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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

リステラ伝道

使徒の働きシリーズ19

使徒の働き14章8節〜20節

(2025年4月27日)

第一回伝道旅行を続けるパウロとバルナバが、リステラの町で伝道した際のエピソードです。

礼拝メッセージ音声

参考資料

続きを読む 8節の「リステラ」は、小アジア中央部にあった町です。

12節の「ゼウス」と「ヘルメス」は、ギリシア神話に登場する神々です。

22節の「神の国」は、将来救い主がこの地上に実現する理想的な王国のことです。まことの神さまを信じるユダヤ人や異邦人が招かれ、幸せに暮らします。マタイの福音書では「天の御国」とも呼ばれ、黙示録21章に千年間続くと書かれているため「千年王国」とも呼ばれます。

この箇所に登場する町(リステラ、アンティオキア、イコニオン、デルベ)の場所は、以下の地図を参照してください。
<第一回伝道旅行のルート>
  • 【往路】シリアのアンティオキアとセレウキア → キプロスのサラミスとパポス → パンフリアのペルゲ → ピシディアのアンティオキア → リカオニアのイコニオンとリステラとデルベ
  • 【復路】デルベからペルゲまでは往路の逆ルート。その後アタリア → シリアのアンティオキア

イントロダクション

第一回伝道旅行に出かけたパウロとバルナバは、キプロス島での伝道を終えて小アジアに渡りました。そして、ピシディアのアンティオキア、そしてリカオニアのイコニオンで伝道した後、リステラに到着しました。

今日はそこでのエピソードを取り上げます。そして、私たちがいつも平安、希望、喜びに満たされるために必要なことを教えていただきましょう。

1.リステラでの伝道

歩けない人のいやし

座っていた歩けない人
(8節-9節前半)さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。

リステラに到着したパウロとバルナバは、生まれつき足が不自由な人と出会いました。パウロたちは、新しい町に到着するとまずユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に行って、ユダヤ人に向かってイエスさまによる救いの話をしました。ピシディアのアンティオキアやイコニオンでもそうです。

しかし、リステラでは野外で伝道を始めました。会堂は13歳以上のユダヤ人の男性が10人以上いるところに作られましたが、この町にはそこまでユダヤ人が住んでおらず、そのため会堂がなかったのでしょう。

パウロの話を聞いていた人たちの中に、生まれつき歩けない人がいました。この人がユダヤ人だったのか異邦人だったのかについて、聖書は何も語っていません。ユダヤ人があまり住んでいない町ですから異邦人である可能性が高いですが、ユダヤ人だという可能性も捨てきれません。
歩けない人の信仰
(9節後半)パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、

メッセージを語り終えたパウロは、その歩けない人の中に信仰があるのを見て取りました。つまりこの人が、パウロが語る恵みの福音を信じて救われたということです。そして、イエスさまが唯一まことの神、全知全能の神であり、奇跡さえ行なうことができるお方だということも信じたのでしょう。

ちなみに、後にパウロが第2回伝道旅行でリステラを再訪問した際、テモテが弟子となって同行するようになります(使徒16:1-3)。このテモテはギリシア人の父とユダヤ人の母の間に生まれました。そして、まず祖母ロイスと母ユニケが信仰を持ったとパウロは手紙の中に書いています(第2テモテ1:5)。そして、ロイスとユニケを通してテモテも救われたのでしょう。

ですから、生まれつき歩けない人がイエスさまの恵みの福音を信じて救われたこの日に、テモテの祖母ロイスと母ユニケも信じて救われたのだと思われます(パウロたちは帰りにもリステラを訪問しますから、その時かもしれませんが)。
いやし
(10節)大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。

パウロは歩けない人に向かって、自分の足で立つよう命じました。すると、この人はいやされて歩けるようになります。

奇跡を見た人々の反応

群衆の誤解
(11-12節)群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。

1世紀の詩人オウィディウスが書いた「変身物語」という本の中で、リステラに残るある伝説について紹介されています。それは、昔ギリシア神話の神々であるゼウスとヘルメスが、人の姿に化けてこの町を訪れたというものです。

歩けない人がいやされた現場を目撃した人たちは、再びゼウスとヘルメスがこの町に戻ってきたと誤解しました。

ゼウスは数多くいるギリシアの神々の中での最高神で、ヘルメスは神々のメッセンジャーの役割を担う神です。そこでリステラの町の人たちは、伝道メッセージを語っていたパウロをヘルメスと呼び、バルナバをゼウスと呼びました。
いけにえをささげようとする群衆
(13節)すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。

オウィディウスの「変身物語」によると、リステラに来たゼウスとヘルメスは町の人たちに宿泊を願いました。ところが、みんなそれを拒否します。ようやく二人を泊めてくれたのは、パウキスというおばあさんとその夫ピレモンでした。

老夫婦はゼウスたちを温かくもてなしました。その際、ワインを注いでも注いでも無くならない奇跡を見て、老夫婦はこの二人が神々だと気づきました。

正体を明かしたゼウスたちは、自分たちを歓迎しなかった町の人たちを呪い、町を洪水で滅ぼしてしまいました。しかし、老夫婦の家は大理石作りの立派な神殿に変えて守りました。それからこの老夫婦は神殿を守る神官となり、やがて年月が経って亡くなる時になると木に姿を変えました。

この伝説を信じていたリステラの町の人たちは、先祖たちと同じ過ちを犯してはならないと考えました。そこで、パウロたちを歓迎してもてなそうと、いけにえをささげようとしたのです。
驚くバルナバとパウロ
(14節)これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ。

自分たちがギリシアの神々だと誤解され、礼拝されようとしていると知ったバルナバとパウロは、衣を引き裂きました。この行為は、ユダヤ人が悲しみ、怒り、悔い改め、絶望などの気持ちを強く抱いたときに行なう感情表現でした。

また、神さまが冒涜されたと感じたときも、ユダヤ人は衣を引き裂きました。たとえば、イエスさまの裁判を行なっていた大祭司カヤパは、ただの人間であるイエスが自分のことを救い主だと自称したという理由で、衣を引き裂いています(マルコ14:63-64)。

パウロとバルナバは、ただの人間である自分たちが神であるかのように礼拝されることを強く拒否しました。それは冒涜に当たる行為、すなわち聖書の神さまの唯一絶対性を否定する行為だからです。
自分たちはただの人間だ
(15節)「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。

パウロとバルナバは、自分たちが神々ではなく、あなたたちと同じただの人間だと言いました。

さらに二人は、町の人たちがやろうとしていることを「空しいこと」と呼びました。それは、本当は存在しない神々を信じ、礼拝しているからです。まことの神は人間が造った存在ではなく、むしろ人間を造られたお方です。このまことの神は、この宇宙のすべてを創造なさいました。

偽りの神々を拝む空しい生活をやめて、まことの神さまを知り、まことの神さまに立ち返りお仕えすること。それをあなたたちにしてもらいたくて、自分たちはこの町に来て話をしたのだとパウロとバルナバは町の人たちに語りました。
放置されていた時代
(16節)神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。

パウロたちが福音を宣べ伝える前、神さまはご自分を信じない異邦人を放置しておられました。それは彼らを見放したということではなく、さばきを控えて忍耐深く待っておられたということです。

(第2ペテロ3:8-9)しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
  • 「約束したこと」の中に、神さまを信じない人たちに対するさばきも含まれます。
神の恵み
(17節)それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」

神さまはユダヤ人に対しては、預言者たちを通してさまざまな教えをなさいました。そして、それらの教えが聖書という形で編纂され、それを読むことによって神さまの語りかけを聞くことができます。

異邦人にはそのような語りかけはありませんでしたが、それでも自然を通してご自分の存在やご性質についての情報を与えてこられました。後にパウロは、そのことをローマ人への手紙の中で書いています。

(ローマ1:19-21)神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

特にパウロとバルナバは、リステラの人たちに神さまの恵み深さについて語りました。まことの神さまのことを無視して神としてあがめてこなかった人たちに対して、神さまは滅ぼすのではなく、食物と喜びを与えてくださいました。聖書の神さまは恵みの神、愛の神です。
いけにえをやめさせたパウロたち
(18節)こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。

二人の必死の説得を聞いて誤解を解いた町の人たちは、ようやく礼拝をやめてくれました。

その後の出来事

別の町から来たユダヤ人たち
(19節)ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。

多少のアクシデントはありつつも順調にスタートしたかに見えるパウロたちの伝道でしたが、邪魔が入りました。それは、パウロたちがリステラに来る前に訪問していたピシディアのアンティオキアやイコニオンから来たユダヤ人たちによります。

アンティオキアに到着したパウロとバルナバは、安息日にユダヤ人の会堂に行って伝道メッセージを語りました。その結果、異邦人からユダヤ教に改宗した人たちが福音を信じました。

パウロたちは翌週の礼拝にも参加しましたが、その際たくさんの異邦人が集まって二人の話を聞こうとしました。それを見たユダヤ人たちは、パウロたちに反対して口汚く罵ります。割礼を受けていない異邦人でも、イエス・キリストの恵みの福音を信じるだけで救われるということが、どうしても受け入れられなかったのでしょう。

アンティオキアではたくさんの異邦人が救われましたが、ユダヤ人たちは町の有力者たちを先導してパウロたちを迫害させ、町から追い出してしまいました。

イコニオンでも異邦人がたくさん救われただけでなく、たくさんのユダヤ人が福音を信じました。ところが、信じないユダヤ人たちが指導者たちと結託してパウロたちを石打ちにしようとします。そこで、パウロたちはその町を離れてリステラにやってきたのです。

パウロたちに反対したアンティオキアやイコニオンのユダヤ人たちは、わざわざリステラまで追いかけてきて反対運動を展開します。そして、人々を扇動してパウロたちを石打ちにしようとしました。実際、パウロは石を投げつけられてしまいます。

石を受けて動かなくなったパウロを見て、町の人たちは彼が死んだと思い込みました。そして、パウロを町の外に放り出してしまいました。
息を吹き返したパウロ
(20節)しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。

パウロたちの伝道によって救われた人たちが、町の外に放り出されたパウロの周りに集まってきました。

第2テモテ3:11に「また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました」と書かれていますから、もしかしたらパウロの様子を見に来た信者たちの中に、テモテがいたかもしれませんね。

リステラのクリスチャンたちがパウロの周りに集まってくると、パウロが息を吹き返して立ち上がりました。元々死んでいなかったのか、あるいは死んでいたのがよみがえったのかは書かれていませんが、とにかく神さまによるいやしが行なわれたのです。
パウロはリステラの町に戻りましたが、次の日バルナバと共にデルベに向かいました。リステラから約95キロ離れた場所にある町です。
その後
デルベでの伝道は大変祝福され、多くの人たちが信仰を持って救われました。

それからパウロとバルナバは、自分たちが派遣されてきたシリアのアンティオキア教会に戻ることを決意しました。そして、これまで訪問してきた町を逆のルートでたどっていきます。

こうしてシリアのアンティオキアに戻ってきたパウロとバルナバは、教会に宣教報告を行ないました。第一回伝道旅行の完了です。

それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.聖書の神のみを礼拝しよう

神以外のものを礼拝したくなる性質を自覚しよう

神さまは、自然界を通してご自分の存在とご性質について人間に示してこられました。この世界を見れば、知的な存在がいて緻密な設計の元にこの世を創造したことは理解できます。イエス・キリストという名前や、十字架と復活といった事柄については分からなくても、創造主がいらっしゃることは分かるはずです。

しかし、人間の罪の性質は、創造主であり世界を支配しておられる神さまの存在を認めようとしません。人間や世界を創造した神どころか、自分たちに都合のいい神々を自分たちで作り上げてきたのです。

この日本では、八百万の神々が信仰されてきました。あらゆるものに神が宿るという信仰です。そして、太陽が昇ったり沈んだりするシーンや、立派な大木や、苔むした大きな岩などを見ると、何だか厳粛な気持ちにさせられます。

平安末期から鎌倉初期に活躍した西行というお坊さんが、伊勢神宮に行ったときにある有名な和歌を詠みました。「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。

この何だか分からないけれども感じる「かたじけなさ」、もったいないとか恐れ多いとかいう感覚は、日本人ならではでしょう。そのかたじけないという感覚が、自然を造った神さまでは無く、造られた自然の方に向けられていたのが私たち日本人なのです。
スピリチュアルブーム
現代は、八百万の神々を明確に意識しない人の間にも、スピリチュアルブームとして偶像礼拝がはびこっています。

占いを遊び感覚で行なったり、パワーストーンやラッキーアイテムを身につけたり、パワースポット巡りをしたり、瞑想をして天使や守護霊と交流しようとしたり……。
聖書の神から離れる性質があることへの自覚
私たち日本人クリスチャンも、心のベースの所にそのような神観、宗教観の影響を受けています。「神さま」とか「イエス・キリスト」とかという言葉を聞いたり使ったりする際、日本的な何だか分からないけどかたじけない存在ではないということをしっかり意識しなければなりませんね。

そうでないと、いつの間にか私たちの頭の中の神さまのイメージが日本的神々のイメージに引っ張られて、あやふやになってしまいます。

すなわち、力の足りない弱い神さま、怒りに翻弄される感情的な神さま、約束を守らない不誠実な神さま、「これするな、あれするな」と束縛して楽しむことを嫌がる神さま、逆に何でも「いいよ、いいよ」と甘やかす神さま、えこひいきする神さま……。

そんな神を神だと考えていると、聖書が約束している平安や希望や喜びから遠ざかってしまいます。

神以上に信頼するものはないか確認しよう

特に、私たち人間には、人間を神聖視してしまう傾向があることを知っておかなければなりません。パウロとバルナバは、ギリシアの神々に間違えられて礼拝を受けそうになりました。

たとえ、誰かのことを人間に化けた神だと考えなかったとしても、神聖視して頼り切ってしまうことはよくあります。

仕事でも資格でも立場でも保険でも財産でも、私たちが安心のために手にしていたいと思うものがあります。それらを手に入れること自体は悪くありません。また、誰かを尊敬して頼ることも悪いことではありません。が、もしも神さま以上に信頼してしまうとしたら問題です。それは一種の偶像礼拝です。

2006年のショートエッセイに、次のような文章を書きました。
個人的に、ちょっとショックなことがありました。今後仕事の幅を広げようと思ってけっこう力を入れて準備してきたことが、相手方の都合で突然ダメになってしまったのです。

別に損失が出たわけではないのですが、一生懸命準備してきただけに正直凹みました。そして、神さまに抗議したくなりました。実際、少しばかり恨み言を言いました。

しかし、祈ってもイエスさまは何もお答えになりません。なぜ今回こんな事が起こったのか、そのわけも、これから先のことも、一切答えはなし。

でも、自分のことが見えてきました。その「あること」にかなり入れ込んでいた自分です。必死になっていた自分です。

別に、必死になることも、真剣に何かを願うことも、それ自体は決して悪いことではありません。しかし、私は神さまの介入を全くと言っていいほど期待していなかったと気づかされました。自分の知恵と力とで事をなそうとしていたのですね。

それは、不安だったからです。生活のこと、教会のこと、仕事のこと、人生のこと……。いろんなことが、実は不安だったからです。だから、何かを成し遂げることで、自信を付けようとしていたのだろうと思います。

「わたしの約束だけでは不安ですか?」 ようやく、イエスさまの声が聞こえてきました。「はい、不安です」。正直な(?)私は、そう答えました。「でも、あなたの約束に信頼します。信頼できるよう、助けてください」。

神さまは、こういう不信仰な祈りでも、喜んで聞いてくださるようです。最初のショックや、不平不満は薄くなり、今は少しずつ平安が心を占めるようになっています。信仰もまた、神さまからのプレゼントなのだと、あらためて思わされています。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
過去の体験
また、愛と恵みに満ちた聖霊さまが私たちの心の内に住み、私たちに影響を与えてくださっているのと同じように、過去誰かから受けてきた仕打ちが、今の自分の感情や考え、そして行動に影響を与えることがあります。
以前出会ったAさんは、クリスチャンではいらっしゃるのですが、生活に喜びや平安を味わうことができないとおっしゃいました。

そこで色々と話を聞いてみると、お父さんがすぐ感情的になる人で、よくAさんに暴力を振るったことが分かりました。また、自分も暴力を受けていたお母さんは泣くばかりで、Aさんを守ってくれなかったようです。

その影響で、Aさんの「天の父なる神さま」に対するイメージが、どうしてもゆがんでしまうのです。

ご自分を犠牲にするほどに私たちを愛してくださる恵みに満ちた神さま、私たちの幸せを願い、あらゆるものを働かせて益に変えてくださる神さまというイメージではなく、すぐにバチを当てる怖い神さま、気分次第で約束を反故にする不誠実な神さま、自分を不幸にしようとする意地悪な神さまというイメージがつきまとって、安心できないわけです。

そこで私は、聖書の神さまとAさんが勝手にイメージしてきた神とはまったく別物だということを申し上げました。そして、自分の親を重ねて勝手なイメージを作り上げてきたことを悔い改めることをおすすめしました。

Aさんは悔い改めの祈りをささげ、聖書の神さまについて教えてくださいと祈りました。その後、少しずつ間違った神さまイメージから解放され、喜びや平安を味わうことができるようになっていったそうです。

聖書に立ち返ろう

正しい神さまイメージは、聖書が教えてくれます。聖書が教える神さまから離れると、私たちは平安や希望や喜びからも遠ざかってしまいます。

偽物の神々に惑わされないようにしましょう。スピリチュアルブームにも乗っからないように気をつけなければなりません。そして、心の中に作り上げた、勝手な神さまイメージにも注意しましょう。

私たちは、自分の中に、まことの神さまから離れる性質があることを自覚しましょう。そして、いつも聖書の神さまに立ち返りましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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