(2024年11月17日)
復活したイエス・キリストが、ガリラヤ湖で弟子たちと再会した場面です。彼らは、イエスの助言に従い153匹の大漁を経験しました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
1節の「ティベリア湖」は、ガリラヤ湖のこと。ルカ5:1では「ゲネサレ湖」と呼ばれています。
2節の「ナタナエル」は、十二使徒であるバルトロマイのことだと考えられています(バルトロマイは、タルマイの息子という意味)。「ゼベダイの子たち」は、使徒ヤコブとヨハネ。十二使徒で2節に名前が挙げられていないのは、アンデレ、ピリポ、マタイ、アルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)、タダイ(イスカリオテではないユダ)、熱心党のシモン。
7節の「イエスが愛されたあの弟子」は、この福音書を書いたヨハネのこと。
8節の「二百ペキス」は、約90メートル。
イントロダクション
イエスさまは、私たちの罪が赦されるために十字架にかかって亡くなりましたが、3日目に復活し、今も生きておられます。イエスさまが復活なさったことは、今の私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。それはたくさんありますが、その一つは、「人生はいつでもやり直せる」ということです。
そのことを、ガリラヤ湖での大漁の奇跡の記事から教えていただきましょう。
1.ガリラヤ湖畔にて
不漁
今回の舞台
(1節)その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
「この後」と書かれています。それは、イエスさまが復活なさった後、エルサレムで弟子たちの前に姿を現されたことを指しています。本当だったら、弟子たちはすぐにガリラヤに向かい、そこでイエスさまとお会いするはずでした。
復活の朝、女性の弟子たちたちが墓に行ってみると、そこに天使が現れてこう言いました。
(マルコ16:7)さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。
ところが、男の弟子たちは女性たちの報告をたわごとだと思い、復活を信じようとしませんでしたし、ましてやガリラヤに行こうともしませんでした。そこで、イエスさまが弟子たちの隠れ家に現れます。
しかし、その時そこにいなかったトマスが信じなかったせいでしょう、弟子たちはなお1週間もエルサレムにとどまり続けます。そこでイエスさまは1週間後に再び隠れ家に現れました。こうして、弟子たちはようやくガリラヤに向かったわけです。
7人の弟子たち
(2節) シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
十二使徒のうち7人が一緒にいました。他の4人はガリラヤには来たはずですが、その場にはいませんでした。
7人のうち5人の名前が挙げられています。残る2人は、アンデレ、ピリポ、マタイ、アルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)、タダイ(イスカリオテではないユダ)、熱心党のシモンの誰かです。
漁に出る弟子たち
(3節)シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
ガリラヤに来た弟子たちでしたが、イエスさまは姿を現さず、時間だけが過ぎていきました。やることがないペテロは、漁に出ると言い出しました。
ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネは元はガリラヤ湖の漁師でした。イエスさまと出会い、魚を捕る漁師の仕事を捨てて、人間を捕る漁師としてイエスさまに従う道を選んだペテロですが、また元の仕事に戻ることにしました。
すると、やはりやることがないペテロ以外の6人もついて行くことになりました。そして、一晩中働きましたが、小魚一匹とれませんでした。
大漁の奇跡
岸辺に立つ人影
(4節)夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
まったく魚が捕れないまま夜が明けてきました。すると、岸辺に人影が立つのが見えます。まだ明るくなりきっておらず、それが誰なのか弟子たちには分かりません。
声をかけるイエス
(5-6節前半)イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」
岸辺に立つ人は、弟子たちに声をかけました。そして、舟の右側に網を打つよう指示します。
大漁
(6節後半)そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
岸辺に立つ人の指示通りにしてみると、大変な数の魚が網にかかりました。その重みのため、舟の上に網を引き上げることができないほどの大漁です。
主との再会
主だ
(7節)それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
今回の大漁の奇跡は、そこにいたペテロとヤコブとヨハネにとっては以前体験したことを思い出させたはずです。その出来事は、ルカ5:1-11に記されています。
イエスさまの活動の初期、ガリラヤ湖畔で人々がイエスさまに押し迫ってきました。すると、イエスさまは人々から距離を取るため、ペテロの舟に乗って話をなさいました。
話し終えたイエスさまは、網を降ろすようペテロに指示します。ペテロは「一晩中働いても、何一つ取れませんでした」と言いながらも、その指示通りに網を降ろします。すると、網が破れそうになるほどの大漁となりました。これがきっかけで、ペテロ、そして彼と一緒にいたヤコブとヨハネがイエスさまに従うようになりました。

アンリピエール作「奇跡の漁」
(画像引用:光の色彩を求めて)
ヨハネはそのことを思い出したのでしょう。岸辺で指示を出した人物がイエスさまだと気づいて「主だ」と声を上げました。
すると、それを聞いたペテロは湖に飛び込んで岸辺に泳いでいきました。衝動的なペテロらしい行動ですね。それでもわざわざ上着を着てから飛び込んだのは、イエスさまに対する敬意の表れです。
小舟で後を追う他の弟子たち
(8節) 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
ペテロ以外の6人は、小舟で岸辺に向かいました。あまりの大漁で網を引き上げることができなかったので、そのまま引いていくことにしました。
食事の準備をして待つイエス
(9節)こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
イエスさまは焼き魚とパンを用意して、弟子たちが来るのを待っておられました。どうやって魚をとったりパンを用意したりしたのか分かりませんが、そこはイエスさまの不思議なお力によります。
153匹の魚
(10-11節)イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
すでに食事は用意されていましたが、イエスさまは弟子たちが捕った魚も持ってくるようお命じになりました。イエスさまは、弟子たちの働きも無駄になさいません。
弟子たちが網を引き上げると、大きな魚が153匹も取れていました。福音書を書いたヨハネが魚の数を憶えているというのは、それだけ印象的だったのです。
朝食
(12-13節)イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
イエスさまは、弟子たちのためにパンと焼けた魚を渡してやりました。もしかしたら、かつて行なわれた五千人の給食の奇跡を弟子たちは思い出したかも知れません。イエスさまは、5つのパンと2匹の魚を分けて、大人の男性だけで5千人、女性や子どもを入れればおそらく1万人ほど人たちのおなかを満たしました。
こうして、朝の食事が始まりました。
3度目の顕現
(14節)イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。
今回の顕現は3回目だと書かれています。1回目は復活の日曜日の夕方、トマス以外の弟子たちの前に姿を現されたとき。2回目は、その1週間後の日曜日に、トマスを含む弟子たちの前に姿を現されたときです。
その後イエスさまは、弟子たちに神の国について語りました(使徒1:3)。そして、復活から40日後、オリーブ山のベタニア村に近いところまで弟子たちを連れていくと、彼らの目の前で天に昇って行かれました(ルカ24:50-51、使徒1:9)。さらに10日後、聖霊なる神さまが下ってこられます。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.人生はいつでもやり直せる
失敗した弟子たち
このときの弟子たちは失敗者でした。イエスさまこそ、旧約聖書が到来を約束してきた救い主、イスラエルの王だと信じて従ってきたのに、イエスさまが逮捕されると、我先に逃げ出してしまいました。
ペテロなど、「他の弟子があなたを捨てても、私だけは決して見捨てない」と豪語していたのに、「お前もイエスの弟子だろう」と言われると、「あんな奴、知らない」と3度も言ってしまいました。
エルサレムで復活のイエスさまに会ったとき、イエスさまは失敗した弟子たちを破門になさいませんでした。しかし、彼らの心の中には、イエスさまに対する申し訳ない思いが残っていたことでしょう。以前のようにイエスさまと親しく話をしたり、笑い会ったり、泣き合ったり、教えをいただいたりはできないだろうと考えていたかも知れません。
ましてや、再び信頼されて、神さまのお仕事を一緒にできるなどとは、さすがに図々しくて思いもよらなかったはずです。
ペテロが突然漁に行くと言い出したのも、そんな後ろめたい思いから生じたことだったのかも知れません。
あなたも、これだけは赦されないのではないかと思うような失敗をしてこられませんでしたか? あるいは、赦されているかもしれないけれど、以前のように神さまに愛され、祝福されるはずがないと思うような、そんな状態に陥ってはおられませんか?
もう一度やってごらん
しかし、イエスさまは弟子たちに、最初に従うようになったきっかけの奇跡と、同じ奇跡を見せてくださいました。それは、「人生はやり直すことができるんだ。もう一度、私に従ってきなさい。もう一度私と共に神さまのみわざを行なおう」と、声をかけてくださったということです。
人生はいつでもやり直しができます。
ミッションバラバ
ミッション・バラバというクリスチャンのグループがあります。バラバというのは、本当は罪のないイエスさまが十字架にかかることになって、代わりに釈放された強盗殺人犯です。
このグループの人たちは、元はやくざでした。しかし、それぞれイエスさまを信じて悔い改め、犯罪行為の代わりに、正義と愛を実践するようになりました。そして、多くの人たちを救いに導いています。

(画像引用:Amazon)
中川健一先生
私たち夫婦が東京時代にお世話になった中川健一牧師は、学生時代にクリスチャンとなり、帝人に就職し、その後マクドナルドに転職なさいました。20代で部長代理になり、仕事にのめり込み、毎晩のように接待で飲み歩き、出し抜いたり出し抜かれたりという戦いに神経をすり減らしていました。
幼い頃に、貧しい暮らしを経験していて、豊かな生活にあこがれていた先生は、いつの間にか神さまよりもお金が大切になっていました。そして、あんなに身近に感じていたイエスさまが、すっかり遠くに行ってしまったように思えました。
しかし、教会では立派なクリスチャンとして奉仕をし、牧師からは「学生諸君は、中川君のような社会人クリスチャンを目指しなさい」と言われます。そのたびに、かえってイエスさまが遠く離れているのを自覚して、心の中で「僕のようになっちゃだめだ」と叫んでいたそうです。
そんな時、過労から熱を出して倒れてしまいました。布団の中で、高熱と罪責感からうなされていたとき、突然聖書の中のイエスさまの言葉が心に響いてきました。それは、イエスさまが逮捕される直前、ペテロに対して「あなたは、鶏が鳴く前に、3度私を知らないと言う」と預言された後におっしゃった言葉です。
(ルカ22:32)しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
熱が引いたとき、中川先生は、仕事を辞めて牧師になることを決意なさいました。
増田泰司
私もやり直し組です。この話は何度もしていますが……。
神学生の頃、知り合いの牧師がアメリカに行くことになり、その方が開拓して1年の教会の留守を預かることになりました。2年で戻ってくるという約束だったのですが、結局帰ってこないことになり、私が正式に後任になりました。
ところが、いろいろなことがあり、わずか5年弱でその教会を閉じることになりました。教会員の人たちは傷つき、私も傷つきました。伝道の意欲などどこかに吹き飛んで、もう二度と開拓伝道はするまいと決意しました。
そして、そのどん底気分の中で、神さまはフィリップ・ヤンシーの本と出会わせてくださいました。その本の中には、キリスト教の特徴は、救いが行ないではなく恵みによって与えられることだと書かれていました。そして、恵みとは「神さまにもっと愛されるために私たちにできることは何もなく、神さまにもっと愛されなくなるためにできることも何もない」ということだと。
それから神さまは、あろう事か一度失敗した私に、福島で新しく教会を開拓するように促されました。そして、自分が体験した神さまの恵みを語れ、と。自信があったわけではありませんが、私は一歩を踏み出しました。その結果、こうして皆さんがここにいらっしゃいます。
それは私が優れた牧師だったからではありません。むしろ私がへなちょこ牧師だったので、神さまのあわれみと、皆さんの愛によって、ここにこうして中通りコミュニティ・チャーチが存在しているのです。
復活の初穂であるイエス
(第1コリント15:20)しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
初穂とは、その畑の穀物からとれる最初の収穫物のことです。初穂が良ければ、後に続く収穫物もすべて良い物だと分かります。イエスさまが復活なさったように、私たちも将来復活すると聖書は言います。
その復活は肉体的なものです。やがて私たちには、イエスさまに与えられたのと同じような、朽ちることのない栄光の体が与えられます。
それだけではありません。体の復活がメインディッシュだとすると、私たちは生きている今、オードブルも体験します。それは、たとえ失敗しても、何度でもやり直すことができるという体験です。@se
十字架刑によって、イエスさまの働きは途中で挫折したように思われました。しかし、イエスさまは復活して、今も神さまのご計画を遂行しておられます。しかも、失敗だと思われた十字架が、神さまのご計画の中でなくてならない大切な要素になりました。失敗だと思われた十字架によって、私たちの罪は赦され、神さまと親子として愛し合うという親しい関係が生まれました。
私たちも失敗するかもしれません。挫折するかもしれません。しかし、それで終わりではありません。人生はやり直すことができます。それどころか、失敗が宝に変えられます。
一度失敗し、神さまに引き上げていただいたおかげで、私は確信を持って伝えることができます。人はやり直すことができます。一度どころか、何度でも立ち直ることができます。私たちの信じるイエスさまは、復活して今も生きておられるからです。
あなたは、これだけは赦されないのではないかと思うような失敗をしてこられませんでしたか? あるいは、赦されているかもしれないけれど、以前のように神さまに愛され、祝福されるはずがないと思うような、そんな状態に陥ってはおられませんか?
たとえ失敗したとしても、それによって「自分はダメだなあ」と思い知らされたとしても、それでもイエスさまの恵みを信じて立ち上がり、再チャレンジしましょう。