんかいてもいなくてもいい存在なんだな」と思ったからだそうです。
そこでまた尋ねました。「じゃあ、課長さんがこんなふうに言ったとしたらうれしかったですか? 『冗談じゃない。この忙しいときにそれくらいの発熱で休まれたら困る。今すぐ出勤しなさい』」。
しばらく考えておられたその方は、こう答えました。「たぶん、自分は大切にされていないと思って落ち込むと思います。そうか、どっちにしても私は落ち込むんですね。人がどう言ったかじゃなくて、私がそれをどう受け取るか、どう考えるかなんですね」。
私たちは今、平安でしょうか。そうでないとしたら、どんなことを思い描き、考えているでしょうか。平安を失い、怒りや悲しみや恐れで一杯になったときには、ちょっと落ち着いて頭の中の考えやイメージを明確にしてみましょう。
私たちが腹を立てるのは、腹を立てるようなことを頭の中で考えているからです。悲しくなるのは、悲しくなるようなことを心の中でつぶやいているからです。恐れるのは、破壊的な未来を想像し、思い巡らしているからです。落ち込むのは、自分を責めるようなことを考えているからです。
わざわざそう考えなくてもいいのに、自分を恐れさせたり、惨めにしたり、悲しませたりするようなことを考えているのであれば、それを捨てて、もっと楽になるような考えをするようにするといいですね。
世が与える平安とは違う
ただし、これは心理学的な知識に過ぎないということに留意しましょう。医学的な知識や法律の知識が私たちの役に立つように、心理学的な知識は私たちにとって有益です。しかし、こういう心理学的な方法で得られる平安は、イエスさまが与えてくださる平安とは異なります。
十字架にかかる前、イエスさまは弟子たちに平安を与えるとあらかじめ約束しておられます。
(ヨハネ14:27)わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
聖書が教える平安(シャローム)とは、単に問題がなくて落ち着いているという静かな意味ではありません。それは、たとえ問題があったとしても、内側から喜びや希望ややる気や忍耐力などがわき上がる、エネルギーに満ちた状態です。イエスさまは、そのような平安、シャロームを与えると約束なさいました。
イエスが共にいるという平安
10人の使徒たちが恐れから解放され、使徒トマスが疑いや嫉妬から解放され、代わりに喜びや希望に満たされたのはどうしてでしょうか。それは、復活して生きておられるイエスさまに出会ったからです。
イエスさまが死んでしまい、しかもその死体が誰かに持ち去られてしまったことを深く悲しんでいたマグダラのマリアは、喜びで一杯になりました。それは、復活したイエスさまが彼女の前に姿を現したからです(ヨハネ20:11-18)。
イエスさまの死後、希望を失い、エルサレムを離れて故郷のエマオに戻ろうとしていたクレオパともう1人の弟子は、途中で心が再び希望の炎に燃やされました。それは、復活したイエスさまが彼らに近づき、話しかけ、救い主の死と復活に関する聖書の預言を解き明かしてくださったからです(ルカ24章)。
このように、「イエスさまが共にいてくださることそのもの」が、弟子たちの心に大きな平安、喜びや希望や力を与えたのです。
今あなたは不安の中にいますか? しかし、不安、恐れの中にいる私たちに向かって、イエスさまは「平安あれ」と語りかけてくださいます。それは、父・子・聖霊の三位一体の神さまが私たちとともにいて助けてくださるからです。
ここぞというときに与えられる平安
父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さまが共にいてくださるから大丈夫、と言われても、平安や勇気が湧き起こってこないという方もいらっしゃるかもしれません。実際、トマスは他の弟子たちから「イエスさまは生きておられる」と告げられても、否定的な感情から抜け出せませんでした。
しかし、 たとえ今は平安が湧き上がってこなくても大丈夫です。問題に直面して、今こそ平安が必要だという時になったら、イエスさまはちゃんと平安を与えてくださいます。
この話をお読みください。
コーリー・テン・ブームさんとその家族(父と姉)は、第二次世界大戦中、オランダでたくさんのユダヤ人をナチスの手からかくまっていました。しかし、やがてナチスによってブーム一家は逮捕され、強制収容所に送られ、ひどい虐待を受けました。結局、父も姉も収容所の中で亡くなります。それらの様子は、自伝「わたしの隠れ家」で紹介されています。
ある時は、服を全部はぎ取られ、裸で寒い屋外に立たせられました。女性にとって、それは惨めで耐え難い屈辱ですが、それを7度も経験しました。あまりの惨めさと寒さで、コーリーさんは、そばにいたお姉さんに「もうこんなこと、耐えられない」とつぶやきました。
するとそのとき、突然、十字架にかかったイエスさまのイメージが脳裏に浮かびました。イエスさまは、ローマ兵に着物をはぎ取られ、裸で十字架につけられていました。イエスさまが、自分と同じ苦しみを味わってくださったということを知ったとき、コーリーさんの心に、言いようもない喜びがわき上がってきました。
その後も、イエスさまはコーリーさんやお姉さんと、いつも一緒にいてくださり、彼らがイエスさまに語りかけると、不思議な声が答えるのを確かに聴くことができました。地獄のような苦しみの中で、まるで天国にいるかのような喜びを味わわせてくださったのです。
子どもの頃、コーリーさんはお父さんにこう言いました。「お父さん。私、イエスさまのために死ねるかどうか、心配なの。そんなに強くなれないんじゃないかしら」。
すると、お父さんはこう答えました。「コーリー。お前が汽車で旅行することになったとしよう。お父さんはお前にいつ旅費を渡せばいいかな。3週間前かい?」「ううん。出発する時」「神さまも同じだよ。今日、イエスさまのために、試練に耐える力がなくてもいいんだ。実際に試練にあって、その力が必要になったら、ちゃんと神さまはお前にその力を下さるから、心配しなくていいんだよ」。
そして、イエスさまは、お父さんの言ったとおり、収容所の地獄のような苦しみの中で、その苦しみに耐える力を与えてくださいました。それどころか、天国の喜びまでも体験させてくださいました。まさに、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のもの
だからです」(マタイ5:10)と書かれているとおりです。
ここぞと言うとき、イエスさまはあなたにも、ちゃんと力を与えてくださいます。
あなたも三位一体の神さまがついていてくださいます。最初の週、トマスはイエスさまに会えなかったと思ってふてくされましたが、イエスさまはトマスの語った言葉を聞いておられました。すなわち、たとえ目に見えなくても、イエスさまは私たちと共にいてくださいます。そして、私たちを守り、導き、必要なときに必要な平安を与えてくださいます。

カラヴァッジョ作「聖トマスの不信」
(画像引用:Wikipedia)
伝承によると、その後トマスはインドに渡って伝道し、そこで殉教の死を遂げたそうです。そのとき、自分の傷跡に触れながら、自分に傷跡を見せてくださったイエスさまの姿を思い出して喜びながら死んでいったとのこと。トマスも、ここぞというときに改めて平安をいただいたのですね。
だから大丈夫です。大丈夫な未来を思い描いて、今から平安を先取りしましょう。
人々に届ける平安
使徒たちは深い平安、シャロームを体験しました。しかしそれは、弟子たちだけが幸せな気持ちになるためではありません。
弟子たちには使命が与えられました。まだイエスさまの十字架と復活を信じていない人たちに、あなたも信じるだけで罪が赦されるというメッセージを宣べ伝えるという指名です。その結果として、多くの人々に弟子たちは平安を届けることになります。
平安と訳されているヘブル語のシャローム、そしてギリシア語のエイレーネーは、平和とも訳せます。弟子たちが宣べ伝える罪が赦されるというメッセージは、神さまと和解して平和な関係が回復したというメッセージでもあります。
罪とは、神さまの存在や素晴らしさを否定したり値引いたりすること、そして神さまを無視してその命令に従わず自分勝手に生きることです。それは本来なら神さまの怒りを招き、永遠の苦しみという罰を受けるはずでした。
しかし、イエスさまが私たちの身代わりに罪の罰を受けて十字架にかかってくださったことにより、私たちの罪がただで赦されることになりました。そして、「この私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかられた。死んで葬られ、3日目に復活なさった」と信じるだけで、本当に罪を赦され、神さまの子どもとされます。
敵対関係にあった神さまと私たちの間に、平和が訪れたのです。私たちを敵ではなく愛する我が子と呼んでくださる神さまは、どんなときも私たちと共にいてくださいます。そしてすでに学んだように、ここぞというときに力を与えてくださいます。
私たちがイエスさまを信じ、神さまとの平和な関係を手に入れ、その結果としてこの世が与えることのない平安を味わうことができるのは、私たちに赦しと平和のメッセージを語ってくれた人がいたからです。
私たちも、機会を見つけて赦しのメッセージを他の人に伝えましょう。そのとき必要な力や知恵は、聖霊さまが与えてくださいます。