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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

マッティアの使徒選出

使徒の働きシリーズ2

使徒の働き1章15節〜26節

(2024年12月15日)

イエス・キリストの昇天後、自殺したイスカリオテ・ユダの代わりにマッティア使徒に選出されました。

ルーベンス作「聖マッティア」(1611年頃)
(画像引用:聖書と歴史の学習館

礼拝メッセージ音声

参考資料

23節の「バルサバ」は、ヘブル語で「安息日の子」という意味の名。使徒15:22に登場するバルサバとは別人(本名が異なる)。「ユスト」はラテン語名。

マッティアは、これ以降聖書には登場しませんが、6:2には「十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った」と書かれていますから、十二使徒の一員として活動していたことが分かります。伝承によれば、マッティアはユダヤ地方を中心に伝道しました。また、マケドニアで伝道したという伝承もあります。紀元63年頃、エルサレムで石打ちによって殉教した後、首を斧で切り落とされたとされています。

イントロダクション

私たちクリスチャンにとって、偶然は存在しません。私たちの身の回りにあるあらゆることに神さまの導きがあることを知ることによって、慰めや励ましを受け取ることができます。今日はそんなお話です。

1.マッティアが新しい使徒に選ばれる

ペテロの発案

120人の集会
(15節)そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。

イエスさまが昇天なさってから10日後、ペンテコステの祭りの日に聖霊なる神さまが下ってこられます。今回の記事は、その間の出来事です。

120人ほどの弟子たちが一箇所に集まっていたと書かれています。この場所がどこなのかということですが、この直前の箇所、イエスさまの昇天直後の出来事について書かれた記事には次のように書かれています。

(13-14節) 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

この「泊まっている屋上の部屋」というのは、伝統的にはマルコの母親の持ち家だとされています。ですから、120人の弟子たちが集まっていたのも、マルコの母の家かも知れません。だとしたら、かなりの豪邸ですね。

一方、120人の弟子たちが一堂に会していたのは、神殿の一角、たとえばソロモンの回廊と呼ばれる場所だったという説もあります。ペンテコステの出来事以降、クリスチャンたちは神殿で礼拝をささげていましたから、増田牧師としては神殿の一角に集まっていたという説の方が確からしいと考えています。

場所はともかく、120人の弟子たちの前で、ペテロが語り始めました。
ユダと聖書のことば
(16節)「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。

ペテロは、イエスさまを裏切ったイスカリオテのユダについて語ります。まずペテロは、ユダの裏切りの後始末について、聖書が預言していると指摘します。
ここでペテロが語った「聖霊がダビデの口を通して語った聖書のことば」というフレーズに注目しましょう。この後、ペテロは詩篇の言葉を引用します。それはダビデ王が書いた詩です。しかし、本当の著者は聖霊なる神さまだとペテロは言います。

旧新約聖書66巻は、ダビデ王を含む約40人の聖書記者によって1550年ほどの期間をかけて書き継がれました。しかし、その背後で聖霊なる神さまが働いてくださり、神さまが人間に伝えたいと思われた内容が正しく記録されるように導かれました。これを「聖書の霊感」と呼びます。

ですから、聖書の本当の著者は聖霊なる神さまだと言えます。聖書は、誤りのない神さまのことばの集大成です。
ユダの務め
(17節)ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。

イスカリオテのユダは、イエスさまによって選ばれた「使徒」と呼ばれる特別な弟子12人の中の一人です。

そして、イエスさまといつも一緒にいて、イエスさまこそ旧約聖書が登場を約束してきた救い主であり、救い主が地上に建設すると預言された神の国が間もなく実現するということを、人々に伝える使命を帯びていました。
ユダの死
(18-19節) (このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)

この18節と次の19節は、ペテロの言葉ではなく「使徒の働き」を書いたルカのコメントです。ルカはユダの死について書いています。

まず、ユダは不義の報酬で地所を手に入れたと書いています。不義の報酬とは、イエスさまを逮捕する人たちをイエスさまの元に導く報酬として、ユダヤの指導者たちから受け取った銀貨30枚のことです(マタイ26:14-15)。

しかし、そのお金を使って土地を手に入れたのはユダ自身ではなく、指導者たちでした。

(マタイ27:3-5)そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。

指導者たちはユダが神殿に投げ入れた銀貨について相談しました。このお金は、イエスさまを殺すための報酬ですから、神殿への献金として扱うのはふさわしくないと彼らは考えました。そこで、そのお金で土地を購入して、外国人のための墓地としました(マタイ27:6-7)。

つまり、ユダが受け取った報酬で墓地が購入されました。そのことをルカは、「ユダが裏切りの報酬で土地を手に入れた」と表現しているのです。

またペテロは、ユダは高いところから落ちて、体がバラバラになったと語ります。しかし、ユダは自分で首をつって自殺したはずです。これはどのように解釈すればいいでしょうか。

当時、遺体を翌日まで町の中に放置することは避けられていました。また、安息日や祭りの日には埋葬が禁止されていました。ですから、ユダの遺体は城壁の上からヒンノムの谷と呼ばれる場所に投げ落とされたと考えられます。

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(画像引用:いのちのことば社「新聖書辞典」)
聖書の預言
(20節)詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』

ペテロはユダの死について説明するために、詩篇を2箇所引用しました。16節で語られているとおり、どちらもダビデ王が書きました。

1つ目は、詩篇69:25です。ここでダビデは、自分を苦しめる敵に対して、神さまが正しいさばきを行なってくださるように願っています。

ただし、詩篇69篇は、ユダについて直接預言しているわけではありません。イスラエルの王であるダビデの敵に神さまのさばきが下るのであれば、全世界の大王である救い主イエスさまに逆らったユダにさばきが下ったのは当然だとペテロは言いたいのです。

2つ目は、詩篇109:8です。ここでもダビデは、自分を苦しめる敵に対して神さまにさばきを願っています。ダビデは、さばきを受けた敵が早死にして、その人の仕事を別の人が引き継ぐようになることを求めました。

ペテロはこの箇所を引用することで、イエスさまに逆らってさばきを受けたユダの仕事も、別の人が引き継がなければならないと訴えようとしています。つまり、本来12人いた使徒が11人になってしまったため、一人新たに選定しようというのです。
新たな使徒の条件
(21-22節)ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

ペテロは、新たに選ばれる使徒の条件を示しました。それは「ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間」、すなわちイエスさまの公の生涯の間ずっとイエスさまや他の使徒たちと行動を共にしてきた人です。最近弟子になった人や、パートタイムの弟子は除くというわけですね。

特に「イエスの復活の証人」になれる人、すなわちイエスさまの復活を目撃した人だということが強調されています。

使徒候補の選出

2人の候補
(23節)そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。

他の10人の使徒たちや他の弟子たちは、ペテロの提案を了承しました。そして、話し合いの結果、2人の候補を選び出しました。その2人とは、ヨセフとマッティアです。

ペテロが示した条件に合う人物がその2人だけだったのかも知れません。あるいは、他にもいたけれども、人格やリーダーシップを考えてこの2人に絞ったのかも知れません。
弟子たちの祈り
(24-25節)そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」

2人にまで候補を絞った弟子たちは、最後は神さまに決めていただくことにしました。そして、この2人のうち神さまがふさわしいとお考えの人を示してくださるよう求めました。

新しい使徒の決定

くじ引き
(26節)そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。

神さまのみこころを知るため、弟子たちが用いた方法はクジを引くことでした。クジを用いて神さまのみこころを探るという方法は、旧約聖書ではしばしば行なわれていました。たとえば、
  • モーセの律法が定める祭りの一つ「宥めの日」(贖罪の日)では2頭の山羊が儀式に用いられました。1頭はいけにえとして殺します。もう1頭はアザゼルのための山羊と呼ばれ、イスラエルの罪を背負わせて遠くに逃がします。どちらの山羊をいけにえにするか逃がすか決めるためにクジが引かれました(レビ16章)。
  • 大祭司の胸当ての中に入れられていたウリムとトンミムは、神さまのみこころを探るために用いられました(出エジプト記28:30、民数記27:21)。
  • モーセは、約束の地を各部族に割り当てる際にクジを用いました(レビ26:55-56)。
  • ヨシュアも、約束の地を各部族に割り当てる際にクジを引きました(ヨシュア18:1-6)。
  • 士師記の時代、イスラエルの各部族がギブアの町を攻撃する際、(おそらく戦いに参加する兵士を選ぶために)クジを引きました(士師記20:9)。
  • 最初の王を選ぶ際、サムエルがクジを引いてサウルを選び出しました(第1サムエル10:20-21。)
  • ヨナが乗った船が大嵐に巻き込まれた際、誰のせいでこんなことが起きたのかを知るため、船員たちがクジを引きました(ヨナ1:7)。
これらのクジと同様、今回用いられたクジの材質や形については聖書に明記されていません。ただし、当時の遺跡から、陶器のかけらや木や石に人の名前や記号が掘られたものが出土しています。

ですから、そういったものにヨセフとマッティアの名前を書いて袋か壺に入れ、代表者が引き当てたのだと思われます。こうして新しい使徒に選ばれたのはマッティアでした。
ペンテコステ以降
ただ、聖書の神さまを信じる人たちがクジを用いてみこころを探るという記事が登場するのは、今回が最後です。ペンテコステの日に聖霊なる神さまが下ってこられて、クリスチャンの内側に住んでくださるようになってからは、聖霊さまが祈りの中でクリスチャンたちの心に語りかけてくださるようになりました。つまり、クジを用いなくても良くなったのです。

たとえば、パウロとバルナバが第一回伝道旅行に出かけたのは、クジを引いてみこころを知ったからではありません。聖霊なる神さまがアンティオキア教会の人たちにそのように語られたからです(使徒13:2)。

それではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.偶然の中に神の意志を見よう

理性的に判断しよう

ユダの抜けた穴をふさぐための新しい使徒を選ぶため、ペテロは使徒にふさわしい人物の条件を考えました。どうやって考えたのでしょうか。

ペテロは自分の頭で考えて条件を導き出したのです。参考にしたのは、これまで聖書を通して学んできたこと、3年半に渡ってイエスさまから教えていただいたこと、特に復活後40日の間に教わったことなどです。

そして、ペテロが提案した条件について、他の弟子たちもそれが良いと判断しました。その判断は、ペテロと同じようにこれまで学んできたことから導き出されました。そして、条件にふさわしい人が誰かについても、自分たちの理性を使って考えました。こうしてヨセフとマッティアの2人が候補として挙げられます。

信仰と盲信は違います。信仰を持つということは、理性を捨ててしまうことではありません。ペテロたち120人の弟子たちは、理性的・論理的・合理的に判断しながら新しい使徒を選ぼうとしました。

では、最終的にはクジを引いて新しい使徒を選定したのはなぜでしょうか。それもまた、自分勝手にクジに頼ったわけではありません。占いのようなオカルト的な意味合いでクジに頼ったわけでもありません。これまでイスラエルの中で神さまがクジを通してみこころを示してこられたという事実があるからです。それもまた理性的な判断です。

そして、ペンテコステ以降、教会がクジを用いてみこころを探らなくなったのも理性的な判断からです。彼らは、「聖霊さまがみこころを示してくださるから、もうクジは必要ない」と考えたのです。

何をするか判断する際、神さまが私たち人間に与えてくださった理性を使いましょう。その時の気分で判断したり、クジや占いなどに頼ったり、牧師など他の人の言いなりになって自分で考えることを放棄したりしてはなりません。

偶然はないことを知ろう

ただし、信仰は理性的なものですが、超理性的なものでもあります。私たちクリスチャンは、理性を捨てているわけではなく、理性を超えた世界があることも認めているのです。理性の限界を知っていると言ってもいいでしょう。

ペテロたちは、2人のうちどちらが新しい使徒にふさわしいか決めるのに、最終的にクジを引きました。クジがヨセフに当たるか、マッティアに当たるかはそれぞれ5割の確率です。それは偶然によって決まります。

しかし、ペテロたちは偶然決まるとは考えていませんでした。信仰者にとって「偶然」はありません。この世のすべては全知全能である聖書の神さまによってコントロールされています。ですから私たちは、偶然起こったかのように見える出来事の背後にも、神さまが働いてくださっていると信じています。
恋人の救い
イギリスでの話です。ある大学生の青年がクリスチャンとなりました。彼の心にはイエスさまと共に生きているという喜びが満ちあふれていました。しかし、同時にある悩みを抱えてもいました。それは、恋人が頑としてイエスさまを信じようとしなかったことでした。

青年は、将来この女性と結婚したいと考えていましたが、根本的な価値観が異なると結婚生活はうまく行かないだろうと考えて、別れるべきかどうか悩んでいたのです。そして、卒業パーティの日までに恋人が福音を信じて救われなければ別れると決断します。

しかし、卒業までの間、彼は一生懸命祈りましたが、ついに恋人がイエスさまや救いについて興味を示すことはありませんでした。こうして、卒業パーティが終わってしまいました。

「別れることが神さまのみこころだったのだ」と考えた青年は、最後の思い出にしようと恋人をドライブに誘いました。そして、ドライブが終わったら別れを切り出すつもりでした。

すると、そんなことを知らない恋人は、パーティで楽しんだハイテンションのまま、適当に行き先を指示し始めました。「はい、次の交差点を右」「次の交差点も右」「その次は左」というふうに。

そうやって車を走らせていると、最終的に墓地に到着しました。そこには大きな十字架が掲げられていました。車を降り、十字架を見上げた恋人は厳粛な表情を見せました。偶然ここに到着したのではなく、イエスさまが自分をここに呼んだのだと感じたのです。

恋人のその表情に何かを感じ取った青年は、思い切ってイエスさまを信じようと勧めました。すると、なんと恋人がうなずいたのです。こうしてクリスチャンカップルとなった二人は、やがて結婚し、素晴らしいクリスチャンホームを作り上げました。
中通りコミュニティ・チャーチ誕生秘話
一度開拓伝道に失敗して、二度と開拓伝道にて果てを出すまいと決めていた私が、1999年にこの福島県須賀川市で開拓伝道を始めたのも「たまたま」です。
  • たまたま恵みに関する本が目にとまり、それを読んで過去の失敗の傷から解放されました。
  • たまたま、神学生時代の教授のメッセージについてのメモが出てきて、開拓伝道しなければという思いになりました。
  • たまたま、今はまだ家内の両親も若いからいいけれど、将来的には両親の近くに引っ越して、見守らなければならないという話が夫婦の間で出ました。
  • そして、たまたま東北の中でも須賀川市の人口の伸びがすごいという話を聴きました。 しかも、教会の数が多くありません。
こうして、たまたま、偶然、その積み重ねによって、この教会がここに存在しています。

クリスチャンにとって偶然はありません。すべてが神さまの御手の中、神さまのコントロールの下にあります。

あらゆる状況で神の語りかけを聞こう

今、私たちはクジを使ってみこころを探ろうとはしません。聖霊さまが聖書と祈りを通してみこころを示してくださるからです。

そして聖霊さまは、イエスさまを信じていない人には偶然だと思えるような状況を通しても、私たちに語りかけてくださっています。
太陽の光
Aさんは、会社の人間関係の悩みの中で心がどんよりと沈んでいました。見上げると、空もどんよりと雲がかかっています。すると突然雲の切れ目から、スポットライトのように太陽の光が降り注いできました。薄暗かった目の前が、ぱあっと明るくなったのです。この方は、神さまが「絶対大丈夫。何とかなる」と励ましてくださっていると感じ、気持ちも明るくなりました。
同じ聖句が3回
Bさんは、家族の中でお父さんだけがイエスさまに対する信仰を明確に告白していないことを心配していました。これまでイエスさまによる救いの話は何度も聞いてきましたが、元来無口なお父さんが信じたかどうか、よく分からなかったのです。こうしてお父さんは亡くなりました。

Bさんは、父は救われたのだろうかという心配で、毎日心が沈んでいました。そんなある朝、奥さんがこう言いました。「今朝、お義父さんのことを考えながら聖書を開いたら、ローマ10:13の言葉が目に飛び込んできたの。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』。お義父さんは必ず救われたと感じたわ」。

その日、家庭集会があったので参加すると、メッセンジャーが選んだ聖句が「主の御名を呼び求める者はみなすくわれる」でした。

その帰り道、ポスターを見かけました。キリスト教の集会を案内するポスターです。そこに書かれていた聖句が「主の御名を呼び求める者はみな救われる」。一日のうちに「たまたま」同じ聖句を目にしたBさんは、父のことは神さまにお任せして大丈夫だと信じて、心配から解放されました。
あなたの周りにも
あなたの周りにもたくさんの偶然が起こります。そして、神さまはそんな偶然、たまたまの出来事を通して、あなたを慰めたり励ましたりしてくださいます。あなたの周りには、神さまの愛に基づく導きが満ちあふれています。今週も、目を開いてそんな導きを探してみましょう。

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