(2024年12月22日)
クリスマスメッセージ。ヨハネの福音書では、イエス・キリストは「ことば」と表現されています。
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
本日はクリスマス礼拝です。クリスマスは、元々はサンタクロースの日ではなく、イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。世界中で誕生をお祝いされるイエスというお方は、いったいどんな存在なのでしょうか。そして、それが私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。
ヨハネの福音書を書いた使徒ヨハネは、イエスさまのことを「ことば」と呼びました。
1.人となった神
キリストは神
(1-3節) 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
「ことば」と呼ばれているイエスさまは、この天地万物をお造りになった、全知全能の神さまです。人間が修行や悟りや正しい行ないによって神さまになったのではなくて、神さまが人となってこの地上に来られたのです。
イエスさまが、道徳的で立派な教師だったということは、別にクリスチャンではなくても認めるところでしょう。同様に、仏教の開祖である釈迦は立派な人物だったろうと思います。イスラム教のマホメットや儒教の孔子もそうでしょう。
しかし、イエスさまが彼らと決定的に違うところがあるとすれば、彼らは単なる人間ですが、イエスさまは神が人となって来られた方だということです。イエスさまは、人であり、同時に神であるお方です。
神が近くに来てくださった
(14節a)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
この「住まわれた」という言葉は、元々はテントを張るという意味です。
昔、イスラエルがエジプトを脱出して荒野で生活していた頃、神さまは「会見の天幕」、すなわち特別なテントを作るように命令なさいました。会見の天幕(幕屋)の中心にあった至聖所という場所には、神さまの栄光が充ち満ちていました。会見の天幕は、宇宙を作って支配しておられるお方、目に見えない神さまが臨在なさる場所となったのです。
そして、今から2千年前、神さまは人となり、私たちのところに下ってきてくださいました。
聖書の神さまは、私たちのことを遠くから眺め、助けて欲しかったらここまで登ってこいとおっしゃる方ではありません。私たちのところまで降りてきてくださいます。
聞かれる祈り
この宇宙を造り、支配しておられる方が、あなたのすぐそばにいてあなたの直面している様々な問題を知っていてくださいます。そして、あなたの心の叫びに耳を傾けてくださいます。
2千年前、イエスさまはたくさんの奇跡を行ないました。そして、イエスさまは今日においても奇跡を行なうことができます。
仕事や人間関係、経済や健康などの状況において、私たちは八方ふさがりの状態に置かれることもあるでしょう。しかし、それでもなお、私たちは上を見上げ、奇跡を求めて祈ることができます。そして、その祈りは必ず聞かれます。
それは、いつでも私たちが願ったとおりのことが、願ったとおりのタイミングで起こるということではありません。しかし、たとえ祈ったとおりにならなかったとしても、もっとすばらしい答えが用意されています。
2.闇の中に輝く光
闇を打ち破る光
第1のポイントでは、イエスさまは神であって、しかも私たちのすぐ近くにいてくださり、私たちを見守り、導いてくださると学びました。では、本当に私たち人類は、祈りの力を体験したり、感動や力や平安に満ちた生き生きとした人生を送ったりできているでしょうか。
(4-5節)この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
イエスさまは私たちにとって、闇を打ち破る光です。
闇とは
この表現には前提があります。私たち人類は闇の中に閉ざされていたということです。
皆さんは、真の闇というのを経験したことがおありですか? 私は鍾乳洞の中で、明かりが全くない暗闇を体験したことがあります。それは恐怖であり、不安です。
物理的な闇と同様、私たちの心も、さまざまな闇に覆われることがあります。恐怖、不安、憎しみ、恨み、自己嫌悪、無力感、罪責感……。第1のポイントが約束していることと、真逆の状態ですね。
もし私たちが、神さまがくださるすばらしい人生を体験できていないとすれば、それは神さまと私たちとの関係が切れてしまい、おかしくなっているからでしょう。こういう状態のことを聖書は「罪」と呼んでいます。
罪
聖書が言う罪とは、「悪いことをする」というよりも、「的はずれ」という意味です。神さまの方を向いていないということ。すなわち、神さまの存在を認めなかったり、そのすばらしさを値引いたり、信頼しなかったり、従おうとしなかったりということです。
そして、「神なんかいらない。自分の人生は自分だけのもので、自分の好きなことを好きなときに好きなようにやりたい」という生き方をする。それが罪です。
罪の結果
そのような自分勝手な生き方は、自分の欲望をある程度満足させることはできます。しかし、宇宙の支配者との関係が切れているので、自分の知恵や能力を超えた状況に置かれると、「何があっても大丈夫」という平安を失うことになります。
そして、みんなが「自分の好きなことをするんだ」と思っていれば、どこかで利害がぶつかり合って、争いになります。こうして人と人とが争うようになり、その大規模なものが国と国との戦争です。
争いに勝てばまだいいですが、負ければ欲求不満や悔しさ、場合によっては死を味わわなければならなくなります。たとえ勝ったとしても、周りの人との関係は悪化します。
また、造り主との関係が切れていると、自分の価値を証明するために、私たちは何かを身につけたり、何かをしたりしなければならなくなります。勉強ができるとか、ほめられるとか、社会的に成功して認められるとか、道徳的に申し分のない生活をするとか……。
しかし、私たちは完璧ではありません。そこで、「自分には価値がある」と思える条件をクリアできているうちはいいですが、壁にぶつかると、自分はだめだという思いにとらわれてしまいます。
また、自信のない人は他の人と比較して、自分の方が優れているということを確認することで、自信をつけようとします。そこで、お互いに他の人のあら探しをし、それを責めるような態度を取るかも知れません。あなたがあら探しをするかも知れないし、あなたがあらを指摘される立場になるかも知れません。もちろん、そんなことをすれば、人との関係が悪くなります。
こうして、私たちは時に、不安や無力感、自己嫌悪といった不快な感情にとらわれてしまうことになるのです。また、そのような不快な感情を味わわせた他人や世界に対して、怒りや恨みを抱くようになるのです。
罪の問題の解決
イエスさまは、すべての人間が抱えている罪の問題を解決するために来られました。そして、「闇はこれに打ち勝たなかった」と書かれているとおり、罪の問題を解決してくださいました。
この話をお読みください。
最近、データ用の外付けSSDが壊れてしまいました。バックアップは取ってあったのですが、壊れかけの状態でコピーしたためか、最近のデータがエラーを起こして復旧できませんでした。そこで、データ復旧業者にお願いしたところ、幸いデータをすべて復旧してもらえました。
私のSSDと同じように、人間も壊れて本来の機能を発揮できないでいます。神さまに対する罪の故に、私たちは本来神さまが創造なさったときの姿から遠ざかっています。そのため、神さまとの関係、他の人との関係、自然との関係がおかしくなってしまいました。
破損したSSDをプロの業者さんが修復して、元の機能を取り戻してくださったように、聖書の神さまも罪の故に壊れてしまった私たちを修復してくださいます。イエスさまが、私たちが壊れてしまった根本原因である罪の赦しをもたらしてくださり、聖霊なる神さまが私たちを本来あるべき姿に造り変えてくださるのです。
では、イエスさまはいったいどのようにして罪の問題を解決なさったのでしょうか。
3.恵みとまことに満ちた方
十字架と復活
イエスさまは、罪の闇を打ち破る光として来られました。すなわち、私たちの罪を赦し、私たちと神さまとの関係をもう一度結び直すために来られたということです。そのために、イエスさまは、十字架にかかって死なれました。イエスさまは、十字架にかかって死ぬために地上に来られたのです。
イエスさまは、私たちが罪の罰によって滅ぼされることがないように、私たちの罪の罰を、全部身代わりに負ってくださいました。これが十字架です。本来なら私たちが受けなければならなかった罪の罰をイエスさまが代わりに受けてくださったので、私たちはすべての罪を赦されました。
復活
そして、イエスさまは3日目によみがえり、今も生きておられます。私が病気にかかって死ぬとします。その直前に次のように言うかも知れません。「私が病気で死ぬのは、全人類の病気を身代わりに受けて死ぬのだ。だから、もう人類は病気にかからない」。しかし、そんなのはただの戯言に過ぎません。
イエスさまの十字架の死が罪の赦しをもたらしたというのが戯言でないのは、イエスさまが預言なさったとおり、3日目に復活なさったからです。
信仰による救い
では、罪の赦しは具体的にどうすれば私たちのものになるのでしょうか。
私がSSDを修理してもらうには、業者さんにそれなりの料金を支払わなければなりませんでした。しかし、イエスさまに罪の問題を解決していただき、本来あるべき姿に修復していいただくのに、お金を支払う必要はありません。修行も必要ありません。悟りを開く必要もありません。良い行ないを積み重ねる必要もありません。償いとして一定の苦しみを味わう必要もありません。
私たちが罪を赦され、罪の問題を解決するのに必要なのは信仰です。
(12-13節)しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
「その名を信じる」とはどういうことかというと、次のことを信じるということです。それは、
「この私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかられた。そして、死んで葬られ、3日目に復活なさった」。
これが作り話や神話ではなく本当のことだと認め受け入れるなら、その人の罪は本当に赦されます。それどころか神さまの子どもとなり、永遠に続く祝福を受け取る権利が与えられます。
信仰の祈り
クリスチャンではない方へ
もしまだあなたが一度もイエスさまを信じる祈りをしたことがないのなら、今ここでそれをなさいませんか?
「天の神さま。私は罪人でした。あなたを信じず、あなたに従わず、自分勝手に生きてきました。それが間違いだと認めます。そして、イエスさまが私を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、復活なさったと信じます。イエスさまのおかげで、私のすべての罪は赦されて、私は神さまの子どもにしていただいたと信じます。ありがとうございます。これからは、あなたに従い、あなたの喜ばれる生き方を目指していきますので、弱い私をどうか助けてください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン」。
アーメンとは、「この祈りは真実です」という意味です。もし、あなたが今この祈りをなさったのなら、おめでとうございます。あなたはすでにクリスチャン、神さまの愛する子どもです。
クリスチャンの方へ
私たちクリスチャンは、人生のある日ある時、そのような決断、そのような祈りをしました。
しかし、その後も私たちは何度も何度も失敗を繰り返してきましたね? それでも、一度イエスさまの十字架と復活を信じて罪を赦され、神さまの子どもとなったなら、何度失敗しても救いが取り消しになることはありません。これを恵みと言います。
(14節d)この方は恵みとまことに満ちておられた。
イエスさまは恵みに満ちたお方です。私もあなたも、今そのままの姿で、神さまに圧倒的に愛されて続けています。そして、考えられないような祝福を体験することができます。そのことをいつも忘れないようにしましょう。
そして、神さまの子どもとしての祝福を味わいましょう。神さまの子どもとしての祝福を味わうのに、死んで天国に行くまで待つ必要はありません。この地上で、すでにその祝福始まっています。
この話をお読みください。
「私の父は、とてもヒステリックな人でした。自分の機嫌が悪いときには、ちょっとしたことで、私のことを、『ばか』とか『ろくでなし』とののしりました」。Yさんはそうおっしゃいました。
お父さんのこの声は、Yさんが大人になった今も、Yさんの心の中に響いてきます。そして、自分は役立たずで、愚かで、力がなくて、誰からも相手にされない人間だという思い込みから、どうしても抜け出すことができません。
牧師はYさんと共に祈って言いました。「イエスさま。今、あなたの権威によって、あの否定的な言葉を縛り付け、その影響力を取り去ってください。そして、聖霊によって満たし、父なる神さまがYさんをどのように呼んでいらっしゃるか教えてください。『ばか』とか『ろくでなし』などというとんでもない呼び名ではなく、神の子どもとしての新しい名前を教えてください」。
Yさんは、言いました。「新しい呼び名……それは『わたしの愛する子』です。『神の国の王子』です。『神の宝物』です」。その後、Yさんはすっかりあの古い呼び名の影響力から解放されました。
今日はクリスマス礼拝。私たちの罪を赦し、神さまの子どもとし、永遠の祝福を与えるためにイエスさまが来られたことを記念する礼拝です。ご一緒に感謝の祈りをささげましょう。